遠藤周作さんの『沈黙』を読んだ | Talking with Angels 天使像と石棺仏と古典文献: 写真家、作家 岩谷薫

遠藤周作さんの『沈黙』を読んだ


 何度か、このブログにも紹介してはいますが、そのくせ、読んだのは中学生頃だったので、ウン十年ぶりに読み返してみました。ただそれほど当時から強烈な印象があって忘れられない書物 …なんとなく今の自分は読まないといけない直感がしていた書物。

 やっぱりイイネ。スゴいね!コレは…。やっぱり神は助けに来ないんですヨ。笑。

 この頃、小説は読まなくなったと以前書きましたが、もう一つ、読まなかった理由に、小説を読んでいると「そんな偶然ないでしょう…」とか「そんな人間居ないでしょう」とかフト思ってしまうところがイヤだったんです。

 大多数の人生はもっと退屈で、沈黙のように答えが見えない中で、ウンウンと押すような気がしてなりません。

 でも、この『沈黙』にそうした不自然さは無く、登場人物みんなの主張が正しいと思えるのです。詮議をする奉行も然り、殺されていくキリシタン農民も然り。

 ストーリーは、江戸時代のキリスト教弾圧の時に、やってきたポルトガル宣教師ロドリゴの弾圧苦の話です。
 キリシタンや同僚が、弾圧の嵐の中で、むごい殺され方をする中、ロドリゴは常にこういうことを考えます。

●『それは神の沈黙ということ。迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の搭が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお沈黙されている。』

 これなんですね…  神は助けに来ないんです……

(ちなみに、島原の乱でも、3万7千人もの老若男女が、西洋からの「神の援軍」が来ると信じて死んでいきました。「神の援軍」は来ませんでした…。『沈黙』はこの乱直後の設定です。)

 そんな中、味方であるはずの、キチジローが裏切り、ロドリゴを御上に売ってしまいます。そのキチジローの言い訳がまた痛々しい…

●『踏絵をばオイが悦んで踏んだとでも思とっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。オイを弱わか者に生まれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法というもんじゃい。』

 イタイタしいねぇ…、泣けますね…。でも、キチジローは、連行されていくロドリゴを必死で、追って行っては赦しを乞うんですね…。イタイタしい…。

 ここで、ふと思いました…。ああ、キチジローみたいな人、現代でもいっぱいいるんだったなって…  いっぱい出会ってきたんだなって… 

 ただ、現代の悪態キチジローは、踏絵を踏んだことすら気付かず無神経で、謝罪もしませんけどね。爆!  

 キチジローの裏切りは、新約聖書のユダの裏切りとオーバーラップしています。
 何故、ユダは裏切ったのか?何故、愛であるキリストはユダを救えなかったのか? そんなことを考えさせられる本です。キチジローもユダも物語の重要なキーパーソンなんですね。

 最後にロドリゴは踏絵を踏んでしまいます。自分の信念が「ボッキッと折れるプロセスです」! 運命に撃ちひしがれる瞬間です。 その時のロドリゴを通しての神の声は、

「だがその足の痛さだけでもう充分だ、私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

 これは、どうなんですかね…。とっても解るんですけどね…。仮にニーチェがこれを聞いていたら怒るでしょうね。ルサンチマンだって。 仏教は、ここまで頑なに自分を追いつめない気がします。仮に、追いつめられてももっと潔いと思います。 何度も言いますが、全然、悪い答えではないのですよ…。
 「神も仏もそこに居るんです…」きっとね……きっと…きっと……きっとね………???
 それはちょっとした謎としておいて、しかしやはり本当にスバラシイ小説だと思いました!

 キリスト教小説と捉えるのが普通ですが、信念が折れる小説と捉えてもいいかもしれませんね。挫折ですね…。挫折の先か…。

 勿論、思ったことはこれだけじゃないけど、あれもこれも書くとウザクなるので、この辺で…。

 あっ、最後に、キリスト教詳しくない人は(私もですが)これの、新約聖書だけでも読んで、この『沈黙』に入ったらより解り易いかも?1時間もあったら読めちゃう。笑。

 あ、もう一個、Wikiでは映画化もあるとか…。確かに映画化するには見応えのある小説でしょう。
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