「白鶴亮翅」は太極拳の24ある技の一つで、
このポーズをすることで自分の健康を保つと同時に相対する敵が目の前にいるときはこのポーズで攻撃をかわし身を守る。
この小説は、1980年代頃の話だろうか。
社会は高度成長のピークに向かうがまだ、男性は”結婚”することで一人前の社会人だと認識され人格の信用を得、女性は安泰した専業主婦が一番幸福な生き方だった時代。 ”結婚”はなにより互いに生きる手段だった。
(抜粋)
もし夫の早瀬がフライブルクに留学するという話がなかったら早瀬と結婚さえしなかっただろう。わたしは好奇心と冒険心が旺盛だっただけで、家族をつくるとか一人の人間と結びつくということについて深く考えたこともなかった。安定した生活がほしかったわけではない。早瀬がもし一流企業の社員だったら、家庭に入って母としての義務をはたす将来が絵巻物のように目の前に展開して逃げていただろう。逆にもし早瀬が一文無しの冒険家で南米を何年かいっしょに放浪しよう、と誘ってきていたら、これも又断っていただろう。家に財産があり、大学という組織に属している講師が奨学金を手に入れて何年かフライブルクへ行くのに同伴する。という話はわたしにとって安全に冒険できる都合のいい話に思えたのかもしれない。
主人公はドイツでは、対外的なことも夫を立てる必要がなくなり、自分で判断して行動することができた。生活の適応能力ははるかに夫を超えていた。
そして時期が来て、夫はひとりで帰国した。
自分はドイツに残った。
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太極拳を教えてくれる中国人は、かつて長春に住んでいた。
満州国の長春だ。
敵味方。
加害者被害者。
いつの時代にどこの国の人間であったか。
そういうことを相手との距離として暮らしていく。
アジアから遠い欧州に来て、初めて、そういうことを考える。
1980年代、日本はバブルをむかえはなやかにうかれるが、主人公はドイツでそういうことに向き合って生きていく。
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ウクライナ侵攻が、2022年2月24日に始まった。
著書:「白鶴亮翅」(はっかくりょうし)
著者:多和田葉子
発行:朝日新聞出版 2023年5月第一刷(朝日新聞に2022/2~8まで連載)
