キーンさんにとって、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房、司馬遼太郎は、交流があり親しかったので、甲乙の比べはなかっただろう。

 

 

興味深かったのは、谷崎も川端も三島も「源氏物語」と深く関わっていたことだった。

 

 

🌳谷崎潤一郎(M19/1886ーS40/1965*享年79歳)

「源氏物語」を現代語訳している。

「谷崎源氏」は昭和14ー16年にかけて全26巻を刊行。

この仕事の間、他にはほとんど何も書いていない。

 

当時検閲が厳しく、光源氏と藤壺の関係が皇室への不敬に当たるとされ、その部分を除いた形でしか出版の許可がされなかったという。

(キーンさんの言葉、抜粋)日本文学最高のほまれが、日本の理想への忠誠一筋を公言する者たちによって削除されるという、皮肉な矛盾に陥っていたのである。

 

その後も翻訳を繰り返し、

上記の旧訳(S14-16)、新訳(S26-S29)、新新訳(S39-40)がある。

 

 

*ノーベル文学賞受賞について

1964年、谷崎潤一郎が受賞と言われたが、誤報で、日本ではなかった。

1965年、谷崎潤一郎 逝去。

1968年、ようやく日本に受賞の番がまわってきた。谷崎はもういないので、

     日本でも海外でも三島が受賞確実とみられていたが、

     別のところから強力な推しが入り、川端に決まった。

1970年、三島由紀夫 逝去。

1972年、川端康成 逝去。

 

ちなみに、キーンさんも三島を推していた。

もし、三島が受賞していれば、死に向かわなかったかもしれない。

 

もし、川端が受賞していなければ、どうだったんだろう。

 

死への理由は明らかではない。

川端が逝ったとき残された人たちは、とうとうそっちに行ってしまったのか、あるいは、どうしてもこちらに引き止められなかったという、やるせなさを感じたという。

 

 

 

🌳川端康成(M32/1899ーS47/1972*享年72歳)

戦争中、作家生活に不自由はさほどなかったらしい。

そして日本が敗戦に向かう中、古典とくに「源氏物語」を慰めとする。

 

(川端の言葉として、部分抜粋)

戦争中、空襲もいよいよはげしくなつてから、灯火管制の夜の暗さや横須賀線の無慙な姿の乗客のなかで、私は源氏物語湖月抄を読んでゐた。

読みながら私はよく流離の吉野朝の方々や戦乱室町の人々が源氏物語を深く読んだのを思ひ出したものであつた。

警報(空襲警報)で見廻りに出ると、明り一点もれぬ小さい谷に秋か冬の月光が冷たく満ちた夜など、今読んでゐた源氏物語が心にただよひ、また昔源氏物語を悲境に読んだ古人が身にしみて、私に流れる伝統とともに生きながらへねばと思ふのであつた。

 

(川端の言葉として、部分抜粋)

私は自分を死んだものともしたやうであつた。

自分の骨が日本のふるさとの時雨に濡れ、日本のふるさとの落葉に埋もれるのを感じながら、古人のあはれに息づいたやうであつた。

その心沈みを、敗戦を峠としてそこから足は現実を離れ天空に遊行するほかはなかつたやうである。

元来が現実と深く触れぬらしい私は現実と離れやすいのかもしれない。

 

 

 

🌳三島由紀夫(T14/1925ーS45/1970*享年45歳)

戦争中、召集令状が届いている。

前年の徴兵検査は田舎で受けても、第二乙種合格。召集時の入隊検査当日は熱と咳を肺浸潤だと誤診を受け、戦争に行っていない。もし行っていれば隊は全滅し、フィリピンで死んでいた。

 

その時の罪悪感ではなく、もともと夭折の美に魅せられていた。

戦争中「葉隠」を読んでいた三島は、兵役を回避した時でさえ「死」(死=愛、美)は、三島を捉えていた。

 

そして、死の前。

(キーンさんの言葉、部分抜粋)

日本の景観を無慈悲に切り刻んで顧みない貪欲と、それが舶来だからというだけで事物や習慣を表面的に受用する西洋化、この二重の脅威から日本文化の崩壊を救えるのは若者の純粋さ、信念、覚悟だと、死を辞さぬことで日本の美を示した三島。


 

 

国破れた山河を見て、日本の美の伝統を継ごうと思う以外なにも残らなったという、川端。

 

 

この本の中には出てこないが、

「『源氏物語』以上の文学は書けない」と言っていたのは、三島由紀夫だった。

 

 

 

 

著書:「思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬」

著者:ドナルド・キーン

訳者:松宮史朗

発行:新潮社 2005年発行