「手」が印象的だった。

 

 

しかし、さわれない…

 

正面ではない位置の、さわれない高さに、手がある。

しかも、暗くて、晴眼者でも、手は見えてないかもしれない。

 

ちいさな手。

腕をまっすぐ伸ばし、力いっぱい広げた手。

 

粗削りな像なのに、このふたつの手だけは繊細だ。

 

しかも、この手の出ているところは、

”精神や感情"をイメージした頭部と、背中合わせに立つ3体体部の間から。

 

何かから逃れようとしているかのような、助けを求めるような、

宙にのびる、ふたつの「手」。

掌の向きから、一対の腕ではない。

 

3体の身体の手は、全てポケットに収められ、表に出ていない。

 

 

光のないところでは、グロテスクな、この”苦悩”のうずめきを感じるような像も、

 

着色されると、カッコつけた、おしゃれな兄ちゃんだ。

”苦悩”ではなく、精神も ”整った” 羽根を広げている。

 

 
 
作家名:高見直宏(1973~)
作品名:「イメージする形」
 
❖作者の解説より
万物に宿る生命エネルギーは可視化できない。
不可視の存在をどうすれば感じられるのか。
全身をセンサーにして、「見えない形」をイメージしよう。
この2点は一対の作品であり、未知なる内面を含んだ人間を表現した。
人は身体だけでなく、精神や感情を持つ存在であり、
それを形にするべく、エクトプラズムをモチーフとして取り入れた。
2点の形(印象と雰囲気)の違いを触覚的にたのしんでいただきたい。
 
■「叢雲ーエクトプラズムの群像」2021年作成
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■「群雲ーエクトプラズムの群像」2021年再作成
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触った感触の違いを楽しんでといわれても、壊しそうでそっと触れるだけだ。

 

視覚からくる印象として、

 

仏像のようだ、と感じた。

作られたときは、あざやかに彩色されていた仏像。

年月とともに色が落ち、木肌のあらわれた仏像。

 

のびた手から、阿修羅像を思い起こした。

 

 

***

作家の高見さんは、

東京芸大大学院修了。彫刻家。学生時代に、網膜色素変性症が発覚し、その後は、写実でない、イメージの形を追求し制作するようになった、という。

 

広瀬浩二郎さんの「視覚に優れた人がそれを失う感情は自分の比ではなく、計り知れなかっただろう」という言葉を痛みに思う。

 

 

展覧会名:巡回展「ユニバーサルミュージアム」さわる!”触”の大博覧会

会場  :直方谷尾美術館

期間  :2024/7/6~916