今日は日曜日 | 脳梗塞と民話語り

脳梗塞と民話語り

よう来なすったなあ~、ゆっくりしてきなっせ~





月・火曜日はブログ定休日だよ、

ウオーキングには毎日行っていたのですが

   その後が、お店のバスの運転やらで忙しく動き回っていてブログアップに至らず

 

今日も一日お店に貼りつきです

   なので、ウオーキングには行かずブログをちょっと書いておこうかなと

 

昨日あったこととか

   今日あることなど書いていったら、とてつもない字数が必要になるからやめます

 

台湾の総督を決める選挙

  良かったですねえ、現政権が勝利して香港の事を見てますからね

 

自由に飛び回っていた小鳥が

   その自由を奪われ、一定の広さの籠の中で暮らせと言われても

 

そう言う意味で

  多分現政権が勝利したのかなあって・・・・・年寄りの凡人は思うんだけれど

 

敗れた候補は

   高雄市出身だと思うんですが

 

昔のお話が高雄市にはありまして

   その懐かしさがゆえに、ちょっと関心があったと言う分けなんですね

 

こういう話があるんです

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  嘉南平原の父
  もう昔の話になるかな、今から百年ほど前、日本が台湾を治めていた時の事だと
  その台湾南西部高雄市には嘉南平原と言う大平原があったと
  そこは毎年干ばつと水害の繰り返しでな、食物が一切獲れない不毛の地であったと
  それでも農民たちは、サトウキビやトウモロコシを作って貧しい生活をしておったと
    さて、そんな時日本政府の命を受け
  台湾にダムを造り食糧増産をする為に、八田與一と言う若者に白羽の矢が立ったと

  八田は台湾につくと、嘉南平原に目を付け、さっそく調査を開始した
  農民たちは八田に、何をしているのかと聞いて来たと
  「この嘉南平原を穀倉地帯にするため
   一億五千万トンの東洋一の水がめを作りたいんじゃ」そう言ったら
    「やめとけ!大昔からこの土地に水を引こうとして成功したものは誰もおらん
    無謀な事を考えるやつだ、ほっとけほっとけ」
  土地の人達からは、相手にされなかったと
  それでも八田は調査を重ね、日本政府に概算書を出したらな
  「予算を縮小せよ」との命令が出たと
  しかし八田は「すべての農地に水を与えるには、この規模でないと無理です」と
  一歩も譲らなかったと
  そこで、三年掛けて計画を練り直し、費用の半分を地域住民が出す事で
  政府の了解を取り付けたと
  だが土地の人達は、「なんで俺たちが金を出さなければならないんだ」
  「そうだそうだ、俺たち貧乏人から金を巻き上げるつもりなんだ」農民は猛反発
  それでも八田は「あなた達の暮らしを楽にする為に、あなたの子供や孫たちの
  将来の為にするんですよ」と説得して廻ったと
  
    その甲斐あってな、日本人を含め二千人の人があつまったと、
  険しい山奥での力仕事でな、その上衛生状態も悪く、労働条件は最悪であったと
  病気で倒れる人、仕事を放りだす人、気持ちも荒んで喧嘩を始める人が続出したと
  そこで八田は台湾総督府に頼み、家族と一緒に住める宿舎を作り、学校・
  病院集会場と言った公共施設の他、商店や娯楽施設も作り生活環境の改善に務めたと
  また自らも家族を呼び寄せ、台湾人と日本人を差別することなく
  同じ目線で一緒に働いたと
  それを見ていた台湾の人達も、いつしか気持ちも和み、八田を信頼するようになってな
  ダム工事も順調に進んで行ったと
       
    そんなある日の事、ダム工事現場で爆発事故が起きたと
  「負傷者を、負傷者を早く助け出せー、」八田は大きな声で走り回ったと
  「しっかりしろ!今助けてやるぞ、」がれきの下から「早くここから、ここから出してくれー」
  土の中からも、「う~う~苦しいよ~」うめき声がするんだと

  爆風で人が吹っ飛んで、死体の上に死体が重なり合ってゴロゴロ転がってたと
  八田の目の前には、この世の物とは思えぬ、悲惨な光景が次から次にと飛び込んできたと
  日も暮れかかったころには、死者五十数名、負傷者百数十名と言う多くの犠牲者が出たと
  八田は犠牲者のすべての家を周り「申し訳ありません、すべて私の責任です。」
  そう言って土下座をして謝ったと 
  「亭主を返せ!お前がこなければ、亭主は死ななかった、亭主を返せ!」
  罵声を何度も何度も浴びせられ、さすがの八田も意気消沈してしまったと
  「このまま工事を続けていいのだろうか、それとも止めた方がいいのだろうか、
   俺は、この土地の人達を幸せにする筈なのに、かえって不幸にしてはいないだろうか、
    ダムを造るのは、俺が自己満足するだけなのでは・・・」
  何度何度も自分を責めたんだと
  ある遺族の妻が、「私の主人はダムを造る事に誇りを持っていました
    今やめたら農民は食っていけなくなります、
      どうか立派なダムを作ってくださいお願いします。」
  多くの犠牲の伴いながら十年の歳月が流れ、
  烏山頭と言うダムと、一万六千キロにも及ぶの用水が完成したと 
  「これで嘉南平原に水を引く事がことが出来る」
  みんながそう思ったとき、歓喜の声が一斉に湧きあがったと

  そこで八田は農民に言った
  「もともと、このダムの水で灌漑できる田畑は5万ヘクタールだけなんです。
  そこで提案なんですが『三年輪作法』をやって見てください
  この方法は、嘉南平原を三つに分割して、1年目には稲を栽培し、
  2年目には、あまり水を必要としないサトウキビ、
  そして3年目には水をまったく必要としない雑穀類を栽培をするという農法なんです」
  そう言ってな、農業指導をしたと
  そうして十五万ヘクタールの耕地を水で潤すようになると
  嘉南平原は飛躍的に成長し、一大穀倉地帯となっていったと、

  喜んだ農民は八田の功績を称え、
   ダムの見える丘に銅像を作り「嘉南平原の父」として設置したと
   その後、八田は陸軍からの命令でフィリッピンに向かう途中
  アメリカの潜水艦に撃沈され、非業の死を遂げたと
  彼の妻はその三年後、戦争に負けた日本人が一人残らず台湾から引き上げる時
  烏山頭ダムの放水口に身を投げて八田の後を追ったんだとさ

                                                    お し ま い