むかし、遣唐使が大陸に向け出立するにあたって必ず海上の安全を祈ったのは住吉の神であった。
住吉すみのえに斎いつく祝ほふりが神言かんごとと行くとも来くとも船は早けむ(万葉集)
いまでは海岸線は七㌔も西に遠ざかって往年の景観は失われたが、むかしは反橋のすぐ近くまで波が打ち寄せていた白砂青松の海岸であった、という。
万葉集に住吉の神または住吉の地を詠んだ数々の歌があり、歌の神としても崇拝されていた。江戸時代には芭蕉や西鶴も詣っている。
近世の文化が庶民のものとして花を開いたとするならば、庶民の世俗性をそのまま文芸にまで高めたのは俳諧である。それを成し遂げた一人は松尾芭蕉であり、一人は井原西鶴であった。
芭蕉は1694年(元禄7年)9月13日、「升の市」(「宝の市」「住吉の市」)で壱合升を一つ買った。
芭蕉はその時のことを門人に手紙でこう記している。
十三日は住吉の市に詣でて
升買うて分別かはる月見かな
芭蕉は風流な月見をしようと思って住吉に詣でたのだが、升を買ったことによって心境の変化をきたして取りやめた、というのである。
これは実は虚構で、芭蕉が升を買ったのは事実だが、その日は昼頃から雨が降ってきていた。芭蕉はその時分体調を悪くしていて、ことに日暮れは悪寒になやまされ、いそいで帰ったようで、雨が降るくらいだから月も明らかでなかったろう。ただ、身体の不調や天候で月見をやめたのでは詩にはならない。升を買った結果、急に世帯気がついて月見をやめたといえば、そこに笑いがある。この笑いは「興の詩情である。」
芭蕉はその後大坂で俳席に招かれたりして忙しくしていたが、10月12日他界した。
芭蕉の「わび」「さび」の美は、晩年にはこの「興の詩情」へと至った。
「高く心を悟りて俗に帰るべし」。芭蕉の教えとして、帰幽のひと月前に住吉大社にてその句を得、そこに到達した。
(ほぼ本文より抜粋)
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神社のいろいろに関する図書で、
芭蕉の話は一部なのだが、興味深くわかりやすく読めた。さすがだと思う。
著書:「住吉大社」
編者:住吉大社
発行:学生社 2019年シリーズとして(改訂版/2002年、を訂正し)発行

