28歳でアメリカ大学院留学に至るまで【前編】 | 続・NYスポーツビジネス留学挑戦記録 -No Pain, No Gain-

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フルブライト奨学生としてNew York Universityに留学したアラサー女のその後

2014年夏、28歳にして人生の大きな転機となるアメリカ留学を実現しました。

今日はそれまでの27年間を簡単に振り返ります。

 

 

幼少期からどういうわけだかスポーツオタクな子だった。

 

8歳で開幕したJリーグにクラスの男の子達と一緒に熱狂し、

翌年のリレハンメル五輪の時には教室にあったストーブから飛び降りては

スキージャンプのテレマークを決める練習をした。当然先生にいつも怒られていた。

 

98年、自国開催の長野五輪にはそれこそ夢中だった。TVの報道では飽き足らず

父親にねだってスポーツ新聞やアサヒグラフの特集誌を買ってもらい

集めたスクラップは未だに実家で保管されている。

 

98年といえば、忘れられないのが日本が初出場したサッカーW杯フランス大会。

怪我をしてもどんな状況でも死に物狂いでボールを追う中山雅史という選手に釘付けになる。

その余韻が冷めないうちに始まった夏の高校野球では怪物松坂大輔が伝説を残した。

 

そして99年、世の中に「雑草魂」の衝撃を与えた上原浩治が鮮烈な20勝デビューを果たす。

全くの無名から這い上がってきた彼の躍動は見ていて震えるものがあった。

 

当時の私は、日々スポーツを追っかけていれば忙しく、とにかく幸せだった。

中学の卒業文集には、2000年に開催されたシドニー五輪を引き合いに

スポーツの魅力を語り、将来はスポーツに関わりたい旨を力強く書いていた。

 

そんな熱意から、高校生になると「見る」だけでは物足りなくなり、

学校が近かった東京スタジアム(現味の素スタジアム)でFC東京のボランティアを始める。

すると、スポーツを「創る」側への興味が強くなってきた。

 

そんな折にやってきたのが2002年の日韓共催W杯、日本列島が熱狂した。
こんな「熱」を、見るだけじゃなく生む側になりたい、そう思うようになった。

 

気づけば高校2年。受験の2文字がちらつく中で、進路は決められなかった。

当時はまだスポーツビジネスという言葉は一般的ではなく、

大学でスポーツ経営を学ぶという選択肢は皆無に等しかった。

 

職員室で気乗りしないまま大学案内の分厚い冊子をパラパラとめくっていたら

目に飛び込んで来たのが「早稲田大学、スポーツ科学部新設」という文字だった。

一瞬時が止まったような感覚になり、ここに行くと決意。慌てて受験勉強モードに入る。

 

決して成績が良い方ではなかったので、スポーツ科学部に入るためだけの勉強に絞り

スポ科一本で受験勝負。落ちたらその時は手に職を付ける専門学校にでも行こうと思った。

 

幸いにしてギリギリで合格をもぎ取り、2004年早稲田大学に入学。

スポーツ科学部の2期生として、大学生活を送ることになった。

そこからさらにドップリとスポーツの世界に浸ることになるので、

一端前編はここまでで。。。