平家物語のはなしと、盛りだくさんの挿絵が美しい画集。
安野光雅さんの美しい水彩画は、
絵の前にやわらかいガラスの層があるような無機質な透明さを湛えていて、
この「平家物語」は、まるで水晶玉からその場面を俯瞰して見ているように、遠い。
遠い、と思っていたが、あとがきを読んだ後は見え方が全く違ってくる。
この表紙絵の「奈良炎上」。
猛火が立ち上がり、爆ぜる音、飛ぶ赤い火の子、黒煙の臭い、兵士の雄叫び…
南都焼討はこの東大寺大仏殿も大仏も焼き尽くした。
いきなり、そのまっただ中に、放り込まれる。
醜いものを透明の澱に変えて溜まったもの
決して忘れない記憶
その哀切さと勁さが、絵の前を透明にしていったのかと思う。
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あとがきにはご自身の戦中の頃のことが書かれている。
特攻艇を隠す秘匿壕をひたすら掘っていた。
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(ウィキ参考)
1940年 工業高校採鉱科に入学
1944/1 繰上卒業。住友鉱山飯塚市忠隈鉱業所に勤務
1945/4 応召。香川県王越村の上陸用舟艇の秘匿場建設に従事
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(あとがきより抜粋)
19歳で、炭鉱で働かされていたとき、軍隊にとられ(1945/5/20)、平家の雑兵よりもみじめな、一兵卒となった。
連れていかれたところは、香川県王越村という所で、瀬戸内の中でも一番海が狭いところだと聞いた。
私は船舶兵というものだったのである。
任務は、上陸用舟艇をあやつって、「瀬戸内の島陰に出没し、本土決戦に備えよ」ということらしい。
実情はどうかというと、舟艇はべニア板でできていた。
その頃、焼だまエンジンという漁船と同じエンジンを積んでいたが、故障が多く12艘あった船のなかで、自力で動けるは2、3艘しかなかった。
また、その船はバランスが悪く、いつも後尾に20箇あまりの沢庵石を積んでいた。
銃剣、弾丸などは皆無だったし、食料はさらに惨めで、ご飯のほかは何時もねぎの入ったおすましだった。
栄養失調になって腎臓を病み、顔がむくんでくるものが出はじめた。
中でもおかしなことだが、炊事班の食事がすごいことは公然の秘密で、だれも不平をいうものはなかった。
そんな視点から『平家物語』を読んでいると、彼等の兵糧や衣料はどうしたのか、尽きた矢はどうして補給したか、負傷者はどうしたのか、などと思う。
あるいはまた、上官が、初年兵をいじめるということはなかったか、そして兵隊は敵よりも上官を憎むという不幸な現象が、きっとあったと思いはじめるのだった。
わたしたち兵隊は、舟艇秘匿場といって、船を飛行機から見えなくするために、岩穴を掘る重労働が仕事だった。
その頃丘の上にあった王越村の小学校が、兵営だった。兵隊は毎日、綿のように疲れ、消灯ラッパを待ちかねて日をくらした。
その王越村から、はるかに屋島が見えた、という。
1945年7月4日午前2時、B29が焼夷弾の雨を降らせ、高松が焼かれたのを見た。
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1945年3月~6月、沖縄が戦場になった。
4月7日、戦艦大和が沈んだ。
8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。
これらのことは、あとになって知ったという。
敗戦。復員した時、列車の中から広島を見た。
両親の疎開先の徳山も焼けていた。
日本全土が焦土だった。
”なんという無常であろう”
”明日からどうして生きていけばよいかわからない”
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(ウィキ参考)
1946年 小学校教員を務める(敗戦直後の混乱期は無資格でもよかった)
山口師範学校研究科を修了
1949年 美術教員として上京し、約10年間小学校教員を務める
玉川学園出版部で本の装丁やイラストなどを併行して行う
35歳で教師を辞し、絵描きとして自立
42歳で絵本作家としてデビュー『ふしぎなえ』は世界中で評判となった
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2003年イラク戦争が始まった3月20日は、
津和野の安野光雅美術館の開館2周年記念の日だった。
それから一か月後、「繪本 平家物語」展覧会のためにアメリカに行く。
そこで話をたのまれたのでこの言葉を伝えたという。
どう訳されたのかはわからないが…。
「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」
それから3年後、この「カジュアル版」を出版することになったが、
イラク戦争はまだ終わっていなかった。(イラク戦争20003/3/20ー2011/12/15)
この著書の最期に、安野さんの言葉として。
"平和の春が、一日も早くくることを願わずにはおられません。"
著書:「繪本平家物語(カジュアル版)」
著者:安野光雅(1926/3/20ー2020/12/24 享年94歳)
発行:講談社 2006/3/20第一刷
定価:2800円税別
