『ひらいていいよ、自分のことを出してみていいよ、どんな自分でもいいよ、それでも大丈夫だからね』 | 天津甘栗

天津甘栗

自分のふとした気付きや、誰かが気づかさせてくれたこと、ただの日常のつぶやきなど、きの向くままに綴っていきます。

今回は、少数派の視点、マイノリティの視点で生きてきた私が、今考えていることのお話です。


わぉ♡
いきなりドアップの素のわたしで失礼します♡




私は、自分がマイノリティであることを自覚してから

自分に向けられる周囲の人たちからの視線を逃れるように生きてきました



マジョリティの基準で作られた社会で、その枠に収まれない自分をずっと隠し、自分自身をその枠に無理やりはめてしまうことも当たり前にしてしまっていたなぁと思います。



そんな生き方は、自分を殺していないとやっていけませんでした。


それは、自分は存在しないもの、とするということなので、

いつのまにか、私は、
本当の自分がなんなのか、本当に自分が存在しているのかさえもわからなくなっていきました。





これまでにも
そんなふうに生きていることが苦しくなって
自分と向き合おうとしてきたことが何度もあるけれど

自分と向き合おうとすればするほど、
気づくのは、結局、そんないるのかいないのかわからなる自分ばっかりでした。


そして、いるのかいないのかさえわからない自分が生きていることの意味を、何度も何度も見失ってしまいました。



だけど、自分がどんなに苦しくて、助けを求めたいと思っていても、外を見れば見るほど、周りをみればみるほど、マジョリティの基準、考え、振舞いばかりでした




私からの視点では、私と周りの違い、はわかるけれど、
周りの人達の視点では、そこに、違い、は存在していないように感じていました。ないことになっていると感じていました。



本当に、存在することさえ許されていないんだな、という感覚をずっともって生きてきました。



だから、世の中に対して、社会に対して、周りの人達に対して、私はずっと怖いと思っていました。怖くて怖くてたまらなかった。




それでも、
少しずつ身近な友だちに、自分のことを打ち明けられるようになったり

うさマスでも、打ち明けてみたり、


そうやって、ほんとはね、私はねって

自分のことを伝えてみることで、




もちろん、みんなが


「しのぶはしのぶ」って言ってくれたり




なにも変わらず一緒にいてくれてたり



それはとても嬉しいし、大きな安心をもらっています。




でもね、なにより一番感じてるのは


自分のことを隠さないでいきる!と決めた、覚悟した自分に対しての安堵とか信頼なのです。


生きてる感じが戻ってきているのです。
私が私を生きてるって感じられているのです。





そしたらね、
私の場合は、公衆トイレとか銭湯・温泉とか、更衣室とか、服装とか、まぁ、その時々で苦しくなるときは確かに変わらず、今もあります。

でも、それをどうするかを、自分が選べるんだな、という感覚を取り戻しました。
どうしたいかを自分が決めて、やれるんだって思えるようになってきました。




もうね、それだけで、十分なんです。
それって本当に自由なんです。
こんな幸せない!っていうくらい幸せなんです。 



それでね、
なんで、今、私は、こんなふうに自由で幸せを感じられるのかなって思ったら、



うさマスが、

ひらいていいよ、自分のことを出してみていいよ、どんな自分でもいいよ、それでも大丈夫だからね

っていう場だから、そういう場に集ったみんなに対してだから、出そうと思えて、そして、自分を出すことができました。




私の人生の中で、こういう場があたえられて、
ここでこのメンバーと出会えたことには、
本当に感謝しかありません。本当に本当にありがとう。
言わせてくれて、ありのままをさらけ出させてくれてありがとう。






こういう経験や体験をさせてもらった今、
私がみんなに伝えたいことは、


いろんな人がいるということを、
なにも言えない、言わないけれど、
考えや思いや、基準やこだわりや何もかも、見えるものも見えないものも、自分とは違うものがある、自分とは違う存在があるということを、知っていてほしいなぁ
頭の片隅においておいてほしいなぁということです。



そして、
例えば、性的マイノリティLGBTのシンボルは、レインボーカラーなのだけど、そのレインボーカラーをさりげなく強調しているひとがいたり、“理解します”という意識表示をする人がいたり(そういう人をアライという)それだけでも、ずいぶん救われるのも事実です。



会話の内容でも、マイノリティの存在をからかうとか、否定するとか、自分がしていなくても、それに同調するとか、
私はそういうことを小さい頃から見聞きしてきて、“私は誰にも受け入れてもらえない”と感じてきましたし、それこそ、ホントに周りは敵だらけだと思ってきました。


だから、詳しく詳しく知ろうとしてくれることも、もちろん嬉しい、理解しようとしてくれることももちろん嬉しい。

だけどね、例えそんなに詳しく知らなくても理解していなくても、
私は敵ではないよ”、“私はあなたをあなたとして見ているよ”と、意思表示してくれるだけでも、
ほんとに救われる人はたくさんいると思うのです。
言わないかも知れないけど、たくさんの人が安心すると思うのです。



私は今、そうやって、うさマスで、安心を大丈夫をいっぱいもらっています。

みんなは、もう、そうやって、安心も大丈夫もいっぱいくれているなぁって感じています。

それを、うさマス以外の場でも意識してくれたらいいなって、それだけでも、十分だなって思っています。


本当に本当にありがとうございます♡