アメリカ・ドイツではアップルが、オーストラリア・日本ではサムスンが、韓国ではお互いの特許侵害という結論になっている。まだ第1ラウンドではあるが、アメリカで出した証拠を日本で出さなかったとかそういうことはまずあるまい。
なのにどうして各国の判断がバラバラになってしまうのだろうか?
司法権の定義・由来に遡れば割と理解できる現象である。司法とは、具体的な争いについて、法を適用し宣言することによって、これを裁定する国家作用と言われている。
つまり、司法権の行使はそれぞれの国家自治に委ねられているので、例えばアメリカでどういう判決が下されようと日本でそれに拘束されるいわれはないという歴史的背景があるのだ。
法というのは、日本国憲法を読んでいただくとわかるとおり、特に欧米では市民にとって、刑罰そして課税における国家権力の行使を制限するためにつくられたという歴史的背景がある。だから課税権は国家ごとに分かれており、日本とアメリカと香港の税率が違うという事態は当たり前になっている。
このように、法というのが国家によって異なることをそもそも想定する存在である以上、それを適用する司法が国家によって違うのはその本質に照らせば何ら不自然な自体ではない。
例えば、アメリカ連邦最高裁と日本の最高裁とドイツの連邦通常最高裁がそれぞれ異なる帰結を下し、アメリカではサムスンが販売禁止・日本ではアップルが販売禁止という事態になっても、現代のようにクロスボーダーな世界においても、司法の世界においては驚くことに本質的には全く不合理ではないということになるのだ。
ただし、司法というのは1つの解決手法にとどまる。ライセンス契約の模索など、右手で殴りながら左手で握手を求める、そんな大人の駆け引きも今後始まるはずである。
なぜなら、前述のとおり、専ら司法に解決を委ねてしまうと、国ごとに販売商品を変更しないといけないという誠に非経済的事態が起きるからだ。
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