9.11の衝撃の映像は、2001年から20年以上経った今でも目に焼き付いている。
その設計者が、日系二世アメリカ人のミノル・ヤマサキだったとは知らなかった。
その時、話題になったんだろうか?
ミノル・ヤマサキ(1912-1986)
明治になり、アメリカに渡った両親。
どれほど優秀だったとしても、日本人移民として超えられない壁があった。
そして、戦争。
そんな時代に、日系二世という立場に負けず生きてきた努力気力は並ではない。
もちろん、秀でた才能も並ではない。
ヤマサキ氏のその一番の才能は、プレゼン能力だったのかもしれない。
自分のデザインに自信を持ち、プレゼンでクライアントの心を掴む。
氏は要請がなくても(自費でも)、建築模型を作り、設計を確認したという。
設計事務所には、模型室があり、模型職人が常時6人いて、ピーク時はさらに15人のアシスタントが加わったという。
そして、この模型で、クライアントを虜にする。
1962年、ニューヨーク港湾局より手紙が届いた時、タイプミスかと思ったという。
プロジェクトの予算は、二億八千万ドル。
社員55人の設計事務所。
今迄の最高額は、千九百万ドルクラスだった。そして大半が五百万ドルだった。
しばらく返事ができなかったという。
【ワールドトレードセンター】
1962年、ヤマサキ氏は、主任建築士として、アメリカ港湾公社により決定した。
当初、80階建のツインタワーがヤマサキ氏のアイデアであった。
しかし、入居テナント数の確保できないのと、高さを求められ、
最終的に、110階建てとなった。
1973年4月4日、WTCオープニング式典が行われ、正式に開業した。
表紙の写真は、
ワールドトレードセンターの建築模型とヤマサキ氏。
敷地の模型を作り、
そこにビルの模型をまずはダンボールで作り、配置してみる。
設計に費やした2年の間に105個もの模型が作られた。
最終案のこの模型の
高さは3m以上あり、事務所に置くために天井のパネルを2枚外した。
しかも、縮尺違いで様々に作った。
まず、約1200分の一…高さ34㎝ 空中からの鳥瞰
次に、約192分の一…高さ214㎝
更に、ビル下半分だけを96分の一
徐々に縮尺を小さくし、材料を変えながら、たくさんの模型を作った。
原寸の階段まで作り、歩きやすさのテストまでした。
そして、設計事務所を2日間仕事をとめ、
事務所を片付けて、模型を設置する。
しかも、模型の下に30㎝の土台を敷き、地下コンコースから見上げる視点を作る。
なぜこのビルが美しく感じるのか。
2つのタワーが平行にではなく、微妙に重なり合って見えるように配置されている。
見る角度によって形を変えていく。
遠くから見たツインタワーの掲載写真は、
静かな佇まいで、ずっしりと安定し、高さに対する違和感や畏怖感は感じさせず、
しかも、しっとりと、樹木のように、呼吸をしているようにみえる。
どうして、ただの四角いビルなのに退屈しないのか。
結果的にアメリカの象徴になったが、
経済最高位の権威の象徴として設計されたわけではない。
世界貿易センターの名前のとおり、
世界中の消費の集まる場所の賑わい、人々が憩える広場であるように、
外観は精神性を感じさせるデザインとして、イスラム建築をイメージした繊細さ。
・窓ガラスは極力少なくする(超高層で働く人々の恐怖感の軽減と、省エネ考慮)
・ベアリング・ウォール構造とする(ビル中心部のコアと外壁だけでビルを支える構造にし、風圧による揺れを防ぐ。時速240キロの風に耐えうる強靭なビルとなる)
飛行機が飛び込んだ時、そのまま1時間近く、ビルが崩壊しなかったのは奇跡といわれている。しかも崩壊は外に向かわず、内側に向かって崩れていった。横に倒れず垂直に崩壊した。
まるでビル地階で爆弾が破裂したように。
ビルが耐えられなかったのは、その時の1000℃以上の熱のせいだと言われている。
いろいろ言われたようだが…。
なぜ、”標的をつくった”という言われ方をされなければならないのか?
外観のイスラムモスクを彷彿とさせるデザインが、イスラム圏の反感をかっていた。
そのモスクのデザインの外観の建物が、反するアメリカ経済の世界トップの象徴となっていった。(結果的に家賃が高騰し、世界貿易関連の企業テナント、ではなく、州政府のオフィスや経済トップが多数入居した)
アメリカ型資本主義を体現したWTCがイスラム建築風であったことは、反米的イスラム原理主義者たちにとっては、受け入れ難いことだったろう。
モスクを商業にしたことに対する特別な不満がありターゲットになった。
この本では、そのように導かれるが、決して、ヤマサキ氏のビルのデザインのせいではないだろうと思うが。
911テロで標的とされたのは、この建物だけではなかった。
実は、ヤマサキ氏はイスラム建築を愛し、サウジで王室要請で建築していたほどだ。
(そのまま抜粋)
WTCの崩壊 ー 。
それを目にすることはなかったものの、イスラム建築を愛し、その地の発展に少しでも寄与しようとしたミノルにとって、WTCは何とも悲劇的な最期を遂げたといえる。
「イースタン・ブロビンス空港は後にキング・ファハド国際空港と改称されて、1991年の第一次湾岸戦争の際には戦闘機用倉庫として機能し、911でのWTCへの攻撃は第二次湾岸戦争勃発の発端になりました。 (息子の言葉として)
建築家は政治家ではない。
宗教家でもない。
しかし建築は哲学で、精神性を反映する。
ヤマサキ氏の宗教性の高い建築がどう評価されているのか知らないが、
ご自身の愛した「マクレガー記念会議センター」や「神慈秀明会大礼拝堂」などは掲載写真で見て、心ひかれる。
著書:「9.11の標的をつくった男」天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯
著者:飯塚真紀子
発行:講談社(2010発行)