高田賢三さん | バークレーからこんにちは

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毎度です。

こないだ12/12日放送のNHK プライムで見た高田賢三さんの追悼ドキュメンタリー。




凄い気に入り過ぎてかれこれ5回は見てる。
isakuraTVてので日本のテレビ80チャンネル以上?見れる。しかもオンタイムで。

九年アメリカにいるけど、旦那がいつも何かしら日本のテレビ見れるやつを見つけてくれて。
今使ってるisakuraはほんまにいいよ。
紹介したら他の人も使い出してて仲間増えてる😆

話は戻って。

高田賢三さんは姫路の旅館を経営してる家の三男に生まれて姉ちゃんが洋裁学校に通ってたのを見て自分も通いたくなるもののその当時は洋裁学校は花嫁修行的なノリで男子の受け入れはしていなかった。
プラス姫路。
播州出身の私からしたら播州て結構保守的やしそんなハイカラかな考えある人ほんま少なかったと思う。
播州から海外行ってる人自体が少ない。



賢三さんは神戸外国語大学へ通い始める。
通学の電車内で東京文化服専門学校が男子受け入れ開始した!という文字を見て。
すぐさま大学を辞めて文化服に通う事に!
お父さんめちゃくちゃ反対したからバイトして資金貯めて実費で東京行きを決行。
この時19才。

今は大阪にも文化服あるんやけど、私の時代も服飾なら文化服。デザインは大阪デザイン専門学校とかね。
私は創造社デザイン専門学校通ったんだけど中退😂

という感じに今やとデザインやらの専門学校行きたかったら色々関西人ならば関西で見つけれるけど、賢三さんの時代は東京まで出ないと無いわな。

姫路から東京へ出るって海外も一緒よ←大袈裟😆
けどそれくらい播州て田舎やしさ😂

ちなみに私の母は漫画家志望だったけど東京行くのが怖くて断念😆それくらい東京って海外みたな存在よ!

ちなみに私も東京行くの怖くてカリフォルニアに来た!←どゆこと笑
いやーカリフォルニアは関西と変わらんノリやん?
NYや東京は都会すぎてビビル😂

そんな話はえーねん。


賢三さんは文化服に通いだしたけど、
一年たっても姫路できてた学ラン姿だったと同期のコシノジュンコさんが語る。



そこもまたいいよな!
素朴な人やったんやと思う。

一年目は学校が嫌だった。と語ってたけど、
私の経験では専門学校は一年目は色々やったんよ。
私は建築とかインテリア専攻だったのに一年目は色んな専攻の子達と色々やった。
イラストだとかグラフィックデザインだとか。
そーゆう意味でつまらなかったのか?
自分が本当にしたい事以外のことせなあかんからつまらんかったか?
というイメージは私でもわく。


そして2年目になってデザイン科になって楽しくなったと語る賢三さん。
花の九期生というやつだ。


ピンクハウスの金子さん、ニコルの松田さん、
KENZO さんにコシノジュンコさん。

ちなみにNSCでいうと花の一期生みたいなもんかな
ダウンタウンにトミーズにハイヒールは同期😂


そんな感じで専門を卒業して、アパレル会社で働きだしてた頃にやっぱデザインの都パリは行っときたいなーとイメージしてたら、なんとまーオリンピックの工事でアパートを立退きしてくれといわれ補償として一年分くらいの家賃になるお金を貰ったことでパリ行きを決行!

船で1か月くらいかけていったそうな。

その時代に海外にいくことはかなり珍しいし大変な事だった。
しかも姫路出身←そればっか🤣
やっぱり大きな行動力やわ。

そして1か月の船旅の中で色んな国を見て、たくさんの刺激をもらう。

ほんでパリについて、
オートクチュールの素晴らしいクオリティーのものたちを見せつけてられてすっかり自信をなくす。


帰国がせまってきた頃、当たって砕けろ精神でデッサン画を持ち込みで店に行く。

気に入られてなんとお店のオーナー夫人が買ってくれて、
雑誌社も買ってくれたりしてあれやこれやで仕事のオファーきてパリで暮らすことに!


一年が過ぎてパリの生活も慣れてきたころ。

だんだんと日本からもパリにやってきて一緒に働く子達が来だしてその子らのよき兄貴分的になってゆく。


その時一緒に働いてた中に島田順子さんもいて、
彼女が賢三さんが自分に作ってくれたというワンピースを見せてくれる。
お金があんまりなかったんでハギレとかのパッチワーク。これがまた可愛い。

そこから何ちゃら通りの店をいくつか持ってた人が賢三店出すか?って声かけてくれて、
その当時はその場所は人通りすくなかったんやけど今の家賃と同じくらいやし、まあチャレンジしてみるか!というわけでジャングルジャップという店をオープン。



そのために日本に里帰りして安い着物や浴衣買い付けて親戚や家族に資金借りてパリに帰ってくる。
友達が手伝ってくれて一緒に服をつくったり内装をあれやこれやして。
手作りで始めた小さな店。

それが人気になる。

オートクチュールの時代で金持ちしかオシャレ出来なかった堅苦しい時代から若者がぶち壊す、変化したいという時代もぴったりあって、これからは
プレタポルテの時代やーという賢三さんのデザインが花ひらく。

特にELLEの表紙を飾ってどかーんといったらしい。


その時代に一緒に頑張ってたマーシーさん。

この方とまた80すぎてタッグを組んだ矢先に賢三さん旅立ってしまうんやけど。


そのジャングルジャップ時代から
素敵なパートナーにも出会う。
ピカソの娘はんの誕生日会で出会ったらしい。それもまた凄いな🤣


グザビエカステラさん。カステラ?
グザビエさんは建築に詳しいらしい。めちゃ賢くてめちゃくちゃお金持ち。
気品高い貴族の家系。
グザビエさんが建てた日本庭園が嘘みたい。
これぞ金持ち。桁違い。

カステラさんが公私共に賢三さんを支える。しかし病気で賢三さん50歳の頃旅立ってしまう。
めちゃ悲しい。このくだりを見て毎回泣く私。
ボンボヤージュ。とつぶやく。

ほんでそのあいだに賢三ブランドを個人経営から株式に変えようとなんやかんや、やり手のオッさんが入ってきてみんなが知るKENZO ブランドになるんやけど、ごっつ経営はでかなるけどやりたかった事とどんどんかけはなれていく。

そのへんで賢三さんもデザイナーとしてのやりがいとかほんまの気持ちよりも従業員に支払っていかなあかんとか現実。
考える部分が変わってこなあかん辛さみたいなんかかえながら。

それでもごっつ儲かってた時代。

そのあと、90年代なって賢三さんは経営きびしなって自分のブランドを守るために株式いっさいがっさい売却。
ほんだら、賢三さんは自分の立ち上げたブランドに雇われる形になる。
世知辛い!

ほんで60で引退。

そこから力いれてたんが起き上がりこぼしプロジェクト。


被災地福島の人を喜ばせたいと70代で色んなコネクションで色んなアーティストにかいてもらって展覧会をしたりする。


↑ゴルチエの作品。
ゴルチエは賢三さんにかなり影響受けたデザイナーの1人。ジャングルジャップにも若い時行った話をしていて店のドアをこんなんやったと語っていた。



80才を超えてインテリアのブランドを立ち上げて
昔の仲間のマーシーさんと一緒にまた働いてた矢先にコロナに感染し、旅立った。

なんか、また元の場所に戻る、原点に返ってほんとに自分が楽しく、やりたいデザインをする。
そんな気持ちにさせてくれる話で。

ごっつ富や名声を得ても
賢三さんは変わらず姫路出身の謙虚な賢三さんで。ていう部分は変わらん人やったんやろなーってすごく人柄が分かる番組になっていて。

そのピュアな賢三さんに悪めというかズル賢い奴らがちらほら出てくるけど、結局的には賢三さんは心から落ち着く人を周りにおいて自分らしく仕事をすることに喜びと価値を見出してたんだろうなと。

ほんでから、これは私の私感ですが。

賢三さんの専属料理人やった人、関西人。
根っこの部分やっぱ賢三さんは姫路とか関西のルーツ大事にしてたんちゃうかな知らんけど🤣
やっぱ関西人は関西人と話すのが一番落ち着くもん(私はね)

コシノジュンコさんもバリバリ関西人やん。笑

賢三さんはインタビューの中で関西弁のイントネーションになる時があって。
そこにほっこりきた。

賢三さんが活躍した時代も今までの時代から変化する価値観が変わる。若者達が立ち上がって革命的な時代で。それに賢三さんの服はマッチしていた。
またこの2021年からも大きな変化で革命的な時代にさしかかってると思う。

そーゆう流れを賢三さんも感じていたからこそ、2020年80才からまたデザイナーとして新たなスタートを切ってたんだと思う。
本当に自分がワクワクするものづくり。

そのためには自分にとって大事な人とやる。
それがマーシーさんだったと思うし、
グザビエさんも古い友達は大切にしないとダメだよ。というてたように、
賢三さんの周りは付き合いが何十年と長い人ばかり。
人を大切にしてきた人なんだなーとよく分かる。

私はこの番組通して賢三さんをよく知ってファンになって。
彼の作品集かったわよ。



自伝は売り切れてるの😭


めちゃくちゃ欲しいから毎日出てこないからAmazon見てる😆

賢三さんの特別番組はNHKオンデマンドで見れるらしいから是非!


ほなのち