著書:「ベニヤ板の特攻艇と沖縄戦:附記・70年目に日の目を見た沖縄戦記」

著者:深沢敬次郎

発行:元就出版社 2015発行

 

 

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深沢さんは、その頃徴兵年齢が下がってきて、いずれ徴兵されされるならと、募集が始まった「陸軍船舶兵特別幹部候補生」に志願し、高校卒業後、入隊した。

そしてその養成研修が終わると、いつのまにか「マルレ」戦隊の一員になっていた。

 

陸軍の秘密兵器の特攻艇「マルレ」は、夜間闇に紛れて敵艦に体当たりし、爆雷を落として、戦果を得る、というものだった。

 

派遣先は沖縄本島から約40㎞離れている、慶良間諸島の阿嘉島。

日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかける作戦で、慶良間諸島の島々に「マルレ」を約300隻配備した。

 

しかし、米軍も同じことを考えていた。

3月23日、米軍は沖縄本島戦の軍事拠点にしようと、諸島を空爆しマルレも破壊した。

3月26日、島に上陸を始め、数日で諸島を占拠した。

 

 

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結果的には、

 

・沖縄戦の最初に阿嘉島の戦隊の特攻艇「マルレ」がことごとく破壊されたので、出撃がなかった。

・米軍は上陸し全壊して行ったが、数日で阿嘉島からいなくなった(阿嘉島は、軍事拠点にならなかった)。

・野田戦隊長が阿嘉島の隊員や住民に対し実はできる限り配慮していたとしか思えない。隊員に「突撃しろ」とは言わなかった。阿嘉島では集団自決はなかった。

・戦後捕虜となったが、米軍だったので、収容所ではひどい扱いも受けず、栄養失調と医療の対応をてくれ病気やマラリアの心配がなくなった。

・そして収容所のなかで、『附記』の手記が回って来たのを読むことができたので、

沖縄戦がどんな作戦だったのか、沖縄本島がどんな状態だったのかを、その時に知ることができた。

 

 

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『附記』は、収容所で時間があったので書き写したという。

14000字におよぶ手記。作者不詳。

戦後たくさんの沖縄手記が書かれているが、この手記は世の中に出版されていない。

軍高官の立場としての手記はたぶん誰も書けないだろう。勇気のいることだ。

 

 

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深沢さんは、イラク戦争(2003-2011)が始まった時、今の人達は戦争を知らないと感じ、「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記」を2004年に自費出版した。

 

そして、世間に知られている海軍の「震洋」とは別に、陸軍の秘密兵器として「マルレ」があったことも知って欲しくて、この著書を執筆した。

海上挺身隊員3120名のうち1788名が病戦死した。

語ることの出来ない死者のために語ろうと思ったという。

 

 

”戦争では勝者も敗者も多大な犠牲を払っている。平和を保ち続けるのは容易でない”

 

こんな思いを二度としてはいけない。

 

 

記憶は鮮明だが、記録はしていなかったので、資料や証言を整えていったという。

数字や年代が細かに記載されていて、200頁弱の厚みだが、詰まっているものが多い。

それでも、こう言う。

 

”本当に何があったのかは、死んでしまったその人にしかわからない”

 

 

 


『ベニヤ板の特攻艇と沖縄戦』著:深沢敬次郎より

(”*”で記しているものは、ウィキ他を参考している)

 

表紙の写真は「マルレ」

・マルレ艇は陸軍の秘密兵器(正式名はなく、練習用(*連絡艇)のレをとって㋹)

・全長5.6m。べニア板製

・小型ボートに自動車用のエンジンを取り付けたもの

・速力20ノット(*米駆逐艦は30ノット、米輸送船は10ノット)

・爆雷250㎏を搭載し、敵船に体当たりするための激突板が取り付けられていた

・夜間作戦用で、秘密兵器なので、昼間は見つからないように、秘匿壕(格納庫として横穴を掘って)にマルレを隠していた

 

・簡単な造りだが、故障が多かった。

*作業する人が、女子挺身隊や学徒動員で技術的に未熟であったこと、部品の規格が整ってなかったこと、そして通信機も故障しがちで、的確な攻撃を仕掛けることが難しかった

*波が立つと使えなかった(”操縦訓練者の証言”より)

*250㎏の爆雷を積むとスピードが出ず、米軍に気づかれ撃沈されるしかないようなものだった(”操縦訓練者の証言”より)

*べニア製なのは、材料がないのもあるが、ぶつかった時に簡単に壊れるようにしたためでもあった


 

*参考:陸軍の「マルレ」と、海軍の「震洋」ついて

・陸軍の「マルレ」とは別に、海軍には「震洋」がある

・ほぼ同じようなものだが、別々に開発され、別々に量産された

(1944年6月中旬設計開発着手、7月上旬第一号艇完成)

(マルレの操縦者は、生還が困難であるため、すべて志願者があてられた)

志願者…1943年に募集開始した船舶・航空関連の”特別幹部候補生”出身者が主)

・生産が追い付かず、まともな操縦訓練ができていなかったのは、どちらも同じ

 

・もともとマルレは特攻用として開発されたものではなく、国土の水際防衛を陸軍で行うという発想で開発された

・震洋は船首に爆薬を搭載しているが、マルレは船尾に爆雷を懸架し敵船至近に投下して離脱するとして開発されていたが難しく、体当たり作戦となった


 

*参考

『マルレ~”特攻艇”隊員たちの戦争』2021年放送(NHKアーカイブスより約3分)1945/1/9~10の夜、フィリピンルソン島リンガエン湾でマルレ部隊が初めて出撃した部分と爆雷投下のイメージ

 

 

陸軍海艇隊

・一戦隊、隊長以下104名、マルレ100隻。

(*初期に編成された30個戦隊のうち輸送中に遭難したものが16個戦隊あった)

(*遭難…主に横浜で造られ、100隻を輸送船に乗せ、現地(沖縄やフィリピン)まで運んだが、多くが輸送中に撃沈された)


 

深沢敬次郎さん

1925/11(T14)   群馬県生まれ

1943/12「陸軍船舶兵特別幹部候補生」に志願する

1944/4 高校卒業後、 四国豊浜「陸軍船舶兵特別幹部候補生隊」として養成を受ける

1944/7  小豆島移駐(移動は陸軍上陸用舟艇)

陸軍として入隊したが、いつのまにか海艇の特攻員となっていた

1944/年末 慶良間諸島阿嘉島に戦隊として派遣された

(この時点から食料が不足していて、ずっとひもじい思いをしていた)

1945/3/23グラマンによる激しい攻撃で、秘匿壕が爆撃され、舟艇も破壊され、出撃ができなかった。

1945/3/26米軍上陸。マルレ以外に攻撃する武器を持っていなかった。

1945/3/29米軍撤収。米軍は破壊し尽くしてから、島から撤退していった。

それからは飢えとの戦いだった。

沖縄の離島で、通信も途絶え、食料もなく、食べられる草も食べつくし、

兵隊も住民も生きていくすべがない。

生きるか、死ぬか。

捕虜となるか、逃げるか、自決するか。

 

捕虜となっても、惨殺される。

逃げて軍につかまっても、軍法会議にかけられ、処刑される。

どれを選んでも、生ききれる見通しはなかった。

どれかを選べるか?

 

 

餓死していく

島で、自分や仲間が、餓死していく様子を、当事者として丁寧に綴る。

 

仲間がだんだんと餓死していき、マラリアで死亡したりしていく。

自分も餓死寸前の状態のとき、終戦。

 

1945/8/23 武装解除。投降。米軍捕虜となる(座間味収容所、ライカム収容所)

捕虜として、医療を受け、食事を与えられた。

人間として対等に接してもらい、危害を加えられるようなことはなかった。

 

復員。

仕事は警察官しかなかった。

群馬県巡査、巡査部長、警部補、警部となったのち1982(S57)退職

作家としてご活躍されている。

 

 

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こんな状況で、捕虜になろうが、自決しようが、

あるいはなにかに志願したとしても、

あるいはなにかを強制したとしても、

それは本人の自由な積極的意志ではないだろう。

誰からも強制されなくても、そうするしかない、選択だ。

 

 

その時代がそこに向かわせていたんじゃないのか

 

 

そうやって、人の命に対して”おかしく”なるのが、戦争。

 

 

 

今の時代はどうだろうか。

歪んだ情報や主張を止めることができず、どんより撓んでいく違和感は、

その頃の空気と同じでなければいいが。