戦時下の昭和19年
25歳でトラック島に主計官として赴き、部下(工員)200人ほどを預かる。
戦争末期、日に3~5人が餓死していく。
抜粋:
責任を感じた。部下をこんなに死なせて、これは私が悪いんだ。
彼らの非業の死は自分の責任だと、強く感じるようになった。
しかし、そう思いながらも、一方では机上の計算もしています。
主計課ですから、食料の調達や保管が仕事です。
食糧があとどのくらいあるのか把握できます。
その限られた食料に対して、何人死ねば他の者の口にそれが回るかと、
仕事とはいえそろばんをはじいているのです。
死者への責任を感じながら、
一方でそのような計算もしている、
そんな自分が薄汚なく思えてなりませんでした。
まだ若かっただけに
それは余計に
私の身にこたえました。
死者に対する責任。
生き残った限り、この人たちに報いることを
国に帰ってからしなくてはいけない、
あの時、私は心にそう決めました。
それが、後の私の行動の原点なのです。
その後、終戦を迎え、
米軍の作業等に従事し、それも完了したというので、
一年三カ月たってから、
最後まで捕虜として残っていた戦友たちといっしょに、
本国から迎えにきた駆逐艦で帰国した。
駆逐艦からみる、島に残した戦没者の墓碑が
私たちを最後の一瞬まで見送ろうとするかのように、
夕暮れの果てにいつまでもいつまでも
見える思いなのです。
”水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る”
著者:金子兜太
著書:「二度生きる」 凡夫の俳句人生
発行:チクマ秀版社(平成6年初版)
