「風が吹いた。さぁ生きよう。」風が吹いたとき、どうするかを自分で選べる | 天津甘栗

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自分のふとした気付きや、誰かが気づかさせてくれたこと、ただの日常のつぶやきなど、きの向くままに綴っていきます。

今回は、最近の変化の連続のなかで

吹き荒れる風を感じる時の私の気持ちの変化についてのお話です。




強い風が吹くと

その前後でいろんなモノやコトが動き変化が起こるので

見える景色や感じることが

これまでとは違うものへと変わってしまうことに

不安や恐怖を感じたり

心が落ち着かず、ざわざわしてしまったりすることもありますね。

風のもつエネルギーってすごいですよね。






私の“風”の原体験は、実家で経験した数々の台風のときのことです。



台風がくると私はいつも

縁側の大きな窓から、吹き荒れる外の様子を眺め

『オズの魔法使い』のお話のように

本当に家がどこか遠いところに飛んでいくんじゃないか

と怯えていました。

怖くて怖くて、黙ってただ外を見つめていました。



吹き荒れる外と、家の中にいる私を隔てるのは

たった1枚のガラス窓。



大きくて透け透けなのに

他のガラスはどんどん割れていったのに


あのガラス窓だけは、私が知る限り1度も割れることなく

家もどこか遠くへ飛ばされてしまうこともなく

家族と私を守りつづけてくれました。





また、ある時は

台風が近づくなか

ビニールハウスの補修を手伝うことになり

骨組みを頼りにハウスの天井に登って作業をしたことがありました。



当時の私はすでに、大人と間違われるくらい体格はよかったけれど

家業の危機感や責任などわかるはずもなく

親に指示されるがままにしか動くことができません。



親の指示通りに天井に登っていたときに

ビニールごと風を受けて何度も飛ばされそうになるなか

私が感じていたことは


もちろん

強い風が吹く度にここに留まれないんじゃないかという恐怖はあったけれど

なにより、親の指示を待たなければ動けない自分(の未熟さや無力さ)が恐ろしくて恐ろしくてたまらないということでした。



その時私は

自分の命は自分でしか守れないということを身を持って知りました。

そして

親も自分の命を守ることに必死なのだと知りました。



ヒトが自然の中で出来ることは限られていて

当時の私から見たら強くて万能だと思っていた大人の親でさえ

自然の脅威には抗えないのだということを

子どもながらに感じていました。



それに対しては、落胆とか軽蔑とかそんな感情はなく

私はもちろん、目の前の親と同じようにしか生きていけないヒトであると自覚したし

それが、大自然の中で生きるヒトの本来の姿なのだと

ヒトが世の中の全てをコントロールできるものではないのだと

そんな気づきを得たということです。



命がけの体験をしたとき

誰かをコントロールすることや、誰かをどうにかしたい、誰かになにかをぶつけたい

そんなことにまで意識を向ける余裕はなく

自分のことで精一杯なのです。

自分のなかでしか消化できないことや、自分が納得するしかないこと

そんなことを感じて気づくことしか出来ないのです。



それ以降、私は、強い風が吹く度に


「風立ちぬ、いざ生きめやも」

(風が起こった。生きるのかなぁ。いや、生きないよなぁ。「死んでもいいよなぁ」)


というような

自分の無力さを感じるというか

自分に出来ることの限界を悟ったような気持ちになっていたなと思います。


多くのことに対して、あの時感じたヒトの限界を言い訳にして諦めていたなぁと思います。





だけど

最近の吹き荒れる風のなかで、自分の抱く感情が変化しているのを感じてもいます。



これは、

これまで自分と向き合うなかで、私が私を生きるんだと思えるようになったことから

風が吹いたとき、どうするかを自分で選べることを自覚できたことが大きいと思います。



「風が吹いた。さぁ生きよう。」

という強い思いが湧き起こる。そんな感覚なのです。



これからも自分と向き合い、自分を整えながら

どんな時も、自分の足で地面を踏みしめて、吹く風をただ感じていたいと思います。


達観のなかで、諦観し、覚悟する。


春の風が吹き荒れる、今、私は、そんなことを、考えています。




※「風立ちぬ、いざ生きめやも」の意味が分かりやすかったブログを紹介しておきます。