人が去り

風化し

朽ち行く中で

 

物は物でしか無い筈が

静かに鼓動を始め

果てには、気配を纏う

 

廃墟へと

足を運びたくなるのは

朽ち果てた物が

“者”と化した、気がして

 

得体の知れない者の

体内を徘徊している 

そんな緊迫感を

味わいたいからだろうか?

 

それとも

シンパシーだろうか?

 

自分の心象と

重ねているのだろうか?

 

諸々の出来事と感傷が

錆びつき、退廃し

 

過去に打ちひしがれ

漂流する様に

死に損なっている

 

 

吉野弘という

同郷の詩人がいる

彼の随筆より

 

「鉄はいつでも錆びたがっている」 

自然界に存在する鉄は

酸化鉄であり

酸素と結合し、錆びている。

 

その酸素を引き離し

鉄の成分だけを純化して

取り出すのが製鉄なのであるが

 

鉄は、一旦引き離された酸素と

のちのちまで、ちょっとした隙を見つけては

結合しようとする。

 

つまり、何とかして錆びようとするわけだ。

 

その錆びを防ぐ為に

我々は塗料を

鉄の表面に塗って

酸素との結合を妨害したり

鉄の表面を絶えず磨くわけである

 

言い換えると

酸素と一緒にいるのが

鉄の自然な姿であり

その自然か姿見を

引き裂くのが

鉄の文明というものであるが

 

鉄にとって、文明の仕打ちは

ひどく納得しがたい事なのかも知れない

 

 -「くらしと言葉」著者 吉野弘 より- 

 

廃墟の朽ちた鉄を見ていると

生きている気配がするのは

長いお役目を終えて

会いたかった酸素と再会し

本来の姿を取り戻したからだろうか