漫画「葬送のフリーレン」第2巻に次の台詞がある。
「奴ら(引用注:魔族)にとっての言葉は人類を欺く術だ。
(中略)
わかり合うための言葉ではなく、欺くための言葉。」
これ読んでぞくっとしたよね。コミュ障の私は。
何にって、私はそれまでの人生で言葉を「分かり合うためのもの」と考えたことはなかったから。
私にとって言葉は「思考に輪郭をつけるためのもの」であった。
例えば嫉妬という言葉を知らないと、好きな人が他の人と仲良くしてる、モヤモヤする、イライラする、何この不快な気持ち、
ってなったときに自分の不快な気持ちの正体が分からないけど、「嫉妬」という言葉を知ればああこの不快な気分は妬みなのかとわかる。
ただの不快感が「嫉妬」「羨望」「妬み」としてシェイピングされる。言葉とはそのためのものだと思っていた。
言葉は他者と分かり合うためのもの、という発想がないという点では私もフリーレンの言うところの「魔族」かもしれない。
そしてその魔族の息子、我が家の2歳児は着々と母語を吸収している。
先日感動したのは、少々気温の高い日にいつも通り綿入りのスリーパーを着せて寝かそうとしたら
「あついからみずいろのふとん※にする」
※薄手の毛布
と言い出し、
「~(だ)から」ってすごくないすか。
理由ですよ。「なぜ私が水色の布団を欲するかと言えば暑いからだ」と。要求の理由まで言葉にできるってすごくないすか。要求を伝えることもだけど、理由→要望と思考できてることがすごくないすか。
感動したわ
昨日は動物園に連れて行ったのだが、午後にだんだん不機嫌になってとうとう泣き出して、
「どうしたの?暑いの?寒いの?眠いの?お腹空いたの?ベビーカー降りて歩きたいの?だっこしてほしいの?他の動物見たいの?」
と聞いたら
「おうちかえる~!」
自分でちゃんと要求言える!
すごい!助かる!
即連れて帰りましたね。まだ13:30だったけど。
息子には初めから言葉を「分かり合うためのもの」として授けたいものだ。
せっかくフリーレンにその発想を教えてもらえたのだから。