番外21.大山祇系統は高木系(分家)に下剋上されたのか? | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
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私の苗字は「河野」です。コーノではなくカワノと読んでいます。

中学生の頃に一枚のはがきが配達され、河野姓はもっとも格式の高い名字だ、というキャッチコピーが目に入りました。

そのDMは河野姓の人に本を売るためのものだったようですが、40年以上も前に3千円?もする本を買ってくれ、と親にねだるわけにもいかなかったので買わずじまいでした。

(今でもその本を探しているのですが見つかりません。どなたかご存知の方がおいででしたらご一報を)

その頃からです。

河野水軍という瀬戸内海に本拠を置いた一族が、なぜ茨城の山奥に住んでいるのかが不思議に思うようになったのです。

そして時は経ち一昨年ネットで検索をしている時に「百嶋CD」に巡り合ったのでした。


茨城県の河野姓の分布を「河野という名の分布地図」さんのHPより引用し追記してみました。





私の住む常陸大宮市北西部(旧美和村、旧々嶐郷村)では、河野、川野、河埜の三種類のカワノがありますが、一軒たりともコーノと読む家はありません。その中で最も多い家紋は丸に剣方喰。左三つ巴紋を使っている家もあります。その家は三木さんもとなりに住んでいるで、伊予系河野氏であると考えて良さそうです。(字谷熊地区)


川野は鷲子(とりのこ)字鳥居土に数件あり家紋は「丸に剣方喰」。




私の家の家紋 丸に剣かたばみ

谷熊地区の河野家の家紋 左三つ巴

     

おおよそ50件中45件が河野の部落内(仲河戸:なかごうど)の氏神様は三嶋神社と稲荷神社で、もう少し広い地区(三河戸地区)の鎮守様は諏訪神社(66.常陸大宮市諏訪神社探検記参照 )です。


  

 部落内の氏神様               氏神内の奉納額 河野と川野


常陸大宮市内にはもう一カ所「河野」の集落があります。上大賀(かみおか)地区で家紋は「折敷に三文字」のようです。ひたちなか市や東海村の河野氏はカワノでやっぱりこの紋を使っているようです。

日立市久慈町の河野はコーノと呼んでいて、この紋を使っています。旧北浦村の河野は不明です。

行方市(旧北浦町)の河野家の家紋は、折敷に(縮)三文字でした。(H29.9.8現地確認)



「折敷に三」の画像検索結果 


大山祇神社の神紋はこの紋です。河野水軍もこの紋や折敷に三文字を使っていました。

上記の分布図をみれば、河野姓は久慈川、那珂川、霞ヶ浦の沿岸に多く見られます。水軍の末裔らしい分布となりそうです。

百嶋先生は、河野は霊天皇「孝の」であるから、本来の読み方はコーノだと説明されています。

まず系図をご覧ください。



 


河野(=越智)氏は、匈奴(トルコ)系金越智(=ウマシアシカビヒコチ)系統が一方の祖となります。

金越智-大山祇(妻:埴安姫)-神大市(カムオチ)姫-大目姫(天受目=倉稲魂)-伊予(卑弥呼宗女)。

もう一方は、神武天皇-懿徳天皇-孝霊天皇と続き、伊予との間に孝元天皇と伊予皇子をもうけます。

この伊予皇子が河野氏(=越智氏)になって行くのです。

このことが、40年ほど前のDMに記された「高格式」のキャッチコピーにつながってくるのでしょう。

埴安姫は白族(アーリア系=ペルシャ系)であり、その子神大市姫(=ミズハノメ)はスサノヲとの間に大目姫を儲けます。そして百嶋系図では大目姫は出自不明な山幸彦(ニギハヤヒ)との間にイヨを儲けたことになっています。

とりあえずこれを覚えておいてください。

さて、河野姓の氏神様である瀬戸内海大三島の大山祇神社は日本総鎮守とも呼ばれています。

WIKIから概要を引用します。

祭神は大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)

別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。

元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の

神としての性格も強い。

大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。

大山祇神社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記されたように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。

『大三島記文』(社伝)

大山祇神子孫の小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。

『伊予国風土記』逸文

大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。

その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話による説があるが、いずれも確証は欠く。摂津国の御嶋は三島江(三島鴨神社)が定説だが、鴨神社(式内社三島鴨神社の論社)ともされる。

『予章記』・『予陽河野家譜』

越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとする。

境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。


上記赤文字に注目しましょう。

まずは和多志大神です。これは「渡し」の大神でしょう。つまり船を操るということです。

山縣明郷氏の「卑弥呼の正体」によれば、当時半島に百済などという国は存在しませんから、この逸文は史実ではないと考えられます。

しかし問題は後半、大山祇神社は摂津国(今の大阪府)の御嶋(三嶋鴨神社か鴨神社)が元宮だと書いてあります。

では摂津の御嶋(みしま)、三島鴨神社と鴨神社について調べます。

まず三島鴨神社から。WIKIより引用します。

三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)は、大阪府高槻市にある神社。式内社論社で、旧社格は郷社。

社伝では、伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社とともに「三三島」と呼ばれたという。また、日本で最の三島神社(山祇神社)とされる。

現在の祭神は以下の2柱。


大山祇神 (おおやまづみのかみ)

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座」していたという。

「津の国の御島」とは摂津国三島(現 高槻市三島江)を指すとされ、この記述によれば大山祇神社(愛媛県今治市)の祭神は元々は当地の神とされる。なお、この「大山積神」記紀の記す大山祇神と別の神格であるという指摘もある


事代主神 (ことしろぬしのかみ)

事代主神は鴨氏の氏神とされ、当地に鴨氏の進出が背景にあるとされる。

『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)もとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。

三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。


系図では大山祇と事代主は直接的な関係はなさそうです。一般的には大国主と事代主は大黒と恵比寿の対の神として有名であり、系図上では大国主は大山祇の子になっていますから、大山祇と事代主の関係はここにありそうです。


次に鴨神社。

鴨神社(かもじんじゃ)は、大阪府高槻市にある神社。式内社論社で、旧社格は村社。

祭神は、

大山積命 (おおやまづみのみこと)

伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)

伊弉冉尊 (いざなみのみこと)

鴨御祖大神 (かものみおやおおかみ)

祭神について『神社明細帳』等の諸書では大山積神とされるが、後述のように当社を式内社・三島鴨神社とみる説では、祭神は鴨氏の祖神とみられる。また、当地は三島県主が勢力を持っていた所であることから、その祖神を祭神とみる説もある。なお『新撰姓氏録』では、三島県主後裔の三島宿禰(右京神別)と賀茂県主(山城国神別)は同じ祖先と伝えている。


ご覧のように大山祇神社の元宮では渡しの大神、鴨氏の祖神、事代主を祀っていることが判ります。

渡し(舟)から鴨を想像することができますか?

水面を静かに泳ぐ鴨は葦船とそっくりです。


「葦舟」の画像検索結果「鴨」の画像検索結果

カムナ葦船プロジェクトさんのHPより引用

神話で蛭子を乗せて流した船が葦船でした。

それでは鴨氏=賀茂氏=加茂氏の祖神とは誰になるのでしょうか。

百嶋系図では鴨系は鴨建角身(カモタケツヌミ=豊玉彦):父、鴨玉依姫:娘、賀茂別雷:孫(ツルガアラシト=崇神)と続きます。

カモタケツヌミもツルガアラシトもスサノヲやモーゼのイメージが付きまといますが、このイメージは真実追求にはとっても有効になります。

さて、大山祇は金越智(ウマシアシカビヒコチ)の子であり、高木系(高皇産霊系=許氏、高氏)が許黄玉を金朱露に嫁がせ親戚になっています。高木本家は男子が出家したため子孫ができません。そこで越智家から養子を迎え家系をつなぎます。そして八萬大蔵経を奉斎する大伽耶の王となり、系図上のニニギ、𣑥幡千々姫(タクハタチチヒメ)、萬幡豊秋津姫(ヨロズハタトヨアキツヒメ)になっています。

このあたりは記紀をもとにして創作したと思われる三国史記からの系図で予想できます。






大山祇神社の秘密を明らかにするには𣑥幡千々姫がキーとなります。


百嶋系図通りとすれば、𣑥幡千々姫は草部吉見(ニギハヤヒA=海幸)との間に天豊津姫(アソツ姫)を儲けたことになっていますが、ジツは彦火火出見(ニギハヤヒB=山幸)と婚姻し大山咋(喰)を儲けたのではないかと考えています。(詳しくは別稿で説明予定)


海幸が身分を上げた話の半分は山幸のことと考えたのです。

これはニギハヤヒA,Bと擬神体にしていることからの発想です。

山幸彦は神話では海幸彦と兄弟で、木花開耶姫と天孫ニニギの子になっていますが、百嶋系図では出自不明です。

父も母も不明なのです。

これを明らかにせずにその後の系統を検証することはできません。

したがいまして、とりあえず推測から進めていき、整合性を確認する方法を採ることにしました。

最初に思い浮かべることは、擬神体、海幸の父が山幸の父ではないかということです。つまり神沼河耳となります。

しかし、神沼河耳(高靇:たかおかみ)は「沼・河」から女性の名前ですから、本当は別の名前を持っているはずなのですが、この名前は、神俣姫(闇靇:くらおかみ)からのものでしょう。


しかし、母親は不明です。

神俣姫ではありません。白氏の女ということにしておきます。(白氏は白族とは異なることを留意して下さい。

白丁の白です。昔の半島では汚れた人と言われていたようですが)神沼河耳は神武天皇から皇后のアイラツ姫(=アカル姫)を下賜されたことになっていますが、本当は略奪だったのだろうと思われます。

アイラツ姫=アカル姫という仮定は神武がスサノヲだったことを意味しています。

しかし本当はアカル姫が天皇(集団の象徴)でスサノヲは補佐をしていたと考えています。

この時にアカル姫を奪回したスサノヲは本邦初めてといわれる歌に残しています。


八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を


詳しくは宮古の縁側日記 八雲立つ 参照

この時の神沼河耳とアイラツ姫の子が大国主になると考えます。

ここで山幸彦と大国主が母違いの兄弟と推定されることになります。

卑弥呼から始まる九州王朝と呼ばれる集団は開化天皇まで女性がトップのような印象を持っています。

ミトラを奉斎する集団は平和的ですから、縄文とも融合しやすく合議制が基本と思われ、象徴は女性がふさわしいのです。

神沼河耳はヘブライの最下層民、河伯(ハベク)、河童であり、新羅系図で言う朴氏になります。

前述の新羅王系図の左上部にある南解次次雄がナカツツオ(=中筒男=崇神)と読めることに注目して下さい。

朴氏は「河原よもぎ」「河原なでしこ」「鉄奴隷」「白菊」などと呼ばれていました。


宮古の縁側日記 龍族大国主の複雑な事情②参照


劉氏の延陀彦(エンダヒコ)→塩田彦→猿田彦→ソルト彦→サルタ彦

高木系の大きな特徴の一つにフェニキア語(≒英語)を使うことが挙げられます。

新田原をニュータバルと読むことはその一例です。新盆をニューボンと読むこともそうでしょう。

ついに山幸彦、大国主、崇神が繋がりました。

系統的には山幸彦と崇神の間には大山咋が入ってきます。


詳しくは宮古の縁側日記 龍族大国主の複雑な事情③を参照ください。


現時点での結論。

大山祇神社は山幸彦を祖とする「賀茂氏」を標榜した崇神系が作った神社であり、大山祇は架空の存在である。

したがって大山祇神社を氏神とする「河野氏」は「霊天皇」コウノではないことになりそうです。

河原よもぎの生える野ということになってしまいます。

しかし私は「河野」ですから「ハベク」の子孫で終わるわけには行きません(笑)

見栄を張らなければなりません(笑)

(でも子供のころのあだ名はカッパだったんだよね~)


さて、それでは「霊天皇」の孝霊天皇とは系図内の誰に相当するのでしょうか。

もちろん孝霊天皇は孝霊天皇そのもので、ほかの人に相当する必要はないと考えるのが一般的でしょうが、われわれは神武をアカル姫(アイラツ姫、神大市、櫛稲田姫、萬幡豊秋津姫)を補佐するスサノヲ(=豊玉彦の一部)だと考えているように、懿徳や孝霊、孝元、開化も本来は女性で、それを補佐する夫である男がそれらの正だと推察しています。

これまでの百嶋資料による研究から、スイゼイ、安寧、孝昭、孝安、などは記紀を編纂した藤原氏により創作された天皇だと捉えています。

孝霊は百嶋メモでも「近づかないほうが無難です。」と書かれているほど難解です。

よく言えば柔軟性のみがそれを打開する資質になるでしょう。悪く言えば、都合よく解釈するということになりますか(笑)


さて、イトクの本命は長髄彦です。ニニギ(山幸あるいは大国主)、海幸も該当しそうです。そのときの象徴天皇はオキツヨソタラシ姫になります。

孝霊は上記系図でも二ヶ所に書かれています。

上段の孝霊は、御歳神が順当です。大国主系とスサノヲ系の合体です。このときに列島は一時的に平安が訪れました。

その後ろには、彦太忍信と鴨玉依姫のコンビが控えています。

さらに対抗勢力の崇神系のウガヤと下照姫のコンビも該当します。

つまり上段の孝霊はイヨであり鴨玉依姫であり下照姫であったということができそうです。

下段の孝霊は安曇磯良(=ヤマトタケル)とハエイロネ(加邇目雷王)、ハエイロチ(弟橘姫)となります。

河野の元になった孝霊天皇はイヨ系とヤマトタケル系に分けられるのかもしれません。

コーノから転化した高野はウガヤ系になりそうです。


お願い:現在においてこれらの苗字を使われる方々を誹謗中傷するものではありません。

過去においてこういう歴史があったのだということを客観的に研究しているということをご理解ください。

いずれにしても現在生きているわれわれは、戦国時代や明治維新を経過しているのですから、だれもがその血を引いています歴史研究において被差別問題をタブー視してしまうと、真実は見えてきません。

現憲法ではすべて国民は平等です、などという建前論をいうお偉方こそもっとも国民を差別し、既得権益手放さない、1800年前から脈々と続く輩だと強調しておきます。


 百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。 

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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