似合わないとどんなに周りに言われようが毎週ルンルンと陶芸教室に向かってる。
友は相変わらず器用に作り上げ、失敗しても歪みを愛し慈しみ、私は相変わらず下手くそなくせに理想とかけ離れた作品になると一から作り直したりする。
そんな私を見かねて友は図書館に私を引っ張って行き美術品の図鑑を広げ、歪んだ作品の美しさや儚さを見せてくれ私の価値観を決して否定はせずに新しい感覚を植え付けてくれる。
私は彼女のもつ柔軟性や子育て論が大好きだ。
私は下手なくせに拘りすぎる。
歪みを愛せないというところは自分の子育て論にも表れていたと思う。
不登校児が誕生して良かったなんて事は、まだまだ微塵も思えないけれど
歪んだ均一ではない器の良さも、形が悪くなって市場には出ないけれど手をかけ過ぎず水を充分与えられなくなったトマトの甘さを知ったのも、不登校児が誕生して私の拘りが寛解された後だ。
ずっとずっと我が子の姿は母親の通知表みたいだと感じていた。
子供が褒められないと優秀ではないと母として価値がないんだと力が入りすぎて拘り過ぎて、娘のための子育てではなく自分のための子育てになっていたんだと思う。
勿論母の拘る通りの子になれば娘達も失敗せず結果娘達の為にもなると信じて疑わなかった。
でも我が子が不登校を選択して私は初めて、今までの子育てが自分よがりだった事に気がついた。
・・いや。
気がついていたけれど、止められなかったのをようやく手放す事が出来た。
と言った方が正しい。
子育ての主役がようやく娘達になれたと思う。
まだまだ拘り0とはいかないが。
子供達に失敗させる大切さ、そしてその失敗を子供達自身が自分の力で乗り越える事が一番大事なんだと今は思う。
形が悪かろうが歪んでいようが万人に認められなくてもいい。
娘達が大切だと思える人達から見て娘達が美しく甘ければそれが1番良い。
この気持ちを忘れずに書き残す。
例え綺麗事でも私は忘れちゃいけないんだ。