『草枕』を読んでいろいろ | Talking with Angels 天使像と石棺仏と古典文献: 写真家、作家 岩谷薫

『草枕』を読んでいろいろ

 近頃、小説は読まなくなりました。
その理由はこの小説の中にも説明してあります。

「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは、人の世につきものだ。余も三十年の間それを通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。」とあり、
 この心境に私もまったく同感です。情や業の話はもう沢山です。確か、中沢新一さんも似たようなことを、どこかで語っておられた記憶が…
 でも、情や業があってこそ、人生は楽しいとも言えるので、やっかいなものです…
第一、こんな事を書いている漱石さんが小説を書いて矛盾していますから…

 以前、テレビでピアニストのグレン・グールドを紹介しており、彼の晩年の愛読書が夏目漱石の『草枕』だと知り、少しだけ興味をもって読んでみました。
 でも、私はグールドの演奏、実は好きじゃありません。有名なバッハの『ゴールドベルク変奏曲』なんて我が強すぎて聞けませんでした。「あなたの我はもうイイから…」という感じです。バッハのような宗教性の高い曲を、小さな我で塗りたくられると、私などはちょっとした冒涜とさえ思ってしまう。クラシックの演奏者はあくまで正当に演奏してその究極に達してもなお、滲み出てくる個性で勝負して欲しいと音楽素人の私は思ってしまうのですが…。

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。云々」であまりに有名な書き出しですが、この言葉以外にもイイ言葉が前半にはいっぱいあります。
 「とかくに人の世は住みにくい。」 住みにくいからといって、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。と漱石さんは書いておりますが、「人でなしの国」、文明を拒否した国、「野生」へ向かったのは、画家のゴーギャンでした。
 ゴーギャンをタヒチに向かわせた発想は、とてもすばらしいと思うのですが、晩年は作品も認められず、病がちで可哀想な一生でしたよね。ゴーギャンについて書かれた本によると、彼は相当な自信家で皮肉屋で、かなり友達からも嫌われていたようです。晩年の病の原因も、水夫との下らない喧嘩の怪我が原因だったとか…タヒチへの発想は最高に良かったんだけど、人と成りに少々爆弾をかかえていたのが問題だったのでは…? しかし、それゆえ作品が生まれたのかもしれませんが…。

 『草枕』に話を戻して、書き出しにある、雲雀について書いた詩のような文章がとてもキレイなんです。ちょっと引用すると。


 「あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。
 のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴きくらさなければ気が済まんと見える。
 その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。
 雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。
 登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけ が空の裡に 残るのかも知れない。」


 なんとなく、求道者のあるべき姿のような気がして、その切なさや儚さも感じられ好きです。声に成り切る。絵に成り切る。写真に成り切る。 成り切る。

 小説の内容は、あまり私の好みではないのですが…。
 主人公の画家さんは、非人情な旅(人情にしばられない旅)をしようと書いてあるのに、内容はやっぱり人情に介入せざるを得ない矛盾。矛盾がダメと言っているわけではないんですよ…人間は矛盾だらけですし、矛盾を通してのみ真実が見える場合もありますし…。
 知識豊富で、自然描写にも執拗にこだわりをもっている文章を読んでいると
「漱石先生。そりゃ、胃痛にもなりますよ…」と言いたくなってしまいました。小説家さんは、こうしたところ、大変ですよね。写真家は撮ればほとんど説明は要りませんから。

 ラストの、別れた夫が、出兵する去り際に見せた、出戻り婦人の切なげな顔を見て主人公の画家が「この顔なら絵になりますよ」とか言ってしまうのもいかがなものかと… 人の不幸をよそに、頭でっかちの芸術家がいい気なもんだよ…とか思ってしまいました…。

 しかし、同じ後半の、機関車になぞらえての、文明批判は良かったです。簡単に要約すると、文明という、真っ暗闇に向かって突き進む機関車に、人は積み込まれ猛進しているという警鐘です。以前にも書いたパパラギの視点と同じです。
 明治のむしろイケイケの時代に、こうした視点を少しもぶれずにちゃんともっておられるのは、さすが漱石先生。
 なんとなく、小説というよりは、漱石さんの胃痛を感じる随筆にすれば良かったのにと思いました…でも随筆にしてしまうと、きっとここまでこの作品が有名にはならなかったのでしょうね。