古い建物が好きな者にとって「博物館明治村」(愛知県犬山市)は夢のような存在です。
ここに移築された建物は著名なものだけでも帝国ホテル、森鴎外夏目漱石邸、宇治山田郵便局、聖ヨハネ教会堂等数え切れません。
行ったことのない方は公式HPだけでも目を通してください。(http://www.meijimura.com/)
私は明治村を創設された谷口吉郎氏と土川元夫氏の志に深い尊敬の念を覚えずにはいられません。
谷口氏は昭和15年に鹿鳴館が取り壊されたとき「明治の愛惜」と題する慨嘆の文を寄せて近代化遺産の保存活用を訴えた東京工業大学の教授であり、土川氏は名古屋鉄道社長として手腕を発揮された経営者です(別冊太陽「明治かがやく」125頁)。明治村プロジェクトは高い文化レベルを誇りながら事業としても成り立っている希有な事例です。
にも拘わらず、私は明治村で一抹の寂しさを感じざるを得ませんでした。
透き通ったイカではなく・するめを食べている感じと言えばよいでしょうか。
生きた昆虫ではなく・標本として並べられた死んだ昆虫を眺めている感じと言えばよいでしょうか。
それは「あるべきものがあるべき場所にない」こと、つまり「建物がその土地から切り離されている」ことの表れです。
博物館明治村はユートピアなのです。古代ギリシャ語の「トポス」とは場所のことであり、「ユー」はその否定。つまり「場所をもたない」ということだからです。
建物は、ある土地における一定の目的のために誕生します。その土地における具体的物語を成就するために存在するのです。
建物が身に纏うかような物語が建物同士で響き合うときそれは「街」としての静かな音楽を生ぜしめます。かかる静かな物語を歩きながら味わうこと、これこそが歴史散歩の醍醐味ではないかと思います。
古い建物が本来の場所にあり現に生かされているのを見るとき、私はとてもうれしい気持ちになります。当初の使用目的で使われている必要はありません。何の目的であれ、現役の建物として人を包み込んで呼吸し大地に根を張っている古い建物が私は好きです。
「トポス」という言葉は、レトリック用語として使われると、議論の共通認識を生み出す地盤といった意味にもなります。地域の人々が思いを寄せる対象としての建物・地域の人びとが集う絆(きずな)としての建物を私は愛おしく思います。
人びとの思い出が詰まった古い建物が、経済合理性の観点だけで取り壊されることを悲しく思います。(2009年7月15日脱稿)