番外144.久慈川下流域の神社と風神山 | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

地図ソフトカシミール3Dで、前方後円墳の軸の方向や神社の向きを調べることにはまる時がままあるのだが、最近行った東海村石神外宿の住吉神社の後方延長上には、日立市の風神山があることに気がついた。

風神山は常陸太田市小島町の星神社古墳の軸の向かう先だったことはすでに記事にしている。

これまでの神社探検で、何社かの軸上に風神山が来ていたことはわかっていたので、まとめとして記録しておこう。

 

風神山は茨城県日立市の南部に位置する山で、阿武隈山地の最南端にあり、太平洋や茨城県南部の平野部が見渡せる眺望の良いところだ。

つまり、見張り台には最適だと思われる低山なのだ。

標高は150m程度。

今では、日立製作所の巨大な日立研究所が異様を誇っているので、水戸方面からロッコク(国道6号)を北上してくれば、否応なく目に入る。


  神代においては、いや、おそらく光圀が考えたところの神代においては、まつろわぬ神香々背男が本拠地にしたところである。光圀、彰考館は常陸国の歴史を作り替えたことは濃厚だろう。静神社の古文書などは、香々背男が女装して逃げようとしたとまで書いてあるそうだ。「あるそうだ」と他人事のように書くのは、その本を買おうとしたのだが、江戸時代に書かれた古文書だと聞いて買うのをやめただからだ。わたしは古代史の真実を追求してるのであって、光圀の古代観を調べているのではないのだから🧐😂。

彰考館は、他にも神社の由緒書をでっち上げている。

これは水戸領に限ったことではない。徳川幕府の名の下で密かに実行された、とわたしは見ている。

そう、密かなのだ。だから証拠はない😂


風神山は遺物が発掘されておらず、奈良、平安時代の特筆できる歴史は知られていないが、鎌倉から室町時代にかけて隆盛した、常陸五山という山岳信仰の入山地区に当たる。

神社で言えば、大甕倭文神社になりそうなのだが、常陸五山には含まれないし、最近トミに有名な御岩神社(薩都神社奥宮)も含まれないのだ。

同じ山筋にあるというのにだ。

常陸国風土記にも載っているというのニダ。(石となった遺物がたくさんあるという記載だが)

常陸五山とは、真弓山(真弓神社)、東西金砂山(金砂神社)、竪破山(黒前神社)、花園山(花園神社)だが、比叡山の流れを組む両部神道の寺社群だ。

今でも那智山青岸渡寺の山伏が参拝している。

常陸五山という名称がいかほど浸透しているのかは、浅学のわたしにはよくわからない。

鷲子山神社まで含めて常陸六山と呼ぶのが良いのではと思うけどw

佐竹研究会の講義でも、常陸五山と佐竹氏の関係をあまり聞いたことはない。

比叡山と言えば、園城寺(三井寺)新羅明神で元服した、新羅三郎義光である。常陸佐竹氏や甲斐武田氏の祖である。比叡山と義光は切ってもきれない縁で結ばれているようだ。

異母兄に園城寺の僧侶になった快誉がいる。

快誉の影響が少なからずあったとは考えられるものの、詳しくはわかっていない。

ある説によれば義光は園城寺の金庫番だったらしい。

園城寺は比叡山の東塔、西塔、横川の地主三聖のうち、横川に関わっているように思える。

横川の宝珠上人が、東西金砂神社や鷲子山上神社を作ったことになっているのだ。やっぱり常陸六山だべ?

常陸五山と鷲子山上神社はすべて式内社でも式外社でもない。

つまり、927年までにはまだ創建されていないようだ。由緒では大同元年、二年になっているけれども。

義光が生まれたのは、1045年とされているから、延喜式が完成してから120年後となる。

その頃常陸国では平将門が乱を起こしていた。


義光が常陸国や磐城国に関係してくるのは、後三年の役(1083〜87)が終結をみてからだから、1087年以降だろう。厄年を迎えた頃だろうか。

義光は磐城国菊田荘を手に入れた。

今のいわき市勿来町酒井あたりだ。

近くには蔵皇神社や菊田神社がある。

ここは、常陸国から陸奥国につながる交通の要衝で、本当の勿来関があった場所だろう。

勿来関と勘違いしてしまう今の勿来の文学歴史館は、いわき市が観光目的で整備した、なんのいわれもない場所なのだ😂

さて、酒井から西に向かうと花園山がある。

ここから琴御館宇志麿が、滋賀大津の唐崎神社経由で、日吉大社の西本宮に祀られるオオナムチを勧請したのである。時代は天智天武の頃だ。すなわち670年ごろ。

花園山から東をみてみれば、GWの時期にお船祭りで有名な常陸大津がある。港である。

大津繋がりは単なる偶然なのだろうか?😂㊙️

その琴御館宇志麿をわたしは以下のごとく分析した。

琴→         事

御館→城→代

宇志麿→   主


さらに、琴御館→琴座のベガは七夕の織姫である。

彦星はと言えば、鷲座のアルタイルだ。

ベガは止まっている鷲だ。

アルタイルは飛翔する鷲である。

鷲と言えば天日鷲!

なので、事代主が天日鷲になるとわたしは分析した。💪

常陸六山wwの鷲子山上神社の祭神である。

足立区花畑の鷲神社の祭神は、天日鷲と日本武尊と、なんと新羅三郎義光になっているのだ!

あー、証拠はないよ、証拠は。文献至上主義者

のいう証拠はww

だけども、義光が比叡山、日吉大社に関係あるには違いない。

 いわき市瀬戸町にある真弓神社は、義光の孫の佐竹昌義が常陸太田市の真弓神社を勧請し、初代宮司を勤めたらしい。

だとすれば、昌義以前に真弓神社は常陸太田にあったのだ。延喜式ができた927年から1100年くらいの間に常陸五山はできたらしいと推測できるし、義光がらみならば1090年ごろの開山だと思われるのだ。

その時、昌義はいわきにいたのではないのか?

さて、昌義はどこで生まれたのだろうか。

ちなみに母は平氏で、今の水戸市の吉田町出身だが。

甲斐武田の祖義清の母は甲斐の人のようだ。

いわき市菊田に嫁入りしたのかね?

それとも鎌倉で生まれたのかね?

妻問婚と嫁入婚の端境期に当たるので、なんともわからない。


①常陸太田市幡町長幡部神社

 

 

 

 

 

 

 

②常陸太田市磯部町熊野鹿島神社

 

 

 

 

 

③常陸太田市岡田町熊野神社

 

 

 

 

 

 

④常陸太田市大森町鹿島神社

 

 

 

 

 

この鹿島神社は、風神山に正体しているから、御神体が風神山ではなくて、鹿島の神が風神山を見守っているか、監視しているかの両方考えられる。

武甕槌と長髄彦で、安日長髄彦だと理解したわたしには、見守っていると考えるのが妥当だろう。


⑤東海村石神外宿住吉神社

 

 

 
 鹿島神社を除き、社殿の後方には風神山がある。
つまり、参拝者は風神山を拝むことになるのだ。
だから、わたしは風神山が御神体だと考えたのだ。
その意味とは、風神山に坐す「モノ」が、それらの祭神、創建者、にとって尊崇するに値するからだと考えた。
光圀史観によれば風神山は香々背男夫婦の牙城であった。
かっくん系図によれば、香々背男は長髄彦だった。😂
長髄彦の父はスサノオであり、母はクシナダヒメだった。そして長髄彦の双子の妹がコノハナサクヤヒメだとしている。
長髄彦の奥方はオキツヨソタラシヒメだ。
オキナガタラシヒメ(神功皇后)は当然彼らの子孫になる。石神外宿の住吉神社の祭神だ。
住吉の表筒男は安曇磯良=屋主男武雄心=ヤマトタケルだ。底筒男は開化天皇、武内宿禰で神功皇后の夫で良いだろう。だからわれわれ的には仲哀はいない。中筒男=崇神もいない。彼ら2人は中臣によって長髄彦や天日鷲やヤマトタケルから作られたと考えている。
長幡部神社の祭神、カムハタヒメは静神社の建葉槌
の子だった。建葉槌は天日鷲の子だった。そして天日鷲の父は天背男となっている。どう見ても、天香々背男だろう。(かっくん系図では天日鷲は娘婿)
五十部神社は熊野鹿島神社で、熊野と言えばケツミコ、すなわちスサノオで、長髄彦の父である。
鹿島は武甕槌で、コノハナサクヤヒメの夫で長髄彦にとっては義理の弟になる。
とまぁ、こんな感じにメモしておこう。