番外96.茨城県常陸太田市花房の伊勢神社の動画。 | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

祭神はアマテラス。でも男千木。
伊勢外宮も男千木。
だけど祭神は表向きは豊受。
アマテラスを天照国照彦火明櫛玉饒速日命 としたいグループもあるが、普通に考えれば、外宮こそがニギハヤヒになるはずだ。
百嶋系図では、ニギハヤヒは豊受の旦那になっている。
豊受は初めタケミカヅチと結婚したが、すぐに別れ、ニギハヤヒと晩年まで過ごしたと、音声資料で聞いたが、茨城の神社からは一向にそんな気配は感じられない。
福岡西浦のシラギ神社だったかな、ヒョーカリーライの囃し言葉が、タケミカヅチ族を罵る内容だと言っていた。
ヒョーカリーライの意味は、「黎族のバカヤロー、来るなら来てみやがれ、やっつけてやる!」とかなんとか。(脚色大😆)馮か黎来?
「か」の漢字は、記憶にない😂

さて、花房の地名を、光圀さんの所業を考慮して考察しなければならないが、建葉槌を祀る神社に、高房神社がある。
鹿島神宮でも第一の摂社になっていたはずだ。
その高房と花房の関係性や、話は飛ぶが、房と総の語源であろう、麻やカラムシ(苧麻)の関係も考慮しなければならない。

私は、タケハヅチを活玉依姫=だと推定した。
タケミカヅチの孫になるだろう。
夫はヤマトタケル のひとり安曇磯良になるとした。
安曇磯良は、記憶では、常陸の海から京に出向いた。
神功皇后の三韓征伐の道(海路)案内役をしている。
なぜか常陸の海なのだ。
少しだけ、範囲を広げて考えてみよう。
ヤマトタケル は、走水(浦賀水道)で水難に遭い、弟橘姫によって救われた。
弟橘姫は海に身を投げた。
→安曇磯良は海の底から上がってきた。
弟橘姫は安曇磯良として復活したと考えられないか?
真鍋大覚によれば、安曇磯良は女らしい。
福岡子犬丸の八幡古表神社の黒男につながるだろうと、私は考察した。
もしかしたら、伊勢とは磯であったのかもしれない。イセ→イソ。
そして、衣通姫もその文字からイソ通る姫と解釈できた。
衣通姫は活玉依姫=弟橘と推定した。
三角波をアイヌ人はイセポと呼んだ。イセポとはウサギであった。
だから私は海進により、海岸線になると予測した神社にウサギと波の彫刻を探した。
今でも漁師は波が荒れることを、ウサギが飛ぶというようだ。
伊勢がウサギなら、宇佐もウサギだろうと予想はできる。
だから、針摺瀬戸は真鍋大覚のいう3000年前よりも時代は下がって良いのではないか?
空海の宇佐抑留を考えると、800年ごろの話になるのかも知れない。
と、まぁ、伊勢神社で考えた次第である😆

記事の引用はフリーですが、引用元をきちんと表記してください。