源氏物語を有職故実(ゆうそくこじつ:古の朝廷や公家、武家の儀式や行事、風俗、習慣、装束など)の視点から読み解いていて、読み進めていて楽しい。
写真に溢れている。
植物、装束、色合いなど見ているだけで時間を忘れる。
やまと絵もそのひとつで、表カバーに使われているのは、土佐光吉のもの。
(土佐光吉:室町時代から安土桃山時代の大和絵土佐派の絵師)
特に興味深かったのが、「末摘花」。
その容貌で有名だが…
当時としては不美人とされるもので、
背が高く、瘦せていて、顔色が青白く、鼻が高く先が少し下がっている。
鼻先が赤いのは極寒気だったからだろう。
同じような容姿をした平安中期の実在人物がいるという。
醍醐天皇の第四皇子・重明親王の子、源邦正。
背が高く細く、頭は「鐙頭あぶみあたま」(後頭部が付き出たさいづち頭)、
異様に青白い顔で眼の周囲が窪み、鼻が見事に高く赤い、
髭も赤毛だったという。
紫式部の時代には「醜男」代表の名前として有名だったろうという。
そして寒いからと言い訳しながら、家伝の一張羅の毛皮を衣装箱からだして羽織る。
「表着には黒貂の皮衣、いときよらにかうばしきを着たまへり」
(クロテンの毛皮に香を焚きしめたのを着ている)
当時としては非常に高級であるクロテンの毛皮は、
高貴な貴族であった亡き父親の常陸宮のもの。
常陸宮の実存のモデルとされる重明親王(906年生まれ)は、
(交易で)大陸から来朝した渤海使が黒貂の毛皮を一枚着て自慢したが、重明親王が八枚重ね着しているのを見て恥じたという逸話があり、多くの人がこの話を知っていたろうという。
重明親王が大量の黒貂の毛皮をどこから入手したのかは不明だが、平安中期には蝦夷経由で都に送られていたようだ。
重明親王は北方や大陸と交易できる何らかのルートを握っていた可能性があるという。そしてそのことは、
(以下本文そのまま)
そのことは源邦正そして末摘花の日本人離れした容姿と無関係ではないのかもしれません。
遣唐使廃止894年以降も唐物は中国商人によって太宰府に入っていたという。
渤海国は、現在の中国東北部から朝鮮半島の北部、ロシア沿岸州に存在した国で、
727年~919年まで、34回も「渤海使」が来日している。
重明親王が毛皮を見せつけた相手は919年最後の渤海使だと思われるという。
著書:「詳解『源氏物語』文物図典ー有職故実で見る王朝の世界ー」
著者:八條忠基
発行:平凡社 2024/1/24発行
カバー表側:土佐光吉筆『源氏物語図屏風』、土佐光吉筆『源氏物語図色紙』(いずれも部分、メトロポリタン美術館オープンアクセス)