関東土木保安協会

関東土木保安協会

Kanto Civil Engineering Safety Inspection Association

~ 土木の迫力 機械の技術 礎となった名も無き戦士達の魂 ~
関東土木保安協会は、鉄とコンクリートの美学と保全活動を追求します。


関東土木保安協会です。
埼玉県は所沢市、西武池袋線の小手指駅の北東に、美化鉄塔が並んでいるので、行ってきました。
東電PGの並木線といいます。
この鉄塔、イチョウの絵が描かれているんです。

▲並木線No.1(1979/1,28m)

No.1から見ていきましょう。
多数を占める円形の鋼管ではなくボックス鋼を用いた鉄塔になります。
デッキの下側にカラフルなイチョウが描かれています。
ルーツは分かりませんが、並木線の由来となる並木町には航空公園があり、立派なイチョウ並木があるので、そこら辺をイメージされているのでしょうか。

▲正面から見たところ。スクエアな形状だ

前に黎明期の美化鉄塔として大宮線を取り上げました。
だ円形中心の大宮線に対して、こちらは菱形です。
これも柄みたいで素敵ですね。

▲途中のデッキの手摺がお洒落

側面からみると、特徴的な姿がよく分かります。
アルファベットのAのような外観で、中央部の水平材が良いアクセントになっています。
実はこの鉄塔のほか1基以外はモノポールなのですが、このNo.1は耐張型のためか、前後方向の応力にいかにも強そうな主柱を持っています。
この当時の美化鉄塔にあるような、近未来的な雰囲気もありますね。

▲サイドシルエットはA型でこれも珍しい

並木線は東大和線から分岐し、直線的に進んでいきます。
始めは道路の脇の遊歩道部分を進むんですね。

▲少し昭和感ある街中に溶け込む並木線

どことなく昭和50年代にできたような街並みの中、並木線らは道路脇の緑地帯を駆け抜けます。
木々の中に生えている鋼管も、あまり違和感がなく、周囲に溶け込んでいますね。

▲鉄塔達は道路沿いを進む

並木線No.2です。
この鉄塔と次のNo.3はほぼ同じ双子の造りで、お洒落なイチョウカラーは勿論、高さやV吊懸垂碍子も同じです。

▲並木線No.2(1979/1,38m)

美化鉄塔と言えばV吊感があります。
この顔はどこでもみられますが、この子もデッキのお洒落さだけは特徴的なポイントですね。

▲V吊の懸垂鉄塔も同じような意匠だ

少し進むとNo.4が見えてきました。
ここで角度を少し変え、耐張型で集合住宅の間を抜けていきます。
耐張型なのにモノポールなのは、前後方向のかかるテンションがほぼ同じくらいだからでしょうか。

▲並木線No.4(1979/1,31m)

こちらも背の高めのマンションの脇のNo.5です。
この鉄塔なんかは、鋼管柱でないと建てられないような、建てられても視界の邪魔になりそうな場所にあり、美化鉄塔の能力を余すこと無く放っている感がありますね。

▲並木線No.5(1979/1,36m)

No.6です。
こちらもV吊で似たような造りです。
実はNo.4からイチョウのペイントがありません。
コストの関係か、遊歩道部分の鉄塔以外は省略されてしまったようです。

▲並木線No.6(1979/1,36m)

No.6の鉄塔も足元は狭く、今でこそ敷地には狭小根開きのアングル鉄塔が建ちそうですが、美化鉄塔でコンパクトに収めており住宅地にマッチしています。
なおゴミステーションになっていました。
美化鉄塔の足元にゴミステーションというのも、ちらほら見る気がします。

▲No.6基礎部分

最終鉄塔のNo.7に来ました。
この鉄塔もNo.1と同じくボックス鋼の鉄塔でした。
引き下ろし設備の有無は違いますね。

▲並木線No.7(1979/1,28m)

このまま美化鉄塔の並びを見たいところですが、残念ながらここから地中化してしまいます。
ケーブルヘッドの部分で、並木線と別需要家の分岐を行い、地中に潜ります。

▲腕金が伸びてもスタイリッシュ

分岐箇所はジャンパのところで、支持物が鋼管ベースのスッキリしたものなので、ごちゃごちゃしておらず綺麗な見た目です。 

▲鋼管を用いたスマートなケーブルヘッド支持物だ

イラストが描いてある鉄塔はあまり数が多くないので、見つけたら貴重です。
周辺との調和や、無機質感の払拭など様々な目的があるのですが、個人的には見た者にもなにか特別感を与えてくれるように感じます。
次の塗装でもこのまま残ってくれることを願って、さよならとしましょう。





息してますよ。
関東土木保安協会です。

#710で話したJR間々田変電所の話の続きになります。
野木駅東側に南北に連なっていた旧国鉄送電線の栗橋-間々田線。
このルート跡を追っていると気になる遺構が見つかったので、行ってみました。


場所は下のGoogle Mapの上から3つ目のチェックマークのところです。
このチェックマークは、同送電線の鉄塔跡とおぼしきところをプロットしたものです。
マークを結ぶように区割りを無視したような斜めの道路がうっすらと浮かび上がります。
鉄塔線下の痕跡ですね。
ではこの臭いところとやらに行ってみます。


こちらがその場所です。
さつき公園という都市公園になります。
例に倣って送電線直下の公園です。


こちらが鉄塔の設置跡とおぼしき空間です。
国鉄送電線、いやJR送電線、、でしょうか?
なんか違和感ありますよね。


そう、フェンスがいつもの様式じゃないんです。
この時代のJRと言えば縦スリットのあれじゃないですか?
ここは銀色の菱形メッシュなんですよ。どちらかと言えば東電様式ですよね。
何か違う?と。
ちなみにまともに遺構が残っているのは周辺でここだけでした。


フェンスは今も南京錠で厳重にロックされています。
東電臭さから、この鍵の所有者はどなたですか?と疑問になります。


この何か違う光景を一番に表しているのが、この「あふない!!」のオウム君プレートです。
さっきからチラチラ写っていて気になられたと思います。
改めて、「ここJR送電線じゃなかったの?」というところです。
思いっきり東電様式なんです。
JR仕様なら新幹線に感電坊やですもんね。
(シャレ言ってる場合じゃないですが、あの男の子は名前あるんでしょうか、、)


退色してしまったので見えないですが、画像を加工してみると紛れもない東電様式プレートだとわかります。
「オウム君」のイラストと、「この中にはいったり物をなげたりしないでください。」の文字がはっきりと確認できます。


四隅を彩るのは勿論国鉄境界杭です。
ここがルート的にも旧国鉄送電線の遺構であるのは間違いないので、そこまでは理解できます。
間々田線No.3始め、他と同じですもんね。


謎なのがこのフェンスとオウム君プレートなのです。
手持ちの資料など分かるものを見た限り、この区間が国鉄(JR)→東電化された経緯が見えません。
JR間々田変電所は、東電JR間々田線から供給され、そのルートは過去の国鉄送電線だという話は#710で話した通りです。
そこの鉄塔のプレートは1996年で、JR送電線が平成初期に東電化された件とも合致がいくので、竣工(東電化切替)もその頃かと思います。
そしてこの時点のJR栗橋変電所は、まだ僅かに残っていた自社線を用いていたようなので、東電化されていません。

その南方にあるJR間々田変以南の区間で、何故東電化の痕跡が見つかるのか、という謎です。
栗橋~間々田の区間は廃止してしまっていいわけで、東電化する理由もないですし、であればJR間々田線竣工以前から東電化されていたのでは?ということでしょうか。


このさつき公園に隣接し、送電線路の線下になる野木町図書館が竣工したのは、1988年です。周囲の電柱にも1988年の記載がありました。
公園も1983年に決定されたもので、一帯は1988年頃に整備された区域と考えられ、鉄塔の建替もそのころ行われたはずです。
当時の航空写真を見ると、建て替えられた真新しい鉄塔が、上でプロットした図の部分に建っているのが確認できます。
となるとこの鉄塔用地で建て替えたのはJRなのではないかと思います。
ではなぜこの様式か。


もしかしたら、間々田変電所がJR受電化した1996年以前、はては1988年以前から、間々田変電所以南の区間が所謂乗っ取りの形で東電化されていて、今のJR間々田線が完成した際に切り替えて、南側区間は廃止したのかもしれません。
しかし、それでは東電化する区間もその方が長いため、わざわざそんなことをするでしょうか。
途中に需要家のような痕跡も見られません。


ここまで語って、実はフェンスも偶然意匠が違っただけで、プレートは単なる同型の流用で全てJRのものでした、なんてオチもあるのかなとも思いますが、、

謎で頭がいっぱいの訪問者に、コンクリートの4つの主柱の跡が、鉄塔が建っていた事実だけを淡々と語っているのでした。



 
関東土木保安協会です。

兵庫県神戸市兵庫区。
片側4車線の立派な県道21号線大開通沿いに、紅白の鉄塔を有するビルが建っています。
NTTコミュニケーションズの神戸大開ビルです。
震災から30年弱が経ち、当時も今も屈強に立ち続けるその姿を拝んできました。

▲建物外観

少し市街地から離れた場所にある巨大通信ビル。
電電公社の長距離通信系ビルのお約束です。
交差点の角に建ち、地上9階建とその上に鉄塔という立派な姿を見せつけるかのようです。

▲堂々とした姿で交差点に立地

通信機器を収容したビルらしく、片側の道路面には窓が数多く有りますが、その対面や側面には窓はほとんどありません。
ここには日光は要らない、そう語りかけるかのような姿。
屈強な電電公社通信ビルそのものです。

▲無機質な整然たる姿こそ電話局

このビルも1970年代前期頃に建設されたようです。
スマートな鉄塔意匠となる「パイプシリンダー型」の電波塔を有します。
紅白等分塗装でないデザインも当初はあったこの鉄塔。
大開ビルの今の姿は外野鉄塔と同じ7等分の紅白です。

▲パイプシリンダー型の電波塔

大きな鋼管が核となる鉄塔デザイン。
その周りには、小さなトラスが組まれています。
携帯電話のアンテナが設置されていました。

▲例に漏れず基地局のアンテナが設置されている

上を見上げれば穴を塞いだグレイチングが目立つ大きなプラットフォーム。
文末にあるリンクで、神戸市のサイトにより阪神・淡路大震災の記録写真が公開されています。
この中に、ぐしゃぐしゃに倒壊したビルが写る街の写真があるなかで、後ろにびっしりと並んだマイクロ波アンテナを従え、そのままの姿で屈強に立ち続ける神戸大開ビルの姿を収めた写真がありました。
昔はあんなにアンテナが載っていたんだという懐かしさと、周囲のビルからは明らかに一線を画す、その鉄人のような光景が目に焼き付きました。

▲プラットホームにはお馴染みの穴を塞いだ跡が

窓の一切無い外壁。
ここの中は、オフィスではなく電話交換設備や現代では光通信のサーバー等が収容されています。
阪神・淡路大震災の際に、神戸市内の電話交換機停止により、285,000回線が不通になり、5日間も輻輳で繋がりにくい状態であったといいます。
この建物自体が大きく損傷や倒壊などしていれば、もっと通信被害が拡大していたことでしょう。

▲窓がない無骨さは電気通信ビルたるや

電話交換機の停止は、神戸市内8局の電話局で発生しました。
商用電源の停電と、停電時に動くべき予備電源の喪失によるもので、非常用発電機の一部が地震により損傷などし、稼働できなくなってしまったものでした。
これに対し当時のNTTは、全国にある移動電源車を緊急配備し、発災の翌18日午前中には全ての電話局で電源車による給電に切替を行い、交換機は全て復旧したとのことです。
これでも相当迅速な対応に見えますが、実際は道路の寸断等で到着していたものの電話局に辿り着けない復旧班もいたとのことで、携帯電話も主流でない当時、迂回路を経由して市内に入るのは相当な苦労だったかと想像できます。

▲タイルと窓が均等に並ぶ姿も美しい

そんな甚大な被害があった被災当時の神戸市と神戸大開ビルの周辺ですが、被災から約30年経ち、今ではその悲惨な光景が想像できないくらいに復興が進みました。

▲人気が殆どないエントランス

基幹の電話局である神戸大開ビル、営業窓口らしきものは見当たりませんでしたが、掲示物を飾るショーケースだけは残っていました。
スポットライトもあり、昔は新サービスの普及ポスターでも張ってあったことでしょう。

▲昔は掲示で賑やかであったろう

社員向けと思わしき出入口。
半世紀前の昭和の建築物なのですが、鉄板で後付けのスロープが追加されていました。

▲入口段差はしっかりとスロープを増設している

敷地内の車路の上には、空調機の室外機置き場が設けられていました。
見たところ、恐らく後付けなのでしょう。
昭和の基幹局の厳つさを持ちつつ、様々な所で時代に沿ったトレンドにより手が加えられていっている、そんな姿でした。

▲室外機置き場を増設

建物には「近畿電気通信局管内の自動式電話交換創始ゆかりの地」と記念レリーフがありました。
昭和一桁台から電話交換の自動式を採用してこの1978年当時で50年経っていたようです。

▲レリーフ

大開通に立ち続けるNTTコミュニケーションズ神戸大開ビル。
その前身の電電公社時代に、兵庫県の基幹電話局として建設された後に、壮絶な震災を経験し、現在に至ります。
今もこうして変わらず立ち続ける姿に、通信インフラとしての矜持を覚えます。


建設から半世紀近く。
これからも、紅白のタワーは市内のランドマークとして立ち続けることでしょう。
インフラの鑑の生き証人よ、いつまでも。



〈参考〉












埼玉県は杉戸町。
大柄な鉄塔が続くなか、遠目で形が違う鉄塔が一基あったので行ってきました。


場所は前に載せた鷲宮線のすぐ北になります。
こちらの送電線は、東電PGの河北線3,4L/猪苗代新幹線になり、275kV河北線の3,4番線2回線の下段に154kV猪苗代新幹線2回線が併架しています。
写真右奥に上の河北線側が消えていって、猪苗代新幹線はまっすぐ続いている様子が見えるかと思いますが、元々が猪苗代新幹線の区間で、河北線側が建設されるに当たって相乗りした区間になるようです。

▲河北線/猪苗代新幹線併架区間

この区間にある河北3・4L線No.13が、ベンド点無しの単一テーパーの寸胴な鉄塔で目立っていました。
1973年の半世紀以上前の鉄塔ですが、超高圧送電線でこの周辺に写る宅地を貫いたルート設計ができなかったのでしょう。
この僅かな区間を既存送電線かつ線下支障がないことに目を付け併架としてルート設計されたのが伺えます。
この区間だけ河北線はくの字に進路を変えてるんです。

▲河北3・4L線No.13(1973/5,67m)

この謎の寸胴ボディの原因は敷地制約にあったようです。
この通り、住宅地を通過する送電線の線下が道路と中央分離帯に値する緑地帯になっていますが、この敷地内に何とか収まるように建てられた結果、根開きを抑えた寸胴鉄塔ができたようです。

▲鉄塔直下。中央分離帯内に建設

鉄塔建設当時は、猪苗代新幹線が既にあった筈ですが、住宅地の造成がされ、当時電線高も低かったであろう猪苗代新幹線の線下は道路と緑地帯となったようです。
その後に河北線を併架として建替が計画されたものの、鉄塔は既存敷地内に収めないと道路幅を侵してしまうため、この狭い敷地に収まるように設計されたのでしょう。

▲既存鉄塔を背景とした根開きの制約を感じる

このNo.13の北に謎の膨らみを持った緑地帯があります。
下写真がそれで、道路が不自然に湾曲しています。
左奥の鉄塔がNo.13です。
 
▲No.13の北側には少し道路側に膨らんだ緑地帯が

当時猪苗代新幹線は建替前なので、この区間も低い当時の鉄塔が建っていたとみられ、鉄塔間距離も短かったことでしょう。
そしてNo.13は併架で電圧階級も大きいことから格段に大柄な鉄塔になりました。
隣接する鉄塔が不要になったなら撤去されてしまいますので、この膨らんだ箇所は猪苗代新幹線の鉄塔跡なのでしょう。
鉄塔跡、見つけるとワクワクしますね。

▲無駄に湾曲した道路が鉄塔跡を匂わせる

それにしても、この近くの電柱を見たところ1972年頃の記載があり、少なくともその頃までは造成工事がされていたような痕跡が窺えました。
それより遥か前にされたかと言うと、1960年代前半の航空写真では確認できず、60年代後半の造成とみられます。
No.13鉄塔の建設は1973年ですから、この敷地の鉄塔も解体されたのであればそのタイミングでしょう。
恐らく、宅地造成と道路建設後から僅か数年で鉄塔が解体され新鉄塔が建設されたと考えられます。

僅か数年がずれれば、この鉄塔跡も根開き制限の寸胴鉄塔も誕生しなかったはずです。

そんな時の差が半世紀後に未だにこうして明確な構造物や痕跡として残っているのを考えると、とても面白いなと思います。

▲鉄塔跡地とみられる場所

鉄塔跡地と言えば碍子や境界杭があったり何かしら痕跡はあるものですが、今回はどうでしょうか。
なにやら石が埋まっています。

▲敷地には杭が残っていた

東電杭でした。
やはり謎の膨らんだ敷地は鉄塔跡だったようです。

▲東電杭だ!

またもや何でこっちの鉄塔は変な形なんだろう?という箇所で面白いもの見ることができました。
僅か数年で鉄塔のために湾曲した道路の意味もなくなったのがとても切ないですが、緑地帯があったからこそ河北線はここを通過できた訳で、さらになんとしてでも既存鉄塔用地に収めなければということになったのでしょう。
制約が制約を生みその制約がさらに制約となって…
土木設備は面白いですね。



前記事で野木駅の北にあるJR東日本の間々田変電所に触れましたが、この野木駅も1963年開業ということで、その後広がった駅前の風景ということもあり、周辺もレトロな情景が広がっていて楽しいところでした。

野木町は1963年に町制施行となり、駅開業と共に街並みも発展してきたようです。
駅前も東西ともに旧市街地と反対側というような区別は無く、同時期に整備されたような綺麗に区割りされた街並みが整然と並びます。
駅前東西にあるモニュメントは1988年に完成したようです。
郊外の駅前モニュメントはガイドラインに沿ったかのようにバブリーな香り高い物が多く、毎度見るたびに面白いです。


通勤客のベッドタウンとして発展してきた経緯からか、駅前に居酒屋の並びや繁華街などは無く、よくある旧市街地側の駅前のような様相です。
駐車場なのか駅の設備があった跡なのか、後から居酒屋が建ったようで、この1軒だけがやけに目立っていました。


駅は東西自由通路を兼ねたもので、エンジ色のレトロな配色の屋根を持ち、昭和な古い構えが素敵です。
後ろにある白色角張った建屋は同じく自由連絡通路のエスカレーターとエレベーターです。
下にはトイレも設置されており、東西で同じ様式です。
バリアフリー対応で後から増設されたようです。


自由通路の風除板的に設置されたこのパネルもまたレトロでいいですね。
レンガ調のタイルが貼られ、上にはようこそ野木町へと書かれています。
昔の役場の匂いがします。


こちらは隣を送電線が通っているのでは?と話した駅北東にある丸山公園です。
1970年にできた公園とのことで、表札のブロックといい70年代テイストに溢れています。
新しい遊具などないものの、いるだけで昭和を感じられる、短パンやおかっぱの子らが似合いそうな情景の、そんな公園です。


遊具関係はどれも古いものばかりで懐かしいです。
その昔では木材、今ではプラスチックなどを多用する遊具も多い中、金属素材ばかりの遊具は、半世紀前の時代へとタイムスリップさせてくれます。


金属製の遊具は、塗装されているため、色褪せて退色が目立つのもポイントです。
今の遊具はプラスチックで素材自体に色を持たされているため、この辺も違うなと思います。
こういう古い遊具は地域の手で再塗装されているのをちらほら見たりします。


公園外周のフェンスもレトロで、今ではないようなコンクリートブロックに鋼管を合わせたものです。
この青色も時代を感じさせる青でなかなかいいです。


そういえば近くにある野木町役場も町制施行10周年で完成した1973年の竣工です。
同じくエンジ色のアクセントが入るコテコテの役所建築で実にかっこいい姿です。


街並みは一回り二回りしてしまうと家も建て変わり別の風景になってしまいますが、野木町は家こそ建て変わっているものの、駅前にはまだまだ昭和なベッドタウンな世界が広がっている、楽しいところでした。



<参考>
・野木町ホームページ : 町のあゆみ 





関東土木保安協会です。
栃木県野木町。
栃木県最南端、ひまわりと煉瓦窯で有名なこの街も、旧国鉄の送電線の香りを感じられる地の一つです。

野木駅の北にJR東日本間々田変電所があります。
この供給元の送電線が東電PGJR間々田線になります。
この送電線は、国鉄送電線の区間を継承して東電化した送電線のようです。

▲JR間々田線No.3(1996/8) 高さ解読不能

宇都宮線電化の際に自前の送電線を敷設した国鉄。
埼玉県区間を終え利根川を越えた送電線は、古河に渡り栗橋変電所に繋がり、次にその北には間々田変電所が設けられました。
建設が1958年頃ですが、当時は宅地化もそれほど進展していなかったと思われ、送電線は線路脇を堂々と並走するように建設されました。
今では宇都宮変電所以南の区間が全て東電受電化されましたが、うち小山以南の区間は1990年代の早いうちに東電受電に切替がされてしまっていたようです。
栗橋以北の区間について、撤去された送電線区間も多いなか、間々田変電所から北の僅かな区間は東電化に際して国鉄線の鉄塔とルートを流用して移行したようです。

▲綺麗な茶色の碍子のNo.3鉄塔

JR間々田線は変電所以北の僅か4基で終わる短い鉄塔です。
ルートを調べてみると、分岐元の総和線の3基と合わせて7基ほどが国鉄送電線の鉄塔とルートを流用しているようです。
全ての鉄塔は建て替えられて当時の面影はないですが、1つ変わった鉄塔があり、このNo.3だけはフェンスの意匠が違うなと思って目に留まりました。

▲ひまわりの描かれたフェンスは東電らしくない

東電というと緑のネットフェンスで鉄塔周囲を囲う施工が多い印象ですが、ここは国鉄のシルバーの格子フェンスを思わせる丸パイプ素材のフェンスで色も白色と、他とは毛色の違いを感じられます。
鉄塔用地の隅を見ると、これまたあまり見ない反射材と共に国鉄境界杭が確認できました。
これは紛れもなく鉄塔敷地が国鉄のものであったことを示すものです。

▲境界杭

この周囲のフェンスも、恐らくですが国鉄時代からの継承ではないでしょうか。
基礎周辺の施工を見ても、なんとなくそうではないかなぁ?と感じるところです。
いずれにせよ、境界杭は紛れもない国鉄のもので、国鉄送電線の東電化の変遷を辿ることができる面白い鉄塔です。

鉄塔脇には野木町の体育センターがあり、名物の太陽が大きく描かれ、宇都宮線車窓からも目立ちます。
鉄塔のフェンスにもひまわりが描かれていますが、これも社風的に(失礼!)東電ではなく国鉄(JR)が描いたのかなぁ?などとも想像してしまいます。

▲体育センター壁面にもひまわりが

駅に戻りつつ、JR東日本間々田変電所にも立ち寄ってみます。
昔は今より家々も無かったでしょうが、現在ではベッドタウンとなった野木駅周辺の宅地化に伴い、ぎっしりと周囲を人家に囲まれています。

▲JR東日本間々田変電所外観

間々田変電所もJR間々田線のプレートからすると、1996年頃に東電受電化されたようです。
小山以北の切替より四半世紀も前に切り替わっていたんですね。

▲変電所入口

変電所東側に受電用の鉄構があります。
東電化に際して建て替えもしたのでしょうか、外観は古くないものでした。
鉄構のすぐ脇の構外が有休地的になってるのが気になります。
昔はこっち側(写真手前側)に栗橋-間々田線が出ていたはずなので、それもあって当時から建築制限などで建屋ができてこなかったのでしょうか。

▲変電所受電端。隣は空地だ

ところで、その栗橋-間々田線があったという目線で野木駅まで戻ってみると、不自然に配電線が地中化されてしまっている箇所がいくつか目立ち、見たことはないものの往年の送電線があった時代の情景が浮かんできます。
例えばこの下写真にある丸山公園の脇などは、2回線ある配電線がここで地中化されています。
写真の手前側でこの先50mで踏み切りです。
踏切で地中化するのはわかりますが、それにしては早すぎないかな?と思うんです。
この公園の際辺りを送電線が左から右に南北に走っていたのかな?と考えるのです。

▲駅近くの丸山公園

昔の送電線直下は線下高が低いため、建築物が建てられず公園になっているような場所が結構あります。
ここもそれだったのかなと思います。
野木駅の南側でも、同じように配電線が低くなっている箇所や鉄塔や送電線ルートの跡など痕跡が目立つ箇所もあり、そことルートとしては繋がって見えます。

▲公園中央左奥から右にかけて送電線があったのだろうか

鉄道や道路は、廃線廃道跡が明確に残りますが、架空送電線では空中の設置物なので撤去してしまうとどこに何があったかわからないことも多いですが、こうしてあちこちにその痕跡となるポイントが残っているのは、とても追跡者としてはとても楽しいですね。






関東土木保安協会です。
西友の小手指店跡に行った後に、NTT東日本の所沢並木ビルに立ち寄ってきました。
久々の電話局の記事になりますね。


埼玉県は所沢市。
航空発祥の地であるここには、航空公園があります。
航空公園は所沢飛行場の跡地に整備された公園です。
公園一帯の跡地は官庁街になっており、警察署や郵便局が並んでいます。
そんな一角に大きな鉄塔を載せているビルがあります。
NTT東日本所沢並木ビルになります。


所沢並木ビルも、航空写真を追うと70年代にできたビルのようです。
チャコール系の色合いで、スクエアな形状が当時の電電公社らしさを表すようです。
無機質が壁面が並ぶ物々しい電話局ではなく、公園などがある周囲に溶け込むような外観で素敵です。
遠目で古さを感じさせません。


鉄塔は昼間障害標識の紅白仕様。よく目立ちます。
プラットフォームは円形4段で、主材は鋼管です。
電電公社名称でパイプトラス型鉄塔というやつですね。


昔はアンテナが山のように積まれていたであろう鉄塔。
今は携帯電話の基地局だけが設置されているのは他所の事情と同じです。
ただ、開けた場所に厳格な雰囲気の建物と巨大な鉄塔とが構える姿は、往年の電電公社の威厳を知らしめるようで、それだけでただただ、美しいです。


さて、所沢並木ビルは元々営業窓口でもあったのでしょう。
同じ意匠の低層棟が隣接してありました。
ここが、所沢市役所をテナントとして貸出されています。


所沢並木ビルの看板です。
可愛らしいところんのイラストが描かれています。
この看板、元々はNTTのダイナミックループが書いてあったことでしょう。
そしてその昔は電電公舎のTTマークがあったのでしょうか。
よく他のビルでもこの形の看板を見かけます。
ダイナミックループに代わって描かれたゆるキャラ。
時の流れを感じます。


凛々しく立ち並ぶ官庁街の一角の、電電公社の遺産。
経年を感じさせるも、威厳がありつつ、古くさくなく格好良いその姿。
だいぶ軽くなった鉄塔と、優しいキャラクターの看板なども相まって、まるで若々しい団塊の世代のセカンドライフのようです。
その中には、大事な通信機械が収められていることでしょう。
姿を少しずつ変え今も残る、電電公舎の設備達。
きっと団塊ジュニアには譲らず、まだまだ頑張ってくれる事でしょう。








西友小手指店。
2023年の秋に惜しまれつつも再開発のため閉店したお店です。
ここの駐車場にはドライブインシアターのスクリーンが残っていることで有名です。
近くに行ったので見に行ってみました。


西友小手指店は1981 年に完成しました。
長方形の無駄がない外観は機能美を感じます。
地上5階建で結構な迫力です。


私が訪れた2024年2月下旬では、建物は囲まれ、中には入れない状態でした。


既に写っていますが、遠目でわかる巨大な白看板、これがドライブインシアターのスクリーン跡になります。


下写真で左に曲がっているフェンスが見えますが、あれが立体駐車場の跡になります。
ここがその昔は平面の駐車場で、ここに車を停め鑑賞できたようです。
垂直でなく、若干手前に傾いて設置されているのがポイントです。


ドライブインシアターも国内でそこそこ流行りましたが、現在では残存する国内施設は皆無のようです。
コロナ禍にその特性が注目され、イオンなどで復活したものもあったようですが、常設されているものではないようですね。
現在では国内でこのような大型のスクリーンが残っているのが希少で、唯一に近い存在になっていると思います。


さて、スクリーンを横目に敷地内の入れる場所まで入ってみると、使われていない信号機がありました。
舗装もしっかりされていて立派な道路です。


このとおり、庇付きの立派な信号機です。
見ての通り商業施設内の道路のためにわざわざ信号機があったようです。
当時の数多くの来店客を思わせるような、刺さるアイテムですね。
制御箱もあり普通の公道をイメージしてしまいます。


信号機の銘板を拡大します。
一般的な信号機と同じようです。
これは2005年の設置ですが、確かこの灯器も20年前以上前から出てるんですよね。
灯火間に分割できるような線が入っていて、セパレート灯器ではないんですが見た目が新しく感じられた記憶があります。
今はLED灯器がか当たり前になってしまいました。


信号などがある上部は、電源開発の只見幹線が通過しています。
勿論線路下は建物はありません。
緑地と公園になっています。
ドライブインシアターのある駐車場もこの送電線寄りにあり、小手指店の建設計画に影響を与えているのかな?と想像します。
只見幹線が無ければ、建物含め別の計画になっていたのかもしれませんね。
今でこそ建替られてしまい大きな鉄塔になっていますが、昔は鉄塔も比較的小さめで、結構間近に送電線が迫っていたのではないか?と思います。


そんな送電線が通過している反対側にはマンションがあります。
ヴィルセゾン小手指といいます。
名前で気付かれる方もいるでしょう。
セゾンの名を持つこのマンションは、西友と同じセゾングループのマンションかと思われます。
マンションからは、信号機のある駐車場の道路のアンダーパスをする道路が延びており、西友と一体的な開発をされた様子が伺えます。


アンダーパスは既にフェンスで仕切られ、奥には解体重機達が並んで作業している風景が見えました。
マンションと巨大スーパー。
西友小手指店跡地には新たにマンションが建設される予定です。
西友も戻ってくるとの話がありますが、当時のような巨大スーパーではないことは明らかでしょう。
セゾングループが築いた巨大商業施設と隣接したマンションという楽園は、時代の変化と共に思い出の1ページに納まっていくようです。


そろそろ外へ出ましょう。
看板があるのですが、普通は隠すところを一切目隠しなしで掲示を続けています。
間違って入ってきてしまう方がいるかもしれません。
それくらい、囲いの外側はまだまだ西友が生きているようでした。


貴重なドライブインシアターの痕跡がまた1つ消えました。
そして振り返れば、セゾン大帝国の痕跡も一つ一つ消えていってるのだと思います。
80年代~90年代の痕跡は、いつ見ても楽しいですね。
最後の姿に逢えてよかったです。


〈参考〉
・株式会社エンドウ・アソシエイツ : WORKS 西友小手指店 



・明正ブログ : 西友小手指店 閉店 


・イオンシネマ : ドライブインシアター 




関東土木保安協会です。
昨夏に来て以来の半年振りの東洋製缶久喜線の建替工事現場に来てみました。
遠目で進捗を見ていましたが、新しい鉄塔に電線の支持が移りつつあるようです。


前回分↓

左が仮移設の鉄塔で東洋製缶久喜線仮No.5、右が元位置建替の新設鉄塔です。
前来たときは新鉄塔が建ったばかりでしたが、今回は電線の支持も一部移設されていました。
上段が東洋製缶久喜線、下段は東久喜線です。
両線ともに2番線のみ移設されていました。


鉄塔間にはメッセンジャーワイヤーでしょうか、張られているのがわかります。
朝来たところですが、掲示にはこの日地線移設が行われると書いてありました。


新鉄塔の足元です。
番線札が2番線側しかありません。
ちゃんと移設状況により付けていくのですね。
そうですよね、工事期間中は移設時以外は通電させてるわけですものね。
常に設置物と掲示物のミスマッチが無いように計られているのはさすが工事中も止められない現用設備だなぁと思います(目がキラキラしております)。


新鉄塔には蓮田線No.57のプレートがありました。
今までは蓮田線は少し手前の姫宮線との接続箇所で名前を東洋製缶久喜線に変更していたのですが、そこから続番で蓮田線となったということですね。


今回の工事は東洋製缶久喜線を北東京変電所に接続する系統変更に伴うもののようです。
工事後は北東京変電所までは全て蓮田線、今回建設しているこの蓮田線No.57から分岐する以降の送電線が東洋製缶久喜線となるのでしょう。


ところで、現東久喜線となっている下段の送電線も同じ系統変更がかけられていますが、この東久喜線は供給先の変電所名が由来です。
蓮田線が東洋製缶久喜線と名前を変える前からこの線路名を名乗っているので、この区間が蓮田線を名乗る場合は東久喜線は何を名乗るのだろう?となりますが、東電PGの発表資料を見ると、
この前の大針線という名前が続くようです。これも供給先の変電所名になるため、この区間だけ新設線路名が生まれるのかな?とも思いましたが、そうではなさそうです。


まだまだ移設に伴う機材が置かれています。
資料によると、蓮田線No.57~No.60までは2023/9までに使用開始、北東京変電所構内の線路は2024/2までに使用開始となっています。


このNo.57の先にある鉄塔も前来たときは工事中でしたが、今回はほぼ完成した姿になっていました。
近くに行ってみます。


こちらは当然続番となるのでNo.58となっていました。
蓮田線/大針線No.58となりますでしょうか。


綺麗なできたてのフーチング基礎です。
これで終わりでも良さそうですが、砂利の部分は全部コンクリートを流すようです。
すぐにNo.57と同じような綺麗な基礎が出来上がると思います。


鉄塔一基。
敷地も部材も、建てるのにこれだけの工事を伴います。
これを何基も建てるのは凄いことだよなぁといつも思います。


もうすぐできそうな東洋製缶仮No.5の建替工事。
「No.仮5」の名前の希少さを味わえるのも、あと少しかもしれません。





埼玉県所沢市。
日本の航空発祥の地として知られるこの地は、航空公園や米軍施設など面白い施設がいくつもありとても楽しい街です。
そんなこの地で、県道6号線を川越方面へ走ったところに面白い変電所があります。
下富変電所というようです。

▲下富変電所外観

見てびっくりですね。すごいです。緑色の変電所です。
鉄塔も緑色です。
緑も、深い緑でなく黄緑系で、明るい爽やかな緑色です。
引き込みの鉄塔が美化鉄塔であることはよく見ますが、変電施設を見ると、無機質そのものであったりします。
ここは鉄塔も建屋も緑色で揃えてあって、とってもお洒落ですね。

▲モノポールと鮮やかな配色が目を惹く

66kV2回線の膝折線から分岐した下富線が引き込まれます。
GW無しのモノポールが2本、最もシンプルな引き込み鉄塔の一つでしょう。
勿論鉄塔番号は甲乙表記です。
17mの小柄な体ながら、腕金と鉄塔下半分の配色を変えることでしっかりと美化柱らしさをアピールしています。

▲下富線甲の1/乙の1(1998/4,17m)

変電所の建屋は飾り窓などから東電によくある外側4辺だけの囲いのようです。
しかし、塗装でこれだけイメージが変わるものなんですね。
庇は鉄塔と同色、壁面はさらに2分割でトリコロールカラーです。
誰がやろうと言ったのでしょう。
単純なように見えて、個性的で素敵です。

▲変電設備は東電仕様のいつものプレハブに覆われている

さらに外構のフェンスもとても凝ってるんですよ。
山々をイメージしたような緑の模様が描かれています。
思えば、この周辺は有名な狭山茶の産地で、この変電所も茶畑に囲まれています。
場所は所沢なんですが、狭山茶をイメージして緑色やフェンスの塗装を選定されているのかもしれないですね。
ちなみにフェンスは道路側が中心で、この辺りコストには堅実な一面も垣間見え、見ていてにやついてしまいます笑。

▲茶畑を思わせる塗装

反対側へ来ました。
ケーブルヘッドがありますが、片回線につき2組出ています。
どうやら下富線のほか、たむぅさんのサイト鉄塔中毒によると、この北にある工場の需要家にも分岐しているようです。

▲ケーブルヘッドは12本出しで2系統に分岐

お茶畑と環境調和型の変電所。
いつも見ている設備でここまでスマートに、またここまでお洒落にできるものなんだと思い知らせてくれます。
ご当地ナンバーが流行っていますが、変電所の壁面も地域にとっては有益な広告塔になりうるのではないでしょうか。
各所で壁面に何かデコレーションするのが流行ったりすると、面白いかもしれませんね。


お茶畑と共に、今日も癒しのアースカラーを地域に振り撒く、そんな下富変電所でした。


〈参考〉