いつどこで、どんなふうに
この内容を書こうかなぁと
思っていたのだけど。
書く気になったのでこの記事で書こうかな、と。




奇しくも、6年前の今日に
塾Tとはサヨナラだったしね🥰
(記事書いてるうちに日付跨ぎそうだけどw)



今日の夜明け。





今年の蠍座も色々あった流れ星



  
実は、わたしはその間に
ももちゃんとサヨナラしました。

ももちゃんとは?←こちらをどうぞ★



彼女と話してサヨナラすることにした、とかそういう感じではなく。相手がどう思っているかなどは一切わからず、ていうか、そこはもう関係なく。

ただ純粋に、わたしの決断✴︎選択として



わたしは、
ももちゃんとサヨナラすることにした。





↑のミートソースの記事で
Facebookとメッセンジャーをサヨナラしたと言う話を書いたのだけど


そこで繋がっていた中には
このブログにもよく書いていた
ももちゃんがいた。

そのメッセンジャーを辞めたことが
実質的には彼女とのサヨナラとなった。






思いがけないサヨナラ、と
書きたいところだけれど



思いがけなかったわけではない。


「彼女と離れる」という感覚は
夏から、色んな風に感じていたことだった。
ーマだったと言う言い方の方が近いかも。




でも
「サヨナラ、離れる」ぽくなるその度に
やっぱり
そんなことないんじゃない?
いや離れないんじゃない?
と、3回ほど、交流関係は続くように戻っていた。





最初は7月。
彼女への違和感を強く感じた。
でも、違和感は違う違う…
となって自分の中にあったものが浮き出た。
サヨナラせず、結果、寧ろ仲良くなったような感じだった。





でも、やっぱり何か見過ごせないものはあって。


↑の後、壱岐島から帰ってきて

わたしは
ももちゃんと距離を取ることにした。
サヨナラとかではなく。

そうすると、色々感じたことが擦り合わず
でもちゃんと話すとお互い理解が深まる、ということが何度か起こり。



これでいいのかな、、、、
いやでも…。


再び9月初め、やっぱり離れる気がする…
となったんだけど
会ってみるとやっぱり違和感は何もなく。
同じ内容でも
視点が違ったということが明らかになり
また互いの理解が進んだ。




でも‼︎やっぱり

季節の巡りの如く、離れる感覚は確かにある
となって、とにかく離れるぞ、決めたら…
…決めた!と思ったら
彼女の軽井沢旅立ちとリンクしていた。




この時は
なるほど、彼女が長野から離れることを受け取っていただけだったのかなキョロキョロ
結局は、離れないのかな…と思った。
何かは感じるのだけれど。


その後普通にオンラインで話したりとか
メッセージを交わしたりとかもしていて。





いつものように、楽しく未来の話もしていた。

我が家をまた見せるとか、旅行とか
もはやネタになっていたお金払うとか。







でも。

全部を。彼女との関わりひっくるめて
今も含めて
生きていて一緒に居る…これからも実質的に関わる未来が、欲しいかな?と思うと

わたしはそうではなかった。







何度も思った。

話していて一緒に居て違和感はないのに。
こんなに心は通うのに、何故だろう。

と。




でも、そんな風に考えること自体がとても違和感だった。一緒にいる理由を、頑張って見つけようとしているみたい。まるで一緒に居る方が正しいよ、みたいな。



〇〇なら一緒にいる/いない
     いられる/いられない
そうやって何か、判断をしたいのか?


そもそも「一緒にいる」とは❓








彼女との関わりは
始まりは結構無意識だったけれど
その間は、きっと望んで関わった季節だった。



凄く、関わりやすかった。
凄く、一緒に居やすかった。



親しくなることに
違和感も難関もなかったと言うか。



塾と言う形で組み込まれたように会っていた塾Tもそうだったのだけど、まるでお膳立てされたようにじっくり関わる期間というのが、あったと感じる。




出会いから仲良くなるまでは1年以上あったし
間に時間が空くことも、あったけれど。
(サークルで出会ってすぐに、わたしはサークル辞めて、その一年後バイトで再会。そして一年一緒に居て、わたしが大学を去ったのを機に1年半スパンが空いて、彼女がわたしのいる長野へ。そしてまた一年ちょい一緒に居た。) 


特にわたしが大変だった大学の頃
わたしが大学サヨナラするまでの
2017年秋〜2018年秋の1年間。

特に彼女(ももちゃん)が大変だった
彼女が長野にぶっ飛んできてからの
2020夏〜2021年夏の1年間と少し。



どちらも、お互いの家を行き来して
色んな話をしていた。








本当に関わりやすかった。
波長が合うと言うか、一緒に居て違和感がないというか、話も合うし面白いし楽しいし。




だからこそ



「サヨナラ、離れる」ぽくなるその度に
やっぱり
そんなことないんじゃない?
いや離れないんじゃない?
と、3回ほど、交流関係は続くように戻っていた。




▶︎ 「もしかして一緒にいるのかな?」
思った。



離れるという直感はあったけれども。
でも現実の展開を見て、自分の感じたことに対して「〇〇なのかな…」と、途中で揺らいだ。


そんな選択も
アリそうだったから。世界として。
在るとしたら在る、と。



そう、アリなんだよ。
あり得るの。

選ぶこと、出来るのだから。














…でも。





わたしには、

直感やこの世の理よりも
何よりも大切にしているものがある。


それは、自分の望み。




「〇〇な気がする」


と感じた時に


じゃあわたしはどうしたい?


が、一番光ったりする。




どうなるかなんてわからない。
でも、そんなこと関係なく。

どうなるかわかってる気がする。
でも、そんなこと関係なく。





離れると、自分はまず直感した。
でもそんなこと、関係なく。
やっぱり一緒なのかもしれないと思った。
でもそんなこととも、関係なく。



究極、わからないかも。
でも、究極わかるのかも。

何か変えられないものが 
あったとしても。

もしかして
すべてが変わるのだとしても。




何を感じても何がどうであれ
選択するのは自分。



どうしたい?何を望む?
それだけが、わたしの真実。


それを選ぶのがわたしの喜び。




「こう感じた」「こうなった」

以上に、

「望みゆくわたし」で在りたい。






一緒に居る / 離れる


望めばどちらか叶うのかもだし
叶わないかもしれない。
究極わからない。


わかるのは自分のことだけ。


だからこそ
わたしの望みをまず選んで生きる。

選ぶ瞬間だと気付いた時にこそ。






「離れると感じた」から離れるんじゃ無い。
✴︎離れたいの?


「一緒に居ると感じた」から一緒に居るんじゃ無い。
✴︎一緒に居たいの?


気付けば一緒だから、でも無く。
✴︎気付けば一緒に居る、がいいの?


気付いたら離れた、でも無く。
✴︎気付いたら離れた、がいいの?




そうやって
すべてを真空のようにした時。



わたしは、ももちゃんとの
これ以上の身近な関わりを望んでいない。
わたしは、彼女と離れる。サヨナラする。


を選んだ。




Facebookとメッセンジャーサヨナラは
あの時の突然の思いつきで、結果的にももちゃんとサヨナラ、みたいに、流れではなったけれど


でも、わたしは能動的に離れた。


だって、Facebookとメッセンジャーをサヨナラするときに、彼女のことが頭を過ぎらないなんて事はない。その時、もう連絡はせずに、連絡も受けずに「ここで彼女とサヨナラをする」ことを、自ら選んだのだから。





塾Tとのサヨナラの時は
自分の中にサヨナラするという選択を
その瞬間まで思いつかなかった。

「一生一緒」と強固に思っていただけに、思いついた自分に衝撃だった。
でも本当に問いかけた時、答えは決まってた。
これから先は一緒に居たい相手ではない、と。



 

ももちゃんとはずっと
「いつでも離れられる」くらいフラットだったからこそ心地よく何気なく親しさは深まり近くなり。


でも、だからこそ、わたしにとって、これ以上は「(物理的に身近に)一緒に居たい」相手ではなかった。

そんなことないくらいに一緒だったけれど、でも、答えばハッキリしていた。





塾Tの時にも土星については書いたけれど。


ももちゃんとのことも
土星が絡んだなぁ流れ星と思う。

ももちゃんとは太陽が近いので
二人とも、お空の土星がこの数ヶ月現在含めて自分の太陽(成長、人生の方向性、公の意識、仕事)の上をウロウロしている。
(わたしは来月末まで土星重なってる)

  

人生において
何を決断して締結しますか?

と問いかけている。

大きな成長への学び。望む自分が確かになって、そして自分の選択を締結して、それ以外を削ぎ落とす(地球の物理的に)。(土星)





わたしは彼女と関わったことで
その最中を通して「誰とだって親しくなれる」ような奇跡を感じていた。


誰と一緒にいてもかけがえのない時間。
奇跡の瞬間を分かち合ってる。
繋がってる。


ももちゃんとの
「ちょっとした」から「深く見事にシンクロ」まであった、お喋りや出来事。
深夜のご飯とか、本当に楽しかったんだ。
彼女の手料理も最高で❤️



誰とでも、過ごす時間は奇跡だけれど✴︎



でも実際に過ごす瞬間は
相手とのオンリーワンのたった一つの瞬間。
一つ一つ異なる。




いつもそれが大切だった。
その瞬間の楽しかったことを、全部味わって
いつも「こんな時間を過ごすなんて、不思議だな幸せだな」と感じる時間を彼女と過ごしていた。



この先、地球で近くに一緒に居なくても
これまで一緒だった時間は
時空を超えて無限に楽しかったんだ✨



最高に楽しかったから、だから。
サヨナラでいいんだ。わたしは。
本当に楽しかったから❤️


夏に最後に彼女が部屋に泊まって、帰る直前、お昼寝から起きた時に、何故かわたしは泣いていたんだけど、あれはきっと、この三次元での彼女との時間が楽しすぎて、名残惜しかったから。本当に幸せだったから。あの時が、一番のサヨナラの瞬間だったように、わたしは感じてる✨


ここまで過ごした時間がきっと
わたしにとっては望んで予約した時間キラキラ
確実に、一緒に過ごしたい♡と
わたしは望んで選んでいた。



そして、ここからは違う。

わたしには
望みがあってその旅路を歩んでいた。

旅路の途中で聖女と出会って
最高に幸せなティータイムをしたような。
旅路を一人苦しく感じた時に
大丈夫、お茶でも飲みなよ♡と。
そんな風に、楽しくしゃべったりしてティータイム中に色々乗り越えて♡わたしは元気が出た☀️楽しくて、楽しくて。

そしてまた、わたしは
二人のティータイムを終えて
改めて、もっともっと望む旅路を歩むの♡




というわけで、だから、思うのはこれだけ。
いつどんな時も。

聖女♡
ももちゃんの旅路に幸あれ♡✨
ありがとうと、さようなら。





そんな大好きなサヨナラ(出会い)を超えて
わたしは。


最初から最後まで
「関わりたい(ガチ)」と望む相手と
共に居たいな(物理的近距離)と思った。
改めて。


改めて、過ぎるな🤣
凄くね、鮮明になった爆チーン



足りないとか
思っちゃうくらいで丁度いい(笑笑)
それくらい最高に満たされてる❤️

足りないから頑張るの。
幸せな能動的努力と行動が、自然と湧いてくるような(笑笑)

だってせっかく、三次元だから(笑)






こんな学びがあったとか、離れがたいとか、名残惜しいとか…そしてサヨナラ…と、美しく幸せで崇高な世界を飛び越えて(爆)


「やっぱり離れたくない!一緒がいい!泣」
「わたしよ、まじですか…爆チーン
と、理不尽で我儘で人間味溢れるくらい理性で制御出来ないくらい、どうしようもない本能がいいの(笑笑)


だって
せっかく生きてるんだもんっ\(^o^)/
そしてすべてはブログのネタになる…♡






どうなるかなんてわからない。


でも、そう思う↑わたしを生きて
その上で  "わたしは出会う世界に生きる" …と。
《望みゆくわたしで在る》ことを
選んだってこと流れ星

その上で、楽しむ♡