書名:好古家(こうこか)
原題:The Antiquary
作者:ウォルター・スコット(イギリス作家)
出版:朝日出版社
内容:18世紀末、スコットランド。17―年7月15日、エディンバラでクウィーンズフェリー行きの急行乗合馬車を待つ二人の旅人がいた。フォース湾を渡る潮時(しおどき)に合わせて12時きっかりに出発する馬車は、教会の鐘が鳴り響いても現われなかった。これでは上げ潮に乗るはずの渡し船に間に合わないと腹を立てた年配の紳士が切符を売った女店主と口論していると、ようやく馬車がやってきて若い紳士と一緒に乗り込んだ。年長の紳士が手に入れた古書を読んでいると、道連れとなった若い紳士が本について尋ねた。好古趣味の老紳士は自分の語る古代の遺跡などの話を青年が理解して受け答えできることに喜んだ。馬車がクウィーンズフェリーに到着した時には上げ潮の時刻を過ぎていたために、二人の旅人は宿屋に泊まることになった。宿屋の人々は好古家の老紳士を良く知っており、若い旅人に彼の名前や身分や経歴を教えてくれた。老紳士ジョナサン・オールドゥンバック(オールドバック)は、スコットランド北東岸の港町フェアポート近郊にある小さな領地マンクバーンズの領主で、独身の妹グリゼルダと妹の遺児である姪と暮らしている。オールドバックと夕食を共にした若い旅人はラヴェルと名乗った。翌日、二人は旅を続け、フェアポートに到着した。オールドバックは下宿先をラヴェルに紹介し、翌日の訪問を約束して別れた。フェアポートの新しい部屋に落ち着いたラヴェルは、エディンバラから荷物が届くと衣服をととのえ、マンクバーンズの領地を表敬訪問した。オールドバックはカツラの手入れを任せている床屋のカクスンに、フェアポートでのラヴェルの暮らしぶりについて尋ねると、彼は誰とも付き合おうとしないという話だった。そこでオールドバックは自分の友人に紹介するためにラヴェルを食事に招待することにした。オールドバックの友人であるノックウィノック城のアーサー・ウォーダー准男爵は招待に応じ、娘のイザベラを連れてやってきた。アーサー卿とオールドバックは古物研究の仲間で、しばしば論戦を交わしては喧嘩別れしていたが、この日も意見が合わず帰っていった。イライザ嬢は気分転換の散歩を父親に勧め、二人が並木道を歩いていると、前方にいるラヴェルの姿が目に入った。彼と合流するのを避けたいと考えた親娘は、街道をはずれて砂浜に降りていった。だが、だんだんと天候が荒れて嵐となり、潮が満ちて砂浜の道が水没して行った。二人の危険を察した乞食の老人エディー・オヒルトリーがやってきて、何とか親娘を避難させようとしたが、すでに手遅れで何処にも進めなくなってしまった。そのとき、崖をつたっておりてきたラヴェルが親娘を助けにきて……。平穏な好古趣味生活を送る老紳士、その周りで次々に起こる非日常的な出来事――旅、好古趣味、冒険、恋愛、夢想、伝説、決闘、秘密の洞窟、詐欺話、遺跡の探検、財宝探しなど、これらの様々な場面が互いに関連を持っていて、意外な結末へと繋がっていく。
※1816年初版
デイヴィー:デイヴィッドの愛称
グリゼル、グリズィー:グリゼルダの愛称
モリー:メアリーの愛称
ダン:ダニエルの愛称
ロビー:ロバートの愛称
半クラウン:旧二シリング六ペンス銀貨
ギニー:旧二十一シリング金貨
ファージング:旧小銅貨で、四分の一ペニー
書名:インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー INTERVIEW WITH THE PRISONER
作者:皆川博子
出版:早川書房
内容:18世紀後半、独立戦争中のアメリカ。ロディことロデリック・フェアマンは、叔父を頼ってアイルランドからアメリカに移民してきた青年だ。叔父のケヴィン・オコナーが発行している週刊新聞『ニューヨーク・ニューズレター』の記者としてロディは働いている。1775年11月、新聞の広告主ラルフ・ウィルソン氏の三男モーリスが訪ねてきて、ロディに依頼する。獄中の英国兵エドワード・ターナーに面会し、アシュリー・アーデン氏殺害の動機を尋ね、アシュリーの手記を渡すこと。ウィルソン家はコロニスト(植民地開拓者)の大農園主で名家だが、モーリスは先天性の口蓋裂のために人前では常に顔の下半分をマスクで覆っている。世間では「悪魔の牙」を隠すための仮面だと噂され、それが彼の異名にもなっている。モーリスがかつて家庭教師を務めたという青年アシュリー・アーデンの父親はコロニストの大地主で英国王より准男爵位を授けられたが、母親はモホーク族の出身だった。父親の指示でモホークの兵を率いて砦に赴いたアシュリーを殺したのは敵ではなく味方だった。ロディはウィルソン家の紹介状を手に獄舎を訪ねる。だが、アシュリーの幼少期の回想から始まる手記を読んだエドワードが語り始めたのは懺悔ではなく推理だった。志願兵エドワードがアシュリーと共に遭遇した連続不審死やスパイ疑惑の真相、そして犯人の秘密……。
※「開かせていただき光栄です」シリーズ三作目。
ロディ:ロデリックの愛称
ジェイク:ジェイコブの愛称
書名:アルモニカ・ディアボリカ THE ARMONICA DIABOLICA
作者:皆川博子
出版:早川書房
内容:1775年、五年前の事件で愛弟子エドワードとナイジェルを失った外科医ダニエル・バートンは<解剖教室>を解散し、失意の日々を送っていた。他の弟子たち、チャターボックス(饒舌)クラレンス・スプナー、ファッティ(肥満体)ベンジャミン・ビーミス、スキニー(骨皮)アルバート・ウッドは、ロンドン・ウェストミンスター地区治安判事ジョン・フィールディングの要請で犯罪防止のための新聞『ヒュー・アンド・クライ』の編集者として忙しく働いている。9月、記念すべき新聞第一号が刷り上がり判事邸に届いた日に、広告依頼の紳士が訪問する。紳士は勲爵士ラルフ・ジャガーズと名乗り、逓信(ていしん)大臣フランシス・ダッシュウッド卿の従弟で、大臣の領地ウェスト・ウィカムを管理し、領地の<犯罪訴追協会>の委員だという。判事に取り次がれたラルフ・ジャガーズは、掲載してほしい広告の内容について説明する。それは、閉鎖された坑道で発見された身元不明の屍体の情報を求めるものだった。屍体の胸には『ベツレヘムの子よ、よみがえれ!アルモニカ・ディアボリカ』と記されていたという。ラルフ・ジャガーズ曰く、ウェスト・ウィカムの領内で天使が空を舞うのを目撃した者がいるという噂を耳にして調査したところ、知能に問題のある踏み車漕ぎと判明した。本人に問いただすと採石場を再開すると命令され、踏み車を回すにつれ天使が上ってきたという。それならば綱の先端に人形でも結びついていたのではないかと考え、洞窟内を探索させたところ、縦穴の真下に屍体が横たわっていたのだという。判事の姪であり盲目の判事の眼の代わりを務めるアン=シャーリー・モアが詳細な質問をするが、ジャガーズは答えられなかった。判事が広告として掲載することを躊躇すると、クラレンスは事件を調べて連載読み物として書かせてはどうかと提案する。そして、新聞第一号にも記事を書いた銀行の出納係ネイサンに声をかけ、ウェスト・ウィカムへ取材に出かけることにした。ちょうど出発当日がダニエルの誕生日だと思い出した弟子たちは、師匠を訪問して近況を話すと彼も同行すると言い出した。だが、ウェスト・ウィカムで保管されていた身元不明の屍体は、彼らのよく知っている人物だった……。
※「開かせていただき光栄です」の続篇
「<ディアボリカ>は、悪魔の、という意味ですね」
「アルモニアという言葉はあります。英語のハーモニーにあたります」
「イタリア語のアルモニア(和声)か」
判事邸は、居宅であると同時に、審問所、簡易裁判所を兼ね、拘置室も備えている。
金貨は五ギニー貨に二ギニー貨、一ギニー貨。銀貨は一クラウン貨に半クラウン貨、一シリング貨、六ペンス、四ペンス、三ペンス、二ペンス、一ペニーと、八種類もある。銅貨が半ペニー貨とファージング貨。ファージング貨は四枚で一ペニー。
十二ペンスが一シリングで、二シリング六ペンスが半クラウン。つまり一クラウンは五シリング。二十シリングが一ポンドで二十一シリングが一ギニー。
イングランドでは、弁護士はソリシター(事務弁護士)とバリスター(法廷弁護士)に分かれる。
アンディ:アンドリューの愛称
フレディ:フレデリックの愛称
書名:開かせていただき光栄です――DILATED TO MEET YOU――
作者:皆川博子
出版:早川書房
内容:18世紀後半、英国ロンドン。聖ジョージ病院外科医ダニエル・バートンは四十過ぎのジャガイモに似た風貌の男で、内科医の兄ロバートが経営する<解剖教室>の講師も務めている。<教室>の特色は学生たちが実際に人体解剖を行えるということで、そのために合法非合法あらゆる手段を駆使して屍骸を確保していた。7月、学生たちは夏季休暇中なので、ダニエルは自邸の私的解剖室で妊婦の遺体を解剖していた。ダニエルの他には五人の弟子、チャターボックス(饒舌)クラレンス・スプナー、ファッティ(肥満体)ベンジャミン・ビーミス、スキニー(骨皮)アルバート・ウッド、容姿端麗エドワード・ターナー、天才素描画家ナイジェル・ハートが居た。そこへウェストミンスター地区治安判事に所属するボウ・ストリート・ランナーズ(犯罪捜査犯人逮捕係)の来訪が告げられ、慌てて弟子たちで解剖中のダニエルを中断させる。ナイジェルとエドが屍骸を白布でくるみ、暖炉を利用して作った隠し場所へ運ぶ。部屋に踏み込んだ治安隊の二人は、捕縛した墓暴きが白状したと前置きしてから、今回売られた遺骸は准男爵ラフヘッド家の令嬢エレインのものだと告げた。ダニエルが失言しそうになるのを弟子たちが誤魔化したり、骨皮アルが一ギニー金貨の賄賂を渡したが、ボウ・ストリート・ランナーズは家捜しを始めた。あちこち見て回っていたが、ボウ・ストリート・ランナーズに突き飛ばされた肥満体ベンが発作を起こしたことで、彼らは諦めて退却した。それでクラレンスとダニエルで隠していた屍骸を取り出したところへ、またしても治安判事の使いがやって来た。今度は隠す暇もなく踏み込まれ、包みが見つかってしまう。使いは二人連れで、治安判事ジョン・フィールディング卿の助手だという男装の女性アン=シャーリー・モアと、アンの助手だというデニス・アボットはがっしりした顎に鉄の罠のごとき頑丈な歯並びを持つ厳つい体格の男だ。包みを押収して出て行こうとするデニスの腰に弟子たちが取りすがり、飼い犬まで足元に寄っていったためにバランスを崩して担いだ荷物をを取り落とした。落ちた拍子に包みがほどけ、剝き出しになった屍骸は両肘から先と両膝から先が切断された十代半ばの少年だった。裸の少年の胸には青インクが塗られており、殺害されたようだ。ナイジェルとエドが気分が悪くなったと場を外した。アンは「殺人事件ならば犯人を捕まえなければならない。盗まれたエレイン嬢の遺体は密告がありました」と言い、尋問と再度の家捜しをする。アンとデニスが引き上げると、ダニエルは妊婦の屍骸の在り処をたずねた。包みを隠したエドとナイジェルは、マントルピース上部のファイア・ドアの陰が少年の遺骸でふさがっていたので、妊婦の遺骸は暖炉の奥の煙道の底に隠していたという。今度こそ妊婦の遺骸を取り出した弟子たちとダニエルだったが、もう一つ新たな遺骸が出てきて驚く。それは顔面が打ち砕かれた裸体の男性の屍体だった。新たな屍体と少年の解剖を弟子たちに任せ、ダニエルは途中だった妊婦の解剖を再開する。しかし、一時間と経たないうちに治安判事が来訪し、作業は中断される。アンとデニスに支えられて入ってきた五十前後の男性の両眼は黒い布で覆われている。ブラインド・ピーク(盲目判事)と呼ばれているサー・ジョンは、ナイジェルが解剖された屍骸をデッサンし終えるまでは待つが、令嬢の遺体を返すように言う。そうすれば未婚の令嬢が妊娠していたことが公にならないように、ダニエルたちが告発されてオールド・ベイリー(中央刑事裁判所)で公判にかけられることもない。ダニエルは妊婦が砒素におかされていたと言い、エドが考案したという装置を使って実験してみせて証明する。判事の姪であり判事の眼を務めるアンが、見たものを逐一説明した。ダニエルは遺骸が一つ増えたことを打ち明ける。エドは暖炉の底から発見したとは言わず、解剖実習室の台に置かれていたと誤魔化した。判事は新たに発見された二体の遺骸は他の医師に検屍を委ねると宣言した。さらに判事が尋問すると、ダニエルは隠し場所の暖炉の構造をクラレンスに説明させた。暖炉は百年あまり昔にルパート王子が考案した効率の良いタイプで、暖炉の裏に大きな空間がある。判事が二つの遺体の素性についてそれぞれに心当たりがないか尋ねると、少年の遺骸を「知りません」と答えるナイジェルの声が震えた。住み込み弟子のエドとナイジェルを可愛がっているダニエルが庇い、自分が聞き取って報告するから任せてほしいと頼む。判事とアン、治安隊員たちが立ち去ったあと、昼食をとりながらダニエルと弟子たちは話し合った。遺骸の発見場所について嘘をついたエドは、理由を「真っ先に我々が疑われる。判事に先入観を与えない方がいい」と答えた。遺骸の少年が誰なのかナイジェルに訊ねると、彼は席を立って階段を駆け上がっていった。仕方なくダニエルは通いの弟子たちを帰宅させ、書斎でエドと二人だけで話すことにする。四肢が切断された遺骸は、ネイサン・カレンという名前の十七歳の少年。文筆の才能を生かすべく、シャーボーンからロンドンに出てきたが、評価されなかった。教会の墓地が安らぎの場と信じていたネイサンは敬虔な信徒だったという。なのに、解剖台に仰臥して左手首を切って死んでいたネイサンを発見したナイジェルは、自殺ではなく殺されたと主張した。殺されたことにしないと、教会の墓地に埋葬してもらえない。手首を切った左手を切断しようとしていたナイジェルを見つけたエドは、片腕だけでは隠蔽を見抜かれるかもしれないから両手両足を切断するように助言して手伝った。今夜、教会の墓地に置いてくるつもりで隠していたと、エドは説明した。さらに自分たち以外に暖炉の構造を知っている者がいると付け加えた。それは誰だとダニエルが問いただそうとした時、兄であり<解剖教室>の経営者でもある内科医ロバートが書斎に入ってきた。兄から経済的な支援を受けているダニエルは頭が上がらない。エドが退出すると、ロバートは弟を叱責した。ロバートはラフヘッド家の主治医で、弟が患家の令嬢の遺骸を解剖したことに腹を立てていた。そのうえにダニエルが遺骸から砒素を検出したことも問題だった。令嬢は妊娠を知った父である准男爵に難詰されて服毒自殺したのだという。准男爵に相談されたロバートは病死ということにして取り繕っていたのだが、令嬢の死因が砒素と露見したことで判事に内密にしてくれるように准男爵は懇願することになった。ロバートは馬車で令嬢の遺体を准男爵邸に届けに行った。ダニエルとエドは判事に面会し、ネイサン・カレンについて報告すると、切断した手足を持ってくるように言われ……。故郷からロンドンに出てきた詩人志望の少年が辿った数奇な運命と、事件の謎を追う物語が同時進行で描写される歴史ミステリ。
※本書は2011年に単行本として刊行された作品に、<ハヤカワミステリマガジン>2011年11月号掲載の短編『チャーリーの受難』を新たに加えて文庫化したもの。
※外科医ダニエル・バートンにはモデルがあり、作者は参考文献に『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』を挙げている。一方、盲目の治安判事ジョン・フィールディングは実在の人物である。
「開かせていただき光栄です」delighted to meet you――お目にかかれて光栄です――を、dilated to meet youと言い換えて、男の骸(むくろ)に会釈した。
治安隊がボウ・ストリート・ランナーズと呼ばれるのは、判事邸がコヴェント・ガーデンのボウ街四番地にあることによる。邸宅は住まいであると共に治安判事裁判所を兼ね、捕縛した者を一時収容する拘置所もそなえている。微罪であれば治安判事の権限で刑を言い渡し、重罪人は中央刑事裁判所――通称オールド・ベイリー――に送る。被疑者は裁判を受け刑が決まるまで監獄入りになる。
セダン・チェア:担ぎ椅子。二本の長い棒に取り付けた輿(窓のついた箱型)を、前後一人ずつ担ぐ。フックで吊った革紐が棒に取り付けてあり、担ぎ手は両肩にまわしてかけ、支えにしている。
書名:時の睡蓮を摘みに
作者:葉山博子
出版:早川書房
内容:自由恋愛の両親から生まれた一人娘の滝口鞠は、父子家庭で育った。鞠が赤坂の女学校を卒業する前年に、綿花交易に携わる父親がハノイに単身赴任した。ほとんど面識のない父方の伯父の家に預けられた鞠は、馴染むことができず辛い思いをする。女学校でも唯一の友人が転校したあとは孤立しており、花嫁修業のような授業は父親に育てられた鞠にはついていけなかった。1936年、憧れだった名門女子専門学校の受験に失敗した鞠は、伯父の部下と見合いをしたが、はきはきと正直に受け答えしたことで顰蹙をかい破談となってしまった。この一件で伯父の家に置いておけないと言われた鞠は、父の赴任先のフランス領インドシナへ行くことになる。東京を発つ前に、鞠は女学校でただひとり親切にしてくれた地理教師に挨拶しにいった。すると初老の先生は「ヨーロッパの大学は女子も入学できる。フランス領の植民地なら、女性も大学で学べるかもしれない。向こうに行ったら、聞いてみるといい」と助言してくれた。大阪商船に乗船して神戸港を発ち、仏領インドシナ・ハイフォン港に到着した鞠は出迎えの父と首都ハノイまで二時間のドライブを楽しんだ。到着早々に鞠はコレラ・ワクチンを接種させられ、父から生水や生野菜はしばらく口にするなと厳命される。次に婦人服のメゾンでフランスのア・ラ・モードの服を新調してもらったが、鞠は父親にねだって現地人が着ているアオザイもあつらえた。父親と同居してフランス語教室に通うようになっていた鞠は、ある日、一人暮らしを提案された。もともと遠慮なく物を言う父はハノイでフランス的な個人主義に染まり、鞠と親子喧嘩が絶えなくなっていたのだ。プチ・ラック(小湖)の南側に広がるフランス人街の六区、ターミナル駅であるハノイ駅の東側にあるアパルトマンに鞠の新しい部屋は見つかった。部屋の鍵を華人オーナーから受け取った帰りに、鞠は父と近隣や新市街地のドライブを楽しんでいると、ユニークなインドシナ様式の建物を運転手が大学だと紹介した。大学構内を散策した鞠は「ハノイ(インドシナ)大学に行きたい」と宣言した。父が知り合いの日本総領事を頼ると、植田勇吉という新任の外務書記生を紹介される。植田書記生の助力を得た鞠は猛勉強の末にバカロレアを取得し、ハノイ大学に進学した。鞠は「新天地への冒険」という夢を胸に、アオザイ姿で地理学科に通う。しかし、フランス語のつたない鞠が授業についていくのは大変で課題に苦労していると、阮(グエン)王朝の官吏(マンダリナ)だった父を持つというクラスメートの鄭美鳳(ティンミーフォン)が親切に手伝ってくれ、二人は友人になる。あるとき父から見合いを勧められた南亜洋行の商社マン紺野永介は、鞠に手紙を出して見合いの席は仕事を口実にキャンセルすると書いておきながら父親抜きで鞠を誘い出して食事をする。どこか不穏な雰囲気をまとう紺野は、植田書記生とも情報を交換する間柄で、仏印社会で暗躍していた。1938年11月、鞠は大学で唯一の日本人学生という理由で、フランス極東学院の先生から教え子のアンケートに協力してほしいと頼まれる。紹介された研究生クララは上海のフランス租界で暮らしていたが、日本軍と中国軍が市街戦を行ったためハノイに避難してきたという。同じ頃、紺野から「蒋介石と仲違いした汪兆銘(おうちょうめい)が中国を脱出してハノイにくる」という情報が植田書記生に伝えられる。12月、植田書記生は中国との国境地域ランソンに向かったが、恋人の手配した運転手に置き去りにされた直後に越境してきた武装志那兵に拉致されてしまった。紺野のほうは、軍事間諜の容疑でフランスの軍法会議にかけられていた。日本軍の仏印進駐が迫るなか、植民地主義の非常な現実が鞠を翻弄していく……。歴史ロマンミステリ。
※2023年初版。本書は、第十三回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作『時の睡蓮を摘みに』を単行本化にあたり加筆修正したもの
※巻末の「付記」によると、本作に登場する「植田勇吉」は実在の外務書記生・塩見聖策を参考に、作者が虚構の記述を加え創作した人物である
「安南人は、生水だけは恐れている。彼らは木炭でよくろ過してから、必ず煮沸し、お茶の葉で煎じてからでないと絶対に口にしない。水が原因で、村が全滅しかけたなんてことはざらにあった」
書名:おとぎカンパニー 妖怪編
作者:田丸雅智
出版:光文社
内容:活躍する同期が気に入らない「おれ」は、ある日突然あらわれた子泣きじじいの提案に乗って同期にとり憑いてもらう。すると、同期のパソコンが重くなり業務に支障をきたすようになって……(『重くなる』)。家族が出払っていて暇を持て余していた主婦の「私」は、訪問セールスの話を聞くことにした。玄関に入ってきたセールスマンは、ぬりかべ。ウォール株式会社の営業だという。ぬりかべが提案したサービスは、「子供のための壁導入」である。子供の才能を伸ばしつつ挫折しない程度の『壁』を派遣されたぬりかべが務めるというが……(『壁とともに』)。応援しているアイドルのSNSに辛辣なリプライを送って炎上した「ぼく」だったが、突然あらわれた砂かけばばあがスマホに砂をかけるとおさまった。「あんたが望むのならば、これからもそばで火を消してやっても良い」と言われたことで、厳しい姿勢で次々と投稿するようになったが……(『砂をまく』)。デスクワークでパソコン画面を見続けたために眼精疲労に悩まされている「私」は、突然あらわれた百目(ひゃくめ)という妖怪のセールスを受ける。聞けば「百目代行サービス」の会社では「目を預かるサービスと、一時的に代わりの眼球を貸す代眼(だいがん)を行っている」という。とにかく目の疲れをとりたい一心で利用すると……(『目の代行』)。昔から言い伝えられてきた日本の妖怪が現代社会で活躍するショートショート全12編。
<収録作品>
●重くなる(子泣きじじい)
●壁とともに(ぬりかべ)
●N肉(ぬっぺふほふ)
●川の陶工(河童)
●砂をまく(砂かけばばあ)
●かまちゃん(かまいたち)
●いた(ぬらりひょん)
●座敷男(座敷童子)
●目の代行(百目)
●スノービューティー(雪女)
●海と野球(海坊主)
●のっぺら嬢(のっぺら坊)
書名:失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語
原題:L'affare Vivaldi
作者:フェデリーコ・マリア・サルデッリ(イタリア作家)
出版:東京創元社
内容:1740年5月27日、ヴェネツィアのサン・サルバドール地区にあるヴィヴァルディ司祭が通常居住しているカッレ・デ・ファヴリの館に、財務捜査官の付き人が召喚状を手にやってきた。兄の留守宅を守る姉妹マルガリータとザネッタが「兄は旅に出て、いつ戻るか存じません」と答えると、付き人は「司法府に出頭せよという通告を、明日リアルト橋に貼り出します」と告げて帰っていった。次に館を訪れた客は弟のフランチェスコだった。兄に対する通告が貼り出されることを知ったフランチェスコは、今夜ひそかに館を再訪することを姉妹に告げる。理髪店を経営するフランチェスコは徒弟のズアーネに手伝わせ、夜中に人目を忍んでこっそり兄の手稿譜とヴァイオリンを運び出した。……時は流れて20世紀、ヴィヴァルディの手稿譜が再び世に現われるきっかけは、1922年の秋、モンフェッラート地方オッチミアーノ村のダ・パッサーノ城に居住していたジェノヴァの貴族マルチェッロ・ドゥラッツォ侯爵の死だった。愛書家の侯爵は先祖から受け継いだ蔵書が後世に伝えられることを願い、サレジオ会の修道院に遺贈した。だが、寄贈を受けてもその価値を理解できなかった修道士たちは、堆肥を運ぶ荷車に蔵書を積んで運搬し、修道院の屋根裏に無造作に山積みにした。1926年秋、ボルゴ・サン・マルティーノに建つサン・カルロ修道院の新任院長エマヌエルは、修道院の修復と拡張を計画する。エマヌエル修道院長は資金を得るためにドゥラッツォ家の寄贈書を売却することに決め、各地の古美術商に宛てて手紙を送った。その一方で、蔵書の正しい価値を知るために専門家の鑑定が必要だと考え、トリノ国立図書館の館長ルイージ・トッリに手紙で依頼するが……。18世紀の手稿譜が辿った運命と20世紀で再び世に出た経緯が交互に同時進行で語られるノンフィクション歴史小説。
※2015年初版
※バロック音楽(後期)の巨匠アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741年)は、「赤毛の司祭」という異名を持つように、聖職者でもあった。18世紀ヴェネツィアのピエタ院(身寄りのない子供たちを預かり、音楽教育を施していた)に所属し、作曲家として、また音楽教師として活躍していた。一時は人気の絶頂を極め、オペラの作曲だけでなく、興行まで次々と手掛けていたが、晩年にはナポリ楽派に人気を奪われてしまう。そして生活苦から借金を重ね、仕事を求めて旅立っていったウィーンで不遇の最後を遂げた。本書はヴィヴァルディの遺した手稿譜を主人公に据え、それらが辿った数奇な運命を、史実を踏まえつつミステリ風に綴ったノンフィクション小説である。
※本書の原題affareには、「取引」「事件」「関心事」といった意味がある。
※巻末の『出典に関する注記』によると、「本書で語られている出来事は、その大部分が実際に起こったことであると読者の皆さんに確約したい」という作者の記述通り、綿密な調査によって公文書、新聞、手紙といった史料の裏付けによって史実を追いかけ判明した顛末が「事実は小説よりも奇なり」という言葉そのものを体現した手稿譜をめぐる物語である。
エルネスティーネ・ウングナート・フォン・ヴァイセンヴォルフ伯爵夫人が、家名を見事に体現する性格であったことは疑いない。ウングナートは「情け容赦ない」と訳すことができ、おまけにヴァイセンヴォルフは「白い狼」という意味なのだから。
書名:列車はこの闇をぬけて
原題:Train Kids
作者:ディルク・ラインハルト(ドイツ作家)
出版:徳間書店
内容:六年前、八歳だった「ぼく」ことミゲルと四歳だった妹フアナを置いて、母親は祖国グアテマラからアメリカ合衆国に働きに行ったきり帰らなかった。火山のふもとにある故郷タフムルコを出たミゲルは、母親を探し、働いてお金を貯めるために合衆国を目指す。ミゲルは家を出る少し前に、母親の住所を足の裏にイレズミで彫りこんでもらっていた。最初の目的地は国境の町テクン・ウマンで、ミゲルは青少年難民センターに宿泊する。翌朝、食事のテーブルで同席になった同年代の四人と一緒に旅をすることに決める。同行することを提案した十六歳のフェルナンドが一番年長で、仲間のリーダー格だ。一番年少のアンジェロは十一か十二歳、他の二人はミゲルと同い年でエミリオはインディオ、「ヤス」ことヤスミーナは男装した女の子だ。合衆国行きを何度か試みた経験のあるフェルナンドを先頭に、五人は国境の大河リオ・スチアテへ移動した。フェルナンドが交渉した船頭のイカダに乗り込んだ五人は、突然メキシコ側の岸に現われた国境パトロールの警官たちを目にする。船頭は船賃とは別に賄賂を要求し、どうやら警官とグルらしい。フェルナンドは仕方なく追加の金を渡し、イカダが着岸するとミゲルたちはとびおりて走り出した。メキシコの国境の町シウダー・イダルゴに入ると、フェルナンドは歩を緩めて皆にポケットから引っぱり出した札束を見せた。船頭の隙をついてすり取っていたのだ。町の貨物駅に着いたあと、ミゲルたちは今は使われていない貨車のかげに隠れて様子を窺う。やがて鉄道警備隊が現われ、長い貨物列車の先頭から最後尾まで、両側にくまなく警備員が立つ。貨車に乗り込もうとする不法移民を取り締まるために警備員たちが走り出すと、フェルナンドの指示に従ってミゲルたちは彼らの背後から走って列車に向かう。ミゲルたちは貨車の下に滑り込み、レールのあいだを這って進み、フェルナンドが目を付けた屋根のない貨車に潜り込んで材木の隙間に隠れる。こうして監視の目をかいくぐり発車すると、北の国境へ向けてのメキシコ縦断の旅が始まる。五人は一緒に貨物列車の屋根に乗り、飢えや渇きや暑さ寒さ、追い剥ぎや検問と悪徳警官、「列車ビジネス」をしきる犯罪組織による手引きや水先案内人、身代金目当てのギャングなど、さまざまな苦難を経験し、お互い助け合って切り抜けてゆく。時には親切な人々にも出会いながら旅を続けるうちに、五人の間には絆と友情が芽生えるが……。アメリカ合衆国を目指してメキシコを旅する少年少女たちの実話をもとにしたフィクション。
※2015年初版
※作者が現地取材して書いた本作は、『作者あとがき』にあるように、実際に国境を目指す不法移民の少年少女から聞き取った実話がもとになっている。
※『作者あとがき』によると、毎年およそ三十万人の移民が、メキシコの南の国境を越え、この国を通って北のアメリカ合衆国を目指す。彼らはグアテマラ、ホンジュラス、エル・サルバドル、ニカラグアといった中南米の小国、世界でも最貧とされる国の出身だ。そして、中米のメキシコさえ越えれば、世界でもっとも豊かな国であるアメリカ合衆国がある。さらに親に置いて行かれた子供たちが、いくらか成長すると、親を探して旅に出る。毎年、約五万人ものこうした少年少女がメキシコに流れ込む。だが、こうした不法移民たちを収入源にしている犯罪組織が待ち構えており、ときには殺人事件も発生する。作者の取材に応じた少年少女のその後の消息は不明だという。
9/17
書名:魔笛の調べ3 ハーメルンの子
原題:A Thunder of Monsters
作者:S・A・パトリック(イギリス作家)
出版:評論社
内容:ドラゴンやグリフィンが棲み、笛ふきたちが音楽を魔法のように使う世界。十年前、ハーメルンの町から子供たちをさらい、ドラゴンの子供たちもさらった邪悪な笛ふきは、双子の兄弟を身代わりにしていたことが露見した。さらに竜石でつくったパイプオルガンで笛ふきたちを操ろうとして失敗し、ハーメルンの笛ふきは姿を消した。笛ふきの最高府である評議会は、ハーメルンの笛ふきを捕まえるための『大追跡』を行う。パッチ・ブライトウォーターは笛ふきの元訓練生で、行動を共にしているバルヴァー・ノップファーケアキルはドラコグリフ、ネズミのレン・コブルは実は人間の女の子。レンをネズミの姿に変えた魔法使いアンデラスの友人であるグリフィンのアルケランを救い、彼女の魔法を解いてもらった。おまけにレンは変身の才能を手に入れ、その技術を学ぶ決意をする。パッチたちは十年前にハーメルンの笛ふきと戦った『八人』の一人であるウラル・カシミールが殺された事件の調査した結果、犯行の動機と思われる奇書を見つける。それは『果てなき闇の探求』という伝説の魔法使いラー・セネンが書いた本で、ハーメルンの笛ふきが作ったパイプオルガンの設計図が記されていた。それだけでなく、オースティングの大森林で幽霊兵団を率いていると噂される黒騎士の鎧の設計図まであった。つまりウラルの殺害犯はハーメルンの笛ふきで、黒騎士の正体は彼に違いない。事件の調査を主導していた『八人』の一人であるランデル・ストーンと、その弟子アーナー・ウィットロックはハーメルンの笛ふきを捕らえる救援を要請するために、評議会の拠点ティヴィスキャンへ向かう。同じく『八人』の一人であるトビアス・パラフォックスも援軍を頼みにキントナー砦に向かう。そして、やはり『八人』の一人であるアリーア・コーリガンはパッチたちと一緒に、ドラゴンと人間が共存する唯一の街スカモスへ向かう。しかし、スカモスは、カスターカンが率いるドラゴン軍に破壊されてしまう。スカモスを去ったパッチたちはグリフィンに助力を頼む。パッチたちはクモの巣谷でトビアスが率いる援軍と合流するが、ハーメルンの笛ふきの軍勢に強襲される。ハーメルンの笛ふきに降伏したと見せかけたレンの機転で、パッチたちは魔法の移動装置を使って逃げることができたが、逃げた先の島は『ベスティアリ』と呼ばれる場所だった。其処は魔法使いが特殊な獣を飼っているところで、死んだと思われていたバルヴァーの父ギャヴァリーがいた。パッチたち一行は島を脱出するために試行錯誤するが、目に見えない防御壁で空を飛べず、海から突き出る巨大な触手で筏は使えず、骨の林には怪物がいる。やがてアリーアは朝日を指して太陽ののぼる位置が前日と違うことを示し、此処が動く島であり、ラー・セネンが作ったと言われる伝説の移動要塞マサーケンだと説明する。アリーアの解説により、パッチたちは操舵小屋を目指す。そのころ捕虜となったレンは、ティヴィスキャン城を目指す軍勢とともに行軍していた。レンの師匠はウラルだと勘違いしたハーメルンの笛ふきは彼女を尋問する一方、今回のことを計画したのは自分の師匠だと告げる。レンはひそかに変身のわざを練習し、夜の嵐のさなかに翼をはやして飛び去る。ティヴィスキャン城に到着したランデルとアーナーは、予言された裏切り者の評議員たちを探すためにウラルの屋敷から持ってきた嘘を見抜く装置を使う。ランデルのもとへやって来たピューター評議員は「裏切り者はドレヴィス議長だ」と言うが……。
※2022年初版
※作者は北アイルランド、ベルファスト出身。オックスフォード大学で数学を専攻。作家になる前は、ゲームプログラマーとして13年間働く。イギリスのコーンウォール在住。
※本書は、1284年に起きた「ハーメルンの笛ふき男」の事件を下じきにした物語。
※ドラコグリフ:ドラゴンとグリフィンのハーフ
書名:モルグ館の客人
原題:Mortmain Hall
作者:マーティン・エドワーズ(イギリス作家)
出版:早川書房
内容:1930年6月、ロンドン中心部にある葬儀列車の発着場で、建物の陰に身を隠しているレイチェル・サヴァナクが待っていた相手は『幽霊』である。顔におろしたベールと喪服姿で正体を隠したレイチェルは、『幽霊』の後を尾けて客車に乗り込む。コンパートメントで二人きりになると、レイチェルは『幽霊』ことギルバート・ペインに救いの手を差し伸べる。四年前みずからの死を偽装してロンドンから逃げ、バートラム・ジョーンズとしてタンジールで暮らしていた男は頑なに否定する。男の失踪の経緯を聞いたというレイチェルは、身の危険が迫っていることを教えて説得しようとし、救出の手筈を整えていることも説明する。やがて列車はブルックウッドの集団墓地に到着し、母親の葬儀に出席したギルバート・ペインは帰りの列車に乗り込んだ。会葬者を装っていたレイチェルは葬儀に参列せずに、お抱え運転手トルーマンが運転してきたロールスロイス・ファントムで待機する。ギルバート・ペインが乗車したコンパートメントに、彼をロンドンから追跡していた怪しい男二人が発車直前に飛び乗ったのを見届けたレイチェルはため息を吐いた。翌日の朝刊には、バートラム・ジョーンズが客車から落ちてウォータールー急行に轢かれて死んだことが報じられていた。素人探偵レイチェルが幽霊と話していた頃、クラリオン紙の若手記者ジェイコブ・フリントはオールド・ベイリー(中央刑事裁判所)で殺人事件を取材していた。裁判は検察側優勢で昼食休憩となって皆は有罪だろうと考えていたが、傍聴席から熱心に被告を観察していた魔女めいた容姿の女性ドーベル夫人は、ジェイコブに「裁判は不思議な方向に進むことがあるの、そこに永遠の魅力がある」と語る。再開された法廷で登場した弁護側の証人ウィットロー少佐の目撃証言は裁判を逆転させ、被告の男クライヴ・ダンスキンは無罪放免となる。閉廷後、外に出たジェイコブは喜ぶダンスキンたちを遠巻きに眺めていてドーベル夫人の姿を見つけた。ジェイコブは裁判結果を予見した彼女のコメントを求めるが断られ、代わりにレイチェル・サヴァナクへの伝言を頼まれる。「殺人について話したいから<キルケ・クラブ>に連絡をとるように」というメッセージを、レイチェルに電話で伝えたジェイコブは自宅に招かれる。数カ月ぶりにゴーント館を訪問したジェイコブは、メイドのマーサに通された書斎でレイチェルを待つあいだ読書を勧められる。ローテーブルに置いてあったレイチェルの本に好奇心をもったジェイコブは手に取る。高名な犯罪学者レオ・スレイターベックが著した『高貴なる殺人』という本で、レイチェルの栞が挟まれていた殺人事件にジェイコブは目を通す。やがて現われたレイチェルに、ドーベル夫人は魔女ではなく、犯罪学者スレイターベックその人であると教えられる。著者名は旧姓で、レオノーラ・スレイターベックはヨークシャーの旧家で生まれ育ったフェリックス・ドーベルと結婚したという。北東部の海岸にあるドーベル家の屋敷は、モートメイン館と呼ばれているらしい。二人がドーベル夫人やダンスキン事件を語るうちに、ジェイコブはバートラム・ジョーンズの線路転落事故は殺人事件ではないかという自説を述べる。レイチェルは『殺人と謎』というスレイターベックの著作を読めば分かるという。訳を尋ねるジェイコブに、殺されたジョーンズの本名はギルバート・ペインであり、本にはペインが殺されてテムズ川に投げ込まれたとされている事件について書かれているとレイチェルは説明する。情報源を尋ねるジェイコブに、ペインの友人ヴィッカーズから聞いたと答えたレイチェルは、ペインが出入りしていたいかがわしいクラブ<クランデスティン>を教えたうえで、事件を調べれば命の危険にさらされると忠告する。レイチェルに情報を提供したレジー・ヴィッカーズは、恋人ドゥードルが手紙を残して出て行ったことに意気消沈していたところに、トルーマンからの電話でギルバート・ペインが殺されたことを知った。ショックを受けたヴィッカーズは情報提供を拒み、ホワイトホール(ロンドンの官庁街)に出勤する。うわの空で仕事を終えたヴィッカーズは、上司のウィットロー少佐とクリケットの試合を観戦する。少佐に機密保持について釘を刺されたヴィッカーズは、少佐がキャプテンを務めるクリケットチーム・マスカレーダーズがヨークシャーでプレイする試合に誘われる。喜ぶヴィッカーズは<クランデスティン・クラブ>に出かけるが、途中で二人の暴漢に「話したら命はないぞ」と喉をナイフで引っかかれたうえに蹴られて気絶した。意識を取り戻したヴィッカーズは軽い流血と体の痛みに怯え、レイチェルに話したことを後悔した。王立芸術院で待ち合わせをしたレイチェルは、ドーベル夫人にモートメイン館で催されるパーティーに招待される。招待客は殺人を犯しながらも法で裁かれなかった者たちで……。エピローグから始まるスリラー小説。
※2020年初版
※『解説』によると、原題のmortmain(モートメイン)は、譲渡や売却の許されない土地や建物を保有すること(死手譲渡)を指す法律用語で、過去が現在を束縛している状況を意味するが、読者にはヨークシャー北部の古い村の名前として紹介される。北海を臨む海岸には、村人がモルグ・ホール(死体安置館)と呼ぶ、由緒ある一族の屋敷モートメイン館が佇む。登場人物が一堂に会し、物語が劇的な展開を遂げるクライマックス近くでは、この館が重要な舞台となる。
「レオはレオノーラということですか?」
クリフ:クリフォードの愛称
「<クランデスティン>はその名のとおり、秘密を保つのだ」
天使も踏むを恐れるところ:あえて危険に飛びこむ状況を指す慣用句