47.大洗磯前神社と酒列磯前神社探検記(ひたちなか市、大洗町) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

今回の探検は東茨城郡大洗町磯浜町の大洗磯前(おおあらいいそざき)神社とひたちなか市阿字ヶ浦の酒列磯前(さかつらいそざき)神社です。どちらも延喜式内、旧国幣中社になっています。

両社は兄弟社と言われており、祭神は大己貴命。少彦名が配祀。由緒も同じです。


由緒沿革によれば、

第五十五代文徳天皇斉衡三年十二月、磯浜の海上に中夜天をつく光怪を一製塩者望見し不思議に思い、翌日海浜に出て見ると尺余の奇石があった。翌日また見ると二十余の小石、形沙門に似て耳のない二奇石を囲んで侍坐している。

時に神、人に依りて語る「我は大己貴、少彦名なり。この国をつくり固めてからしばらく東海に去っておったが、今また民を救わんとして此処に来たのだ」


中略


古来「薬祖神」として医師、医薬業関係者の信仰篤く、また「醸造の神」「漁業の守護神」「産業守護神」として広く篤い崇敬者層がある。



この由緒は16.東海村豊受皇大神宮の由緒と似通っています。

こちらの由緒は

相伝、和銅二年四月七日、那珂郡平磯村(今のひたちなか市平磯)前浦に一巨巌惣然怪光を発し、白方の郷を指す。時に神、人に憑(のりうつり)て曰く、宜しく伊勢神を迎うべしと、乃ち教に遵(したが)うて祀る。

即ち此祠なり、巨巌後世これを神座石と名付く。今現存す。


どちらも怪しい光を発した石が現れ、人に乗り移って語っています。

どちらかが真似をしたものと考えられます。

というより、同一の勢力が、それぞれの神を奉斎するための詭弁ではないかと感じられてしまいます。


豊受皇大神宮の方は一巨巌惣然怪光を発した「護摩壇石」(後に光圀が仏教の影響を排除するために浄石、神坐石と改名している)で、こちらは伊勢神を祀れと語っていました。


磯前神社は斉衡三年(西暦856年)、豊受皇大神宮は和銅二年(西暦709年)に発生しています。

豊受皇大神宮は16.東海村豊受皇大神宮探検記で考察していますが、藤原氏が最初の黄金期を確立する時期に当たり、まさに平城京に遷都しようとしている時でした。

豊受にくらべ古い創建ではないようですし、立派ではあるのですが、これと言った注目点はなさそうです。

境内からの見晴しは、私のように山間部に居住している者にとっては目を見張るものがありますが、そういうロケーションを選んでつくった観光神社と言う感は否めません。

大己貴と少彦名を祀っているということは、国土開発に尽力したという「創作された記紀神話」ありきで創建されたと考えてよさそうです。

われわれは、神社名に「前」が入るとautomaticに前玉姫=木花開耶姫を連想してしまいますが、はたして大洗磯前神社は前玉姫が関連しているのでしょうか。


 鳥居より太平洋を望む


 随神門


 

 随身、右側の随身の方には亀甲紋が見えます。


 拝殿


 扁額と拝殿内部


 

 拝殿の彫刻 麒麟1                    拝殿の彫刻 麒麟2



 本殿 茅葺 千木は男千木


 境内配置と説明の立て看板



これによれば、大己貴、少彦名はそれぞれ大黒様と恵比寿様として扱われていますが、事代主を恵比寿としている神社もあり、そこから少彦名が事代主であるとしている神社もあるようです。


神社庁ではこんなことは明らかに判別しているはずなので周知を図ってもよさそうなのですが、こういう紛らわしいことは各神社の自主性に任せており、隠した真実を表に出てこさせまいとする意図がありありと感じられます。

影の為政者が隠した真実とは神社の本当の管理者は神社庁ではないということです。

おそらく亀甲紋の系統が真の管理者であり、われわれの見えないところで約1500年の長きに渡りバトルを繰り広げているのでしょう。

とはいってもすべての神社がどちらかの勢力に加担しているのではなく、折々でどちら側に付くか、独立で行くかも含めて決めているのだと考えますので、簡単には答えは出ないし、出るはずもないのです。

現時点では影の管理者、支配者はキリスト教を中心とした考え方の勢力であろうと推察しています。お寺にせよ、神社にせよ、新興宗教にせよ、です。

現内閣の総理大臣は統一教会系ですし、国交大臣はそうかですし、日本会議で経済界から宗教界まで全て繋がっています。

それらの動機は富と権力ただそれだけです。志もへったくれもあったもんではありません。

神社に願をかなえてくれる神がいるなら、こういう輩を成敗してくれとお願いするのですが、既に「神」はイエズス会に支配されたバチカンやアシュケナージ・ユダヤを中心とした勢力に乗っ取られています。

これが裏の支配者の実態ですが、それでも身を潜めた反対勢力が存在することを期待しています。


さて神社について考察を進めましょう。

少彦名は日本書紀では高皇産霊神の子、古事記では神皇産霊神の子とされていますが、百嶋系図では少彦名は金管伽耶系のウマシアシカビヒコチ=金越智であり、おそらく事代主です。

大己貴=大国主にとっては養子にあたります。高皇産霊神は高木大神であり、ウマシアシカビヒコチ=金越智系から養子もらっており、要するに家来となるのです。大山祇=月読尊であり、母親は白川伯王家の埴安姫( 大幡主の妹)です。

そして木花開耶姫は妹になります。姉は神大市姫(ミズハノメ)です。そして奥さんは豊玉姫です。つまり大国主の陰には木花開耶姫と豊玉姫はつきものだということになるでしょうか。

ということは、大国主とナガスネヒコは同義と考えられなくもないということに気が付きます。

さすれば大国主を祀る神社が実はナガスネヒコを祀っていることの可能性は排除できません。

少彦名は仏教では薬師如来に当たります。

したがって、大洗磯前神社は大洗薬師菩薩と呼ばれていました。(『延喜式』3(臨時祭)・名神祭条〔28〕二も記載あり)


ということは、延喜式が成立した時代においては、少彦名を主祭神としていたと考えてもよさそうです。

水天宮を祀る末社に安徳天皇と母建礼門院(平徳子)が祀られていることの理由を、神主さんに聞いてみたのですが良くわからないようでした。

常陸太田市(旧水府村)天下野の御所山安徳寺との関係が気になりました。(番外4.御所山安徳寺とは?光圀は安徳天皇の子孫か参照)


      

 陶器製の狛犬


  

   境内社と神主さん                       境内社 御岳神社



 お酒の神様だけに近隣の酒造会社が奉納しています。


(本来のお酒の神様は大山咋ですが、大己貴は義理の大物主であるため本来の大物主、大山咋との間で混乱があるようです。

大物主代理は事代主。少彦名が恵比寿とされていることは、少彦名が事代主と混同されているということになり、さらには少彦名が大物主代理と混同されることになりますから、大己貴と少彦名は大物主と言う名で同体とみなすことができてしまいます)


また「酒」は裂けですからコノハナ裂くヤヒメにつながるのです。したがって、大洗磯前神社の兄弟神社である那珂湊(ひたちなか市)の酒列磯前神社も同様であると考えています。




 拝殿の彫刻1


 拝殿の彫刻2

 拝殿の彫刻3


 拝殿の彫刻4



 漁業の守護神ですから碇(いかり)が奉納されています。


地元に残るしきたりでは、お正月は女性は台所に入らないらしいです。男が食事の準備をするのだと前職の大洗出身の部長さんから聞いたことがあります。日頃の労をねぎらうというありきたりの考え方もできますが、わたしは戸畔(とべ)の文化、つまり女系制度の名残ではないかと疑っています。

光圀が復活させたといわれる勇壮だった「ヤンサマチ」、競馬はそういった残影を希釈することが目的だったのかもしれませんね。




 現在の大洗と言えばこれ。やっぱり女性が主人公か!?


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酒列磯前(さかつらいそざき)神社


地質学では有名な白亜紀層が神社下の海岸にあり、そこが「清浄石」「護摩壇石」と言われています。

しかしこの岩が「いわれ」(笑)になっているのは磯前神社ではなく、東海村の大神宮と豊受皇大神宮なのです。白亜紀層は斜めに露出しており、それをもって逆さに列を作っているから「さかつら」だなどという「おやじギャグ解読法」真っ青の解説を目にしたことがあります。

まさか、国民の税金で研究している学者がこんな説を発表するとは考えるのもはばかれますから、われわれと同程度の「アマチュア」の研究者が唱えた説なのだと思います。岩は斜めであって、決して逆さではありませんから。

このような説が発表できるのですから、酒は裂けであり前であるから「コノハナサクヤ姫」と関連があるという説は充分に発表に耐えられる説だと自負してしまいます。

明治時代になって年貢から税金制度になり、さも当たり前のように国民からむしり取った税金で、存在もしない「神」を国威発揚の道具として祀り上げた勢力は薩長土肥が中心だったことを考えると、単純に「倭国」と「日の本」の対立が尾を引いていたことが想像されてしまいます。

たとえば、西暦4から5世紀ごろ東日本の縄文文化を基とした「日の本」は外力、つまり新たな流入勢力である、のちに蘇我氏と呼ばれる「スカ族」の力を以て列島をとりあえず平定したと考えていますが、1400年後の江戸末期には今度は西日本の「倭国」を中心とした勢力が、やはり外力、今度の外力は、「アルビノの末裔」を中心とした、キリスト教過激派の勢力に懐柔させられ偽の錦の御旗の下に列島を支配下に置きました。

これには徳川将軍も勝海舟も当然一枚からんでいると考えるのが妥当でしょう。

もちろん人気抜群の坂本竜馬もです。司馬遼に騙されてはなりません。

蘇我氏が平定した時代はまだ貨幣制度が成立していませんでしたが、江戸末期はすでに世界各国で貨幣制度が成立していました。

つまり、物より貨幣(お金)が優先となっており、蓄財を図ることが植民地政策の目的であったものと考えます。

簡単に言えば「金儲け」です。正当な商取引であればなんの文句もありませんが、背中に武器を隠したゆすりまがいの取引で大儲けしようとしていたのが、当時の西欧諸国と言い切ってしまっても過言ではないと思います。

東インド会社のその当時の動きを見れば、宣教師と呼ばれた人たちは、植民地政策の先鋒隊であったことは歴史的事実として認識されてしかるべきでしょう。

「日の本」にせよ「倭国」にせよ、外力なくしては列島統一はなしえなかったことになります。

そう考えると、家康はスゴイとしか言いようがありません。キリスト者の本質を見抜き鎖国を推し進め、世界一の都市「江戸」をつくり、260年にもおよぶ平和で持続可能な社会を築きあげたのですから。

ここでいうキリスト者の本質とは原爆を2発も落とすマインドの持ち主ということです。

一般的な敬虔なクリスチャンのことではありませんからご注意ください。

戦後70年経った今でも日本は原爆2発の後遺症から抜け出せないままでいます。その代表的な例が、沖縄問題であり、TPPであり、集団的自衛権なのだと思います。

現実的に日本は独立国家ではないというのが欧米のコンセンサスだということを理解している人が少なすぎます。

当然政治学者や国会議員は全員が知っていることだと思いますし、国際連合(UN)は戦勝国連合だということも知っていることでしょう。

つまり敗戦国である日本国は決して常任理事国にはなりえないのです。いまでも国連には敵国条項があり、日本は被占領国になっているからです。いまでも「occupied japan」であり、アメリカの打ち出の小槌として扱われているのです。

日本国も真の独立が必要ですが、われわれ個人も国家と呼ばれるGO JAP PAY システムから独立しなければなりません。

為政者は税金や法律で国民から搾取しています。法律とは既得権益を作り出す法律のことです。

健康保険や宝くじ、NHK、電気、水道、電話、放送、神社、お寺などが代表でしょうか。



 鳥居から」拝殿を見る



 拝殿


 本殿の彫刻 左甚五郎作と言われています



 本殿入口 陶器製の狛犬



 徳川斉昭腰かけ石



 由緒


 
 扁額                          本殿千木


何だかよくわからないふたつの神社でした。

すくなくとも明治以降の国家神道の影響下で本来の祭神が変更させられ、観光の神社に成り下がっているということは感じられたことは収穫でした。


氏子は檀家でもありお葬式を神式で行う家が少ないのが主たる原因で経営が困難な神社が多いのですが、歴史遺産としての価値は重要ですから、お葬式を執行するなどの改革をして、存続していただきたいとは思っています。

ただし、GO JAP PAY な由緒創作は閉口ですから・・・。


 酒列磯前神社の動画はこちら

(神社から古代史を探る】51.茨城県ひたちなか市阿字ヶ浦酒列磯前神社 https://youtu.be/b9T3UQAsJdI



百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254