番外38.百嶋神社考古学とはなにか―エイプリルフールの日に | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
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百嶋資料を入手して、はや3年がたちました。

インターネットで丸に剣カタバミを家紋とする河野姓の先祖探しをしていた時に、たまたま巡り合ったのでしたが、当時の興奮をいまだにありありと思いだします。

 

その資料にはわれわれの住んでいる、茨城県北部の鷲子山神社や金砂神社、それから西部の鴨大神御子神主玉神社、筑波山神社、南東部の鹿島神宮、息栖神社、利根川を越えた千葉県の香取神宮、さらに南の玉前神社、栃木県の賀蘇山神社、などが出てくるのですから、関東に住むわれわれにとっては驚愕以外の何ものでもありませんでした。

この3年のあいだ、われわれは県内を中心に取りつかれたように神社を見て歩き回りました。当初はそれ以前からの参拝という形、つまりスピ系で培った作法をもって、わずかばかりのお賽銭を投げ入れ、二礼八拍手一礼をして、敬意を表しながら、を取っていたのですが、神社に祭られているとされる「神」のでたらめさ加減を理解した今では、決してそんな愚かなことはしておりません。

「神」とは国家神道が創りだした、現人神としての明治天皇だったのですから。そもそも平安時代に八幡神が登場してからというもの江戸時代までは神仏混淆が主でした。

 

ほとんどが欠史八代の神=実在の人間を祀ることに気付き、更には奈良時代や平安時代に創建されたとされる、実際は江戸時代の国学の流行時や、伊藤博文長州レジーム=田布施朝鮮人部落支配の始まった明治時代につくられたインチキ由緒によって、為政者のご都合でねつ造された祭神を拝むわけにはいかなくなったのです。(こっそり本物らしい存在とは繋がっていますが🤫)

明治時代の中心人物伊藤博文は越智氏だと言われていますが、正統河野氏=正統立花氏(卑弥呼宗女イヨと御年=孝霊天皇の子孫)としては、到底認めるわけにはいきません。(笑)

だからわたしは、番外21.大山祇系統は高木系(分家)に下剋上されたのか?なる記事を書くことになったのです。

 

メッセージボードにも書いたように、現在蔓延している全世界のすべての宗教は、「依存心と射幸心と恐怖心」を植え付けるために、為政者のご都合主義で創作、捻じ曲げられたものと理解したのですから、スピ系時代のように何らかのわずかばかりの「射幸心」を満足させることは、全くなくなっています。

わざわざ、わずかばかりのと書いたのにはもちろん理由があります。

それは、スピ系も考えが深くなってくれば、結局は森羅万象は自分の受け取り方、対処の仕方によって状況が変化するのだ、という簡単な真理の一つに気が付いてくるからにほかなりません。事象は私に関係なく起きるものが大半を占めるにもかかわらず、われわれはそれに大きく影響されて喜怒哀楽が発生しているのですから。森羅万象があなたに原因があるとしてしまう考え方の人を、加藤諦三は「燃えつき症候群」と表現しており、反対の「きずな喪失症候群」の輩は本能的にそれを察知し、あなたを利用します。簡単にいえば、これが現政権のマインドです。リチャード・コシミズはこれを「朝鮮悪」と命名していますね。

 

ところで、私の考えていた「神」は他の人と同様に「絶対他者」=THE GODのようなものだったのですが、そんなものが私に影響を与えるはずはない、あるならばそれは自分の高次の存在、それを守護霊と呼ぶ人もいる、だけどそれは未来の成長した自分のことではないかとの想いに至ったわけです。「絶対自己」とよんでもよいかもしれません。肉体に束縛されない世界には時間も空間もない。これこそが真実でしょう。ただし、村上和雄氏の言うsomething great を否定することはありません。

 

さて、本題に移りましょう。

百嶋神社考古学とはなにか、を簡単に言い表せば、それは鹿島曻である、ということです。

鹿島曻の説を神社を調査し確認する事だったのです。たったの二行で本稿のメインテーマは終わってしまった(笑)


2020.12.20追記

(もう一人、川崎真治さんを付け加えておきます)


簡単に鹿島曻の考え方を知るには.松重楊江(まつしげ ようこう)著「日本史のタブーに挑んだ男」をおよみになることをおすすめします。



系図だけ見て、何百枚もの資料を読みこんでいない研究者の方には到底及びもしないことです。都合のいい系図だけを見て、系図間の矛盾に気が付かない人達は、いつまでも九州王朝の呪縛からのがれることはできないようです。地方創生が国家戦略の一つと数えられている昨今では、「おらが村」意識もわからないではありませんが、百嶋資料に敬意を表しているのであれば、真実を追求しなければなりません。

メソポタミヤに目を向けなければなりません。インドに目を向けなければなりません。

明治新政府が拡散した、神功皇后神話から脱却しなければなりません。百嶋先生は古事記のほとんどはでたらめ、日本書紀はまだそれよりはましだと言っているではないですか。研究者の自覚があるのなら、身びいきご都合主義はいい加減やめにしましょう。郷土史研究者ならそれでも良いでしょうが。そのマインドが宗像神社の沖ノ島世界遺産登録や第二のモリトモ疑惑、宗像市の志明館小中学校の建設につながってきてしまうのです。日本会議=朝鮮悪=大日本帝国復活思想につながってきてしまうのです。

 

われわれアマチュア研究者は、生活のために仕事をしなければならないし、その収入の中から研究費をねん出することは、現実問題として大きな障害にもなっています。

歴史研究は一次資料を元に行え、なんてことをアカディミズムでは常識にしていますが、そもそも古代史において一次資料なんてものは存在しません。木簡を除いたら、古くても鎌倉時代に書写したものしか残存しないのですから、この指摘はまったく無意味です。その木簡でさえ奈良時代までしか発見されていません。鎌倉時代の歴史でさえほとんど一次資料がないのが実情です。だれかが江戸時代に書写したもの(たとえば常陸国風土記のように)を一次資料と呼ぶのは間違いでしょう。そんなねつ造古文書に執着しているより、多面的な視点から総合的に推測する手法が、より真実を解明する良い方法だと思いますがいかがでしょうか。だから現地をみなければならない。



本物の橘一族なんて九州にいるわけがないでしょう。せいぜい戦国時代に国替えさせられて出戻った人たちです。宇都宮氏はどこが本貫ですか。源平藤橘の虚構に気が付かなければなりません。ハベク会議や第二次高木グループの詭弁を見破りましょう。

本当に重要なのは、ハベク会議が作ってしまった被差別地域でしょう。この方達が九州王朝の時代の最も正当な人たちでしょう。

 

橘の祖は誰だと百嶋先生は言っておられるのでしょう?神主玉ですね。

その神社はどこにあるのでしょう?茨城県桜川市(旧岩瀬町)ですね。

60数年にも及ぶ百嶋資料をよく分析しましょう。一次資料に固執するかたは、暇つぶしなら良いですが、真実を追求するのなら先人の遺した貴重な資料を読み込みましょう。海神がなぜワダツミと呼ばれるのか、WATERツ神と発想もできないようでは一次資料から真実を導こうなど、人類がバンアレン帯を克服して月面着陸するようなものです。(笑)

 

われわれは真実を追求しようとしない人たちとの決別を宣言いたします(笑)って特にコンタクトとっている人はほとんどいませんけど。

 

息長宿禰王とはおそらく孝元天皇です。イヨと御年=建御名方の子です。ハベク会議が創作した名前です。

わたしはなんと親切なのでしょう。この後に及んでもヒントを与えてしまった。(笑)

 

合言葉はGBM‼️

Go beyond the momoshima's works&kashima’s works!

 

 

 

百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野克典まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp

 

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