48.那須神社探検記(栃木県大田原市) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

今回の探検は栃木県大田原市南金丸の那須郡郷社の那須神社です。通称金丸八幡様。

したがって祭神は祭神は応神天皇。




道の駅 与一の里のすぐ隣側にあります。与一とは那須与一です。源平合戦の屋島の戦いで、扇の的を射落とした逸話は有名です。しかし、軍記物には記載があるが、吾妻鏡などの同時代の史料には記述がないため、実在の人物かどうかは疑わしいようです。


栃木県神社誌の由緒沿革によれば

人皇第十六代仁徳天皇の御宇、下野国造奈良別命、国家鎮護として本地清浄の地を選び金瓊(きん

けい)を埋め塚を築き祠を建て天照皇大神、日本武尊、春日大神を祀ったのが濫觴(らんしょう)で(当時この地を野沢といったものを金丸と改めた)後延暦年中征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征討の時、この地の森々として奇樹のあるのを眺めていると、古塚に小祠があったので、ここに応神天皇を勧請して金丸八幡宮と号し奉り先勝を祈った。後冷泉天皇の御宇、永承六年陸奥守兼鎮守府大将軍源頼義その子義家が奥州の逆徒安倍頼時追討の勅命を受け下向の時、当郡青野の宿陣、軍勢を充たして正に奥州に発向遷都する折から一番の白鳩が飛び来たって白旗の上に止り、未申の方向を指して飛び去った。これより10丁未申の方に森林がありこの内に飛び込んだのだった。大将は不思議に思し召しこれは正しく八幡大神の応護の瑞であろうと近臣を遣し見させたところ、欝蒼たる樹木の繁茂した霊地があり、中央の大きな古墳の前に八幡宮の祠ありと記してあった。頼義は大いに喜び身自ら神前に跪き神助を祈り、勝利すれば神殿をこの地に建立しこの地を神領に寄進することを誓った。後賊徒を平定し帰京の時、首藤権守資家に仰せて宮殿を建立し、馬場を奥州街路まで貫き、両側には松、杉、檜等を植え神領50石を寄進した。下って後堀河天皇の御宇寛治二年、清原武衡、同家衡が乱を起こした。源義家は再び奥州下向時の先例により当社に詣でて先勝を祈願、賊徒鎮定上洛の帰途仰せて神門および天照皇大神、日本武尊、春日大神の宮殿を建立した。御手洗の池水は霊水で金生水と名付け、流れ出る川を金井川と名付けた。その後近衛天皇の御宇、久寿二年、三浦上総介義澄が命を奉じて那須野の悪狐を退治した時当社に祈願し、たやすく射止めることができたのでその弓を奉納した。
 これより先、首藤権守資家改めて貞信(那須氏の祖)が賊徒を討った功を以て従三位下野守を拝し、邑を那須に賜った。下向してから那須氏代々の氏神と崇敬し神領、神宝などいくつかの寄進があった。
 崇敬篤く大華表を立て惣社八幡宮と金色の文字を彫った扁額を捧げ、神主を置いた。
 文治元年那須与一宗隆が四国の屋島において扇的を射る時、当社八幡大神、湯泉大神を心中に念じ
名声を天下に博したので、文治三年土佐杉で社殿を再建し、太刀一腰、的を射た弓矢を奉納した。
 後略


由緒ごときに目くじらを立てることもないのですが、グー民は簡単に信じてしまいますから、注意喚起の 意味で百嶋系図によってこの由緒を解読すれば、凡そ作文であることが判別されます。


まず下野国造奈良別命ですが、先代旧事本紀』「国造本紀下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されていますが、仁徳天皇は242年生、豊城入彦は210年生ですから、四世の子孫の奈良別命が仁徳天皇の時代に存在しているはずはありません。

もともとは、天照皇大神、日本武尊、春日大神を祀ったのに、何故か坂上田村麻呂は応神天皇を勧請し八幡神社を建立しています。


常陸国では県北に多くの田村麻呂伝承が残っていますが、八幡神社を勧請しした伝承はないようです。

東夷征討時に東山道を使ったか、東海道を使ったのかは不明ですが、どちらも伝承が残っていることは興味深いところです。いずれにしても地元に箔を付けるひつの手段であうと推測しますが・・・。

与一が実在の人物かどうかに諸説ありますが、ここ那須においては英雄ですし、鎌倉将軍のおひざ元ですから、源氏の氏神の八幡神社にしてしまったことには納得がいきます。由緒は当然ながらそれを正当化するための作文でしょう。坂上田村麻呂に始まり源頼義、義家、九尾の狐を退治した三浦介、そして那須与一までヒーローのオンパレードです。八溝山の金生水まで持ち出しています。

それでは神社の写真をご覧ください。


 鳥居


 由緒通りの金文字の扁額 お決まりの「八」の字。向かい合った鳩になっています。


 鎌倉鶴岡八幡宮の扁額


鳩は八幡神の使いと言われているようですが、鳩ではなく鶴岡だけに鶴という説もあるようです。



 郷社にしては相当立派な楼門、だけど敷地内が草ぼうぼう。那須氏や大関氏は一生懸命飾り立てたのですが、基本的に氏子さんはあまり関心がないように感じられてしまいます。道の駅のすぐわきですから参拝する人も数多くいることでしょうに。


 

 神門の天井の絵。きれいだが・・・





 


 本殿


 拝殿の扁額 総社八幡宮 ここでは「八」だけでなく、「幡」にも「宮」にも鳩が隠されています。


興味深いのは境内社に九州の神社が多いことです。基本的に神社の起源は九州王朝がほとんどですから当たり前なのですが、茨城や栃木で高良神社を見たのは初めてです。高良神社の祭神は武内宿禰になっています。そして宗像神社は市杵島姫だけでした。

しかし、もともとの祭神である春日大神が武甕槌しか見当たりません。普通でしたら経津主、天児屋根、姫大神が祀られているはずなのですが・・・。

義家が建立したと言われる天照皇大神、日本武尊、春日大神の宮殿も再建してあればよかったですね。

祠でなく宮殿ですから見てみたかったものです。


 沢潟の紋 大関氏沢潟紋を使用しているが十六鉤丸立ち沢潟で周囲に鉤丸が付くのが普通。

  
 本殿


 本殿の破風にある沢潟紋と五七の桐紋


裏側から見た本殿 本殿の脇にもお宮がありました。宮司さんに祭神は誰なのか聞いてみたら、祭事に使うものをしまってあるということでした。しかし、塀の中にあるのですから本来は誰かを祀っているに違いありません。



 本殿 千木はありませんでした。


 

 ここの神明社の祭神は大日靈です。これが当初祀られた天照皇大神なのでしょうか?


それとも「神明社はナガスネヒコを疑え」の那賀須泥毘古(ながすねひこ)なのでしょうか。

那賀や那須は那賀須泥毘古の文字です。ここ那須神社の地は那珂川の流れる那須地方ですから、何か発見できるかもしれないと思っていましたが、いまのところ良くわかりません。



 神明宮内部



 本殿裏にある古墳と思われる丘 


下野国造奈良別命、国家鎮護として本地清浄の地を選び金瓊(きんけい)を埋め塚を築き祠を建てたと伝えられている塚でしょう。

でしたらこの下に「金瓊(きんけい)」が埋もれているかもしれません。
金瓊(きんけい)とは金の玉のことです。「八坂瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)」の瓊です。

妄想の域を出ませんが、この金瓊は八溝山から掘り出された金だろうと想像しています。

なぜなら、この塚は八溝山の方向を向いているからです。



  
 那須神社から八溝山             境内社の愛宕神社


愛宕神社(祭神 カグツチ)と日本武尊神社が境内社としてあります。

どちらも八溝山とは関連性が深い神です。

今度行くときはスコップを持っていくことにしました。宮司さんも一緒に掘りましょうと言ってました(笑)

金瓊(きんけい)を掘り当てて、神社の建物を改修したいものです。


百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254






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