著者:八原博道 1902/M35ー1981/S56(享年78歳)
著書:「沖縄決戦」
発行:読売新聞社 昭和47年8月15日第一刷/昭和48年9月10日第四刷
略歴:やはら ひろみち(元陸軍大佐)明治35年鳥取県生まれ。陸士35期、陸大卒(昭和4年恩賜)。陸軍省人事局、アメリカ留学、陸大教官、第2、5軍参謀で華北、華南。昭和6年大本営作戦課参謀、ビルマ方面軍参謀を経て昭和19年3月沖縄守備軍第32軍高級参謀となる。現住所 (※ここに現住所が明記されている)
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沖縄戦(1945/3/26・本土4/1~6/23)
沖縄戦で高級参謀として、持久作戦を立案した。
八原さんは勝ちのない戦争でも少しでも被害が少なくなるようにと、
持久作戦を進めていたのだが、東京本部より指示があり、攻撃戦に変わった。
そして、兵力をなくしてから、持久戦に戻ったが、もう何の意味もなかった。
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八原さんは、1933ー1935陸軍大学校(最年少で入学している)優等生の特典としてアメリカに留学している。
そこでアメリカの工業力の違いを知る。砲弾生産量の違いを見ている。
大学では授業の一環として戦闘の仕方を教えている。国民の戦争意識が違っていた。
残念ながら日本軍はそういう、捕虜後のことまで軍隊でも教育されていなかった。
捕虜としてつかまっても、敵の情報を探り、次の展開に繋げる。これは八原さんだけの知識でしかなかったようだ。
そのため、沖縄戦後大勢捕虜となったなかで、八原さんは民衆に紛れて偽名を使い、時宜を図っていたのだが、顔見知りの日本人により身分を明かされてしまった。
日本軍の幹部だと。
だが、結果的には悪いことにはならなかった。
もともと戦争の結果は決まっていた。
そして幹部という事で米軍は丁重に扱ってくれた。
捕虜となりながらも、米軍は個人に快適な住環境を与えてくれて、新聞が読めたり、この戦争について語り合うこともできた。
戦後、八原さんの沖縄作戦はアメリカ軍から「すぐれた戦術家としての名声をほしいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されている。
アメリカ軍地評論家ハンソン・ボードウィンの評として、
「太平洋戦争中日本軍で、最も善く戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」
両軍ともに辛い戦争だった。
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(抜粋 ※戦後20余年沖縄も本土復帰した)
作戦参謀として、この戦いに企画指導に直接携わった私は、自らの立場に省み、また敗者兵を語らずの精神に従い、正面切って多くを語るのを今日まで拒んできた。だが作戦こそわが命と思っていた私は、作戦の巧拙善悪はいざ知らず、そうではない、実はこうであったのだと、叫びたいものがある。
(抜粋 ※昭和20年4月1日午前8時敵は一斉に海岸に上陸を始めた)
日本軍首脳部に、急に重大な不安が生じた。それは友軍が一機もこの戦場に姿を見せないことだ。大本営の作戦方針によれば、沖縄に来攻する敵を撃滅する主役は、わが空軍である。わが第32軍は端役に過ぎない。しかも敵撃滅のチャンスは、敵上陸部隊が未だ上陸せず、洋上に在るときだと、しばしば公言している。
(※4月10日午前7時20分頃~8時頃)
空襲の第一波、機数は百数十、主として飛行場と那覇港が攻撃を受ける
マリアナ戦では日本の航空戦は無力であった。
だが、航空優先思想に凝り固まった中央部により、飛行場設定軍と自嘲するほど、
多数の飛行場設定に専念していた。地上作戦準備はほとんど皆無の状態だった。
フィリピンへ沖縄から飛んだ飛行機は約3000機。だが一向に成果が上がらなかった。
原因として言われているのが、
操縦者の練度が著しく低下していた。
戦場に到着するまでに、飛行機の大半が事故や機体故障で落伍した。
逐次戦場に到着するので、各個別に敵に撃滅された。
中央部の戦略企画は昭和20年2月下旬までは、決戦か、持久か、不明瞭だった。
その前に中野中学校出身の将校が数名やってきて、言う。
「私どもは、沖縄戦に参加するのが任務ではない。沖縄戦が終わって、第32軍が全滅してから、活動を始める。沖縄を占領したアメリカ軍の行動を偵知して、東京に報告するのが任務です」
本土決戦の方針が明らかになり、そのための戦略として、敵の本土攻略の最も重要な足場となる沖縄戦をつとめて長く、敵手に委ねさせないこと。そのために沖縄には今後増兵はない。手持ちの兵力で戦うだけだ。大本営は本土決戦準備に熱中している。
天一号作戦として、特攻機を派遣するとあるが、
500機欲しいが、300機でもありがたい。だが、その時期が、4月~5月になるという。
沖縄上陸が3月末~4月上旬と判断されている時で、間に合わない。理屈に合わない。
現実に合わぬ空論だと悟った。
だったら、建設した飛行場は無用いや有害な(敵に利用される)ものになる。
直ちに徹底的に破壊するように中央に決済を求め許可されたが、北、中飛行場はそのままにするようにいわれる。
5月5日18時
将軍から、攻撃中止を告げられる。判断は貴官が正しかった。今後は一切任せる。と言われるが、もう、軍の戦力は尽きようとしている。今更と思うが、
最初から攻勢ではなく持久戦をしていてら、8月までは持久可能で、生存者も多数を見込めたかもしれないが、もう軍隊員の士気もなくしていた。
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摩文仁の避難民の話がある。
首里から避難してきた多数の避難民を、ここにいたら戦いの犠牲になるのは目に見えていたので、移動させようとしていた。戦場外の知念方面に、ただ道程は敵手に入いるが、躊躇すべきでない。避難民なのだから、捕虜収容される方がましと思われる。
ただ、伝達が十分に伝わらなかった。指令に従って知念に向かっても、敵部隊に怖気つき、再び摩文仁に戻ってきた人々もいる。いたましい犠牲となった。と悼む。
琉球尚家の一族十数名もまたこの犠牲者であった。
6月7日の夜半、70歳を超えた男爵を中心とする一族は、知念脱出の念願を果たさず、山城に引き返そうと敵弾丸の降りしきる中、摩文仁部落を通過している時に、令嬢の一人が迫撃砲弾で重傷を受けた。この令嬢と、母、姉の三人は、懇意にしていた参謀長を訪ね治療を乞うた。賀数軍勇中尉の執刀で左腕を切断した。そして顔面蒼白の状態だが毅然とした態度で、参謀長からもらった食料を携え、再び山を降りて麓に待つ一族のもとに帰って行った。
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(抜粋)
戦争の前途は明瞭であるのに、一億玉砕、焦土決戦を絶叫するのは何故だろうか。
一切の事情を最もよく承知してある彼らが、その予測がつかぬはずはない。(略)
戦をして、勝利の見込みがなければ、手を挙げて和を求め、他日を期するといった勝敗を、繰り返した歴史を有する欧米諸国のようなわけにはゆかぬのか。(略)
本土において沖縄式持久戦をやれば、1年半や2年は頑張れるだろう。しかし結局はこの沖縄の如く、全本土を荒廃させ、最後は文字通り、名実ともに滅亡を覚悟しなくてはならぬ。開闢以来2600余年、外侮を受けたことがないといったようなかたくなな誇りを棄て、降伏するならば、今のうちに速やかに和を求むべきである。
そして沖縄軍が全滅しない前にである。
6月22日未明、離れた場所の司令部から八原あてに手紙が届いた。陸大時代教え子でもあった参謀から、藁半紙に鉛筆で大きな字で走り書きしたものだった。
「いよいよ最期も近づいてきました。参謀殿には、長らくご指導お世話になりました。今度は靖国神社でお目にかかります」とあった。
返事をしたためる。訣別の言葉と、句も付け加える。
届いたかどうかはわからない。
「砲声もやがて絶えなぬ喜屋岬 つわものどもの夢をのこして」
6月23日午前4時30分、将軍、参謀長、自決する。
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この後日談が興味深い。
参謀室に残ってた仲間たち自分を含めて6名で”かねて準備した秘密洞窟に潜伏し”
6月24日夜、自分含め3名で洞窟を脱出する。
最後どうしても逃げられなくなった時は、自決するのではなく、捕虜になると決めていた。
別の洞窟に潜伏していたが、見つかり、そこにいた50名以上の民間人を説き伏せ、洞窟から捕虜として一緒に出るとき、(足場が悪かったので)アメリカ兵はこどもを抱き、年寄りの手を取り、移動を援助する。
「美しい場面だ。今や敵も味方もない。人間愛に充ちた光景である。かつて豪雨のある夜、フィラデルフィアの南郊外で、自動車を暴走させて困却した際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆けつけ、助けてくれたことをつい思い出してしまった。」
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同調圧力主義の日本よりも、アメリカの方が肌に合っていたのかもしれない。
だからと言って、戦後、アメリカに住むわけにはいかなかったろう。
家族がいる。生活がある。
復員後、収入のために軍の残務整理業務に付いていたが、1947年にそれが終了する。
その後、警察予備隊に誘われたが、「もう二度と他人に死を強制するような仕事はしたくない」と、農作業と継いだ反物商で、子ども6人を育て、清貧にちかい生活を送っていたという。
犠牲になった住民への申し訳なさから戦後沖縄を訪ねていない。
