書名:魔術師ペンリックの使命 Penric's Mission and other novellas
原題:Penric's Travels
作者:ロイス・マクマスター・ビジョルド(アメリカ作家)
出版:創元推理文庫
内容:ペンリック・キン・ジュラルドは、アドリア大神官に仕える神殿魔術師。だが、大神官のいとこであるアドリア大公の要請でセドニアに派遣されることになる。黒髪の多いセドニアで目立たぬように白金の髪を茶色に染めたペンリックは、密書を書類鞄の裏地に縫い込み、法務士に仕える事務官と偽って船に乗った。アドリアのロディからセドニア帝国の港町パトスに到着したペンリックは、下船して半時間も経たぬうちに同じ船に乗り合わせていた商人ヴェルカに間諜だと告発される。ペンリックは衛兵の警棒で頭を殴られて昏倒し、拘束されて壺牢に入れられる。自らに宿る庶子神の魔「デズデモーナ」の力で怪我を癒しながら脱出の機会を窺うペンリックだったが、尋問されることもなく牢内に放水されて溺死させられそうになる。ペンリックは魔法で水を氷盤に変化させて足場にすると、頭上の開口部から脱出した。染めた髪を元に戻したペンリックは神殿に逃げ込み、奉納箱から貨幣を盗む。その金を使って変装したペンリックは、密書を届ける相手だったセドニアの将軍アデリス・アリセイディアに会おうとする。しかし、将軍は四日前にアドリアと組んで反逆を企んでいるという罪状で逮捕されていた。そして昨日、沸騰した酢で目をつぶされてから将軍は釈放されたという。この一連の出来事は最初から将軍を狙った政敵による罠だったのだ。将軍と同じ日に生まれた異母妹であるニキスは、将校の夫を亡くした寡婦でマダム・カタイと呼ばれている。失明したことで自暴自棄になったアデリスを看病するニキスは、大逆罪で財産を没収されたこともあり途方にくれていた。そこへ責任を感じたペンリックが医師と偽り、将軍の手当てを買ってでる。医療魔術の心得のあるペンリックが診察したところ、将軍の目は回復可能であることが分かる。だが再び将軍のもとに政敵の手が伸び……『ペンリックの使命』。アデリスの追っ手の一人である魔術師によって怪我を負ったペンリックは、デズデモーナの魔法で何とか回復すると逃避行を再開する。アデリスはニキスとともにオルバスに亡命しようとしており、ペンリックたちはセドニアを脱出するために国境を目指していた。国境近くの町で「旅の神官魔術師の一行」と偽ったペンリックたちは、娼館で害虫駆除の仕事を請け負う。ペンリックは魔のかつての宿り主である高級娼婦ミラの人格の助けを借りることになるが……『ミラのラスト・ダンス』。ニキスを愛するようになったペンリックは、アドリアに帰還するよう催促する書状が届いてもオルバスに滞在していた。そんなときアデリスの政敵の差し金でニキスの母イドレネ・ガルディキがリムノス島に捕らえられたという知らせが届く。オルバス大公ジュルゴの命令でアデリスは兵を率いて遠征中のため、ニキスは母を脱獄させる助力をペンリックに頼み、二人はひそかにセドニアに戻るが……『リムノス島の虜囚』。
※前巻『魔術師ペンリック』のラストから六、七年が過ぎ、三十歳のペンリックの物語が収録されている。
※五神教世界の地理は、ヨーロッパ地図を百八十度回転させると、イブラ半島がイベリア半島、ダルサカがフランス、ウィールドがドイツ、連州がスイス。連州は雪深い山国である。連州から山を越え、イタリア北部のあたりに、アドリアがある(この世界にイタリア半島はない)。そこから船に乗って地中海にあたる海を西にむかい、海につきだした国ギリシャがセドニアに相当する。陸路をたどった場合は、セドニアからアドリアまでの間に、オルバスとトリゴニエという二つの国がある。オルバスとトリゴニエは大公が統治する公国だが、このセドニアは古い歴史をもち皇帝をいただく帝国である。
<収録作品>
Penric's Mission (2016年発表) 『ペンリックの使命』
Mira's Last Dance (2017年発表) 『ミラのラスト・ダンス』
The Prisoner of Limnos (2017年発表) 『リムノス島の虜囚』
※ペンリック&デズデモーナのシリーズはそれぞれ独立した連作中編となっているが、本書にまとめられた三編は、ビジョルド女史自身が「セドニア三部作」と呼んでいるように、すべてセドニアを舞台とし、時間的にも物語としても密接につながっている。
彼女の目は、緑が金色を帯びた透明な榛(はしばみ)色だ。
「ふたりの母のうち、ドレマはいつも現実的で、フロルマは心配性だったの」イドレネとレディ・フロリナに対する子供時代の愛称だ。
書名:魔術師ペンリック Penric's Demon, and other novellas
原題:Penric's Progress
作者:ロイス・マクマスター・ビジョルド(アメリカ作家)
出版:創元推理文庫
内容:白金の髪に青い瞳の美青年ペンリック・キン・ジュラルドは十九歳で、連州の貴族ジュラルド一族の末子。春のある日、ペンリックは長兄であるジュラルド領守が決めた自分の婚約式のために騎馬で町へ行く途中、道端に倒れている老女とそれを囲んでいる神殿護衛騎士や使用人を見つける。気になって声をかけたペンリックは老女がルチアという名の旅の神官で、病の発作を起こして倒れたと知る。騎士の一人がグリーンウェルの町の診療所に助けを呼びに行っている間、ペンリックは病人の傍にひざまずいて助力を申し出た。ルチア神官は「申し出を受けましょう」と言い、ペンリックの手を握って息を引き取る。その瞬間、ルチア神官の目に濃い紫色の光がひらめき、ペンリックは苦痛の悲鳴をあげて気絶した。翌日目を覚ましたペンリックは、グリーンウェル神殿の神官長であり、自分の勉学の教師でもあったルーレンツ学師から事情を聞く。亡くなったルチア学師は、季節にかかわりのないすべての災厄を司る第五の神、白い庶子神に仕える神官であり、強大な力をもった魔を宿す最高位の魔術師であったという。『魔』とは、そもそものはじめ心も形もない一欠片の素霊として、混沌と崩壊が支配する庶子神の地獄からこの世界へ逃げ出してきて生物に宿る。そして所有主が死ぬと、近くの生き物に飛び移るのだ。そうやって言葉や知識を代々の所有主から得て蓄積させていく。つまり、ペンリックは白の神の魔に取り憑かれており、魔を所有している状態なのだという。通常は神殿で訓練を受けた神官が魔を受け継ぐのだが、予定外の事故で魔を宿したペンリックは周囲から危険視されていた。そしてペンリックの婚約は破談となり、彼自身はルチア学師が向かっていたマーテンズブリッジの庶子神教団本部に護送されることになる。ペンリックは経済的事情で許されなかった大学進学のことを思い出し、庶子神教団で学ぶことができないかと考えながら旅立つ。旅の間、ペンリックは雌馬と雌ライオンと十人の人間の女性を経てきた年古(としふ)りた魔を自分の内に棲まわせている状態に戸惑う。二百歳にもなる魔と話したペンリックは、今までの乗り手の人格を魔が模倣していることを知った。ペンリックはとりあえず十二の姉全員をあらわす名として「デズデモーナ」という名前を贈る。そして、デズデモーナから簡単な魔法の使い方を秘かに教えてもらう。そんなこんなで到着したマーテンズブリッジの町は、グリーンウェルの十倍の規模だった。さらに目的地である庶子神教団で面会したティグニー学師は、ペンリックが受け継いだ魔が優位に立ち、彼の身体を支配して暴走するのではないかと疑っており……『ペンリックと魔』。第一話から四年後、マーテンズブリッジを治める王女大神官ルレウェン・キン・スタグソーンに仕える宮廷魔術師となったペンリックは、殺人事件を捜査する東都の父神教団の上級捜査官オズウィルの要請で、逃亡中の容疑者イングリス・キン・ウルフクリフを追跡する手助けをすることなる。イングリスはウィールドの王認巫師(ふし)だというが……『ペンリックと巫師』。王女大神官のお供でウィールドの東都にやってきたペンリックは、休日に友人と魚釣りを楽しんでいたところ、捜査官オズウィルがやってきて神殿魔術師が殺される事件が起きたという。捜査への協力を頼まれたペンリックは、友人の巫師とともに殺人現場へと向かうが……『ペンリックと狐』。
※本書は『五神教世界』を舞台にしたシリーズの新作。
※作中の地理は「訳者あとがき」によると、「ヨーロッパの地図をひろげて、百八十度回転させて右上にイブラ半島(イベリア半島)がくる。その左下にダルサカ(フランス)がある。どうやらウィールドは、さらにその左下、ほぼドイツにあたる広大な国であるらしい。ウィールドの北の国境付近にはレイヴン山脈がそびえ、それを越えたスイスに相当する場所に、本書の主人公ペンリックの故郷、連州がある。連州の北にも急峻な山脈がそびえ、そのむこう、イタリア北部のあたりにはアドリアという国がある。この世界、イタリア半島は存在しないらしい。アドリアから船に乗ってペロポネソス半島までいくと、非常に長い歴史をもつセドニア帝国がある。ペンリックの故郷である連州は、王のような統治者をもたない小領地が集まった山国で、ウィールドとは友好な関係を保っている。「連州」の原語はCantonsであるが、cantonとはそもそもスイスの州を意味する単語だ。」と、設定されている。
※物語の登場人物の名前も「訳者あとがき」によると、「ウィールドの氏族はキン・○○として獣にちなんだ名前をもっている(ペンリックのキン・ジュラルドはサオネ出身の先祖の名前なので例外だ)。ウルフクリフは、狼の崖とわかりやすいものの、あまり馴染みのない動物名もある。百五十年前から玉座についているスタグソーンは牡鹿の茨。『ペンリックと魔』に登場するマーテンデンは貂(てん)の巣。同じくこれは地名だが、マーテンズブリッジは貂の橋だ。『ペンリックと巫師』に出てくるボアフォードは猪の浅瀬。ボアフォード氏族は氏伯をいただく大貴族である。『ペンリックと狐』のパイクプールは川魳(かわかます)の池。彼はペンリックの兄と同じく、領守という小貴族である。精霊戦士をつくるには氏族の獣を生贄にしてその魂をとりこむのであるが、カマスに戦士をつくれるほどの魂があるとはとても思えない。たぶん、だからこそ、小貴族なのだろう。」ということである。
<収録作品>
Penric's Demon (2015年発表) 『ペンリックと魔』(本書第一話)
Penric and the Shaman (2016年発表) 『ペンリックと巫師(ふし)』(本書第二話)
Penric's Mission (2016年発表) 本書未収録
Mira's Last Dance (2017年発表) 本書未収録
Penric's Fox (2017年発表) 『ペンリックと狐』(本書第三話)
The Prisoner of Limnos (2017年発表) 本書未収録
※作品の発表順ではなく、作中の時間経過に沿って収録されている。
書名:ジェリコの製本職人
原題:The Bookbinder of Jericho
作者:ピップ・ウィリアムズ(オーストラリア作家)
出版:小学館
内容:20世紀初頭の英国。オックスフォード大学出版局製本所の女工であるペギーことマーガレット・ジョーンズは21歳の美しい娘。ペギーは父親を知らず、母親にも死なれ、双子の妹モードと一緒に12歳から製本職人として働いている。知的好奇心旺盛なペギーは、作業の合間に本を盗み読み、不良本を家に持ち帰っている。学ぶことに憧れるペギーだが、運河に浮かべたナローボート暮らしで、障害のある双子の妹の面倒をみなければならない身では大学に進むことなど叶わぬ夢だ。まだ若いというのに自分の将来を諦めているペギーは怒りを抱えながら生活のために働いている。1914年8月、ベルギーを侵略したドイツに大英帝国が宣戦布告。第一次世界大戦が始まると、出版局に勤める若い男性たちは志願兵として国防義勇軍に入隊して去っていった。ジョーンズ姉妹が住むボート・カリオペ号のお隣さんであるステイング・プット号で暮らすラウントリー家の息子ジャックは植字工だったが、彼も兵隊になって出て行った。9月、亡母の友人で女優のティルダ・テイラーから手紙が届き、彼女が女性社会政治連合(WSPU)を脱退し、篤志救護隊(VAD)に志願して従軍看護婦になることを知った。戦争の影響でさびれた出版局に出勤したペギーは、ジャックの上司である主任植字工ガレス・オーウェンに話しかけられる。男性と女性は別々で働いているため、声をかけられて戸惑うペギーだが、ガレスは想い人のために本を作りたいので協力してほしいと頼む。ガレスの想い人が写字室で働きながら言葉の蒐集をしていると聞いたペギーは、ティルダから聞いた友達の「仲良しのことばの虫」と呼ばれる女性のことを思い出す。女性のことばの辞典を製本して贈り物にするというガレスに、愛の告白だと察したペギーは手伝う。10月、ベルギーからの難民を出迎えるため、ペギーは妹のモードと隣人のロージー・ラウントリーと駅に出かけた。駅では戦争難民委員会が準備をしており、人でごった返している。汽車が到着してプラットフォームに降り立ったベルギーたちは、オックスフォードの人々に歓待された。そんななかロッタ・グーセンスというベルギー人の女性は酷く心が傷付いている様子で、モードを抱擁してすすり泣いていた。一週間後、ベルギー人たちが出版局で働き始めた。ペギーの職場にも三人の女性が配属され、そのなかの一人はロッタだった。ペギーの班が三人を指導することになり、ペギーの同僚で幼友達のアギーとルーがそれぞれ一人ずつ受け持ち、ペギーとモードがロッタの担当になった。ところがロッタはモードとばかり仲良くなり、ペギーは疎外感を味わうようになる。そんなときティルダの手紙が届き、「奉仕活動に志願したら?」という助言が書かれていた。奉仕活動の登録所で出会い、一緒に働くことになったグウェンはペギーが憧れるサマーヴィル・カレッジの学生だった。奉仕活動で負傷した兵士に本を朗読することになったペギーの担当はベルギー人士官バスティアン・ピーターズだった。バスティアンの顔は酷くえぐれて無残な傷痕になっていたが、ペギーは回数を重ねるうちに慣れ、互いに好意を抱くようになる。二人一組の奉仕活動のパートナーであるグウェンは上流階級出身だが気取らない社交家で、ペギーが労働階級だと知っても態度は変わらなかった。そのうえ、おせっかいなほど親切なグウェンは、ペギーの向学心と夢を知って何とかしてサマーヴィルに入れようと画策する。ペギーは彼女の恵まれた立場を羨み反発しながらも、その厚意を受け入れて奨学金を得て進学するための受験勉強に励む。
※2023年初版
※作者は英国ロンドン生まれ、オーストラリア・シドニーで育つ。現在はアデレード在住。
※本書は、『小さなことばたちの辞書』の姉妹編。物語としての連続性はないが、さまざまに重なる部分がある。『小さなことばたちの辞書』の主人公エズメが市井の女性たちから拾い集めた言葉を、夫となる植字工ガレスが製本した『女性のことばとその意味』は、本書にも登場する。
ペギー、ペグズ、ペグ:マーガレットの愛称
モーディ:モードの愛称
ルー:ルイーズの愛称
アギー:アガサの愛称
グウェン:グウィネヴィアの愛称
フリック:フェリシティの愛称
ヴィー:ヴェラの愛称
エブ:エビネザーの愛称
ニッキー:ニコラの愛称
ミセス・ホッグはそばかすガエル(フロッグ)と、モードが言ったことがあって、それ以来許してもらえていなかった。
髪と顔を確かめに行った。両頬をつねり、棚から口紅を出す。(略)たぶん目のせいかもしれない。ぼかしたコール墨に映えてもっと深く、大きく見える。
ベルギー人たちを出版局に迎え入れはじめた。
「こちらはグドルン」
「グーディって呼んでいいかい?」
馬鹿娘たちが彼のジャケットの襟に白い羽根をピンで留めたのよ。すぐ外したけれど、見た人はずいぶんいました。実際、唾を吐きかけた奴もいたんですって。
白い羽根は、和平主義者や、戦争に無関心な人や、臆病者に向けられる武器のひとつです。
※当時、従軍しない男性に臆病者の印として渡された。
ベラム:仔牛皮紙
書名:小さなことばたちの辞書
原題:The Dictionary of Lost Words
作者:ピップ・ウィリアムズ(オーストラリア作家)
出版:小学館
内容:ヴィクトリア朝末期の英国で、「英語のすべてを記録する」ことを目的として『オックスフォード英語大辞典(ОED)』の編纂が行われていた。辞典編纂主幹ジェームズ・マレー博士のオックスフォードにある屋敷の裏庭に建つ小屋は「スクリプトリウム(写字室)」と呼ばれ、協力者たちが世界中から郵送してくる言葉のカードが保管されていた。1886年2月、スクリプトリウムで働く辞典編纂者のひとりハリー・ニコルの娘エズメは、早くに母を亡くしたため幼少期から父の職場で育つ。郵便物を仕分けする父の膝に座って読むことを覚えた幼いエズメは、あるとき暖炉の火に投げ込まれたカードを救おうと手を伸ばして大火傷を負う。もうすぐ4歳になるエズメの傷痕は生涯残った。エズメがもう少し大きくなると、スクリプトリウムの仕分け台の下に潜り込んで過ごすようになる。父ハリーがマレー博士と友人であり、母を亡くしたエズメの事情も周囲は知っていたので大目に見てくれていたのだ。あるとき机の下にいるエズメの膝の上にカードが舞い落ちてきた。「Bondmaid(ボンドメイド)」と書かれた言葉のカードを内緒でスクリプトリウムから持ち出したエズメは、マレー家の女中リジー・レスターに頼んで彼女のトランクに隠してもらった。8歳年上のリジーは孤児の少女で、ときどき子守りをするエズメを可愛がってくれているのだ。それ以降エズメはスクリプトリウムの辞典編纂者たちが床に落としたカードを拾っては、屋敷の屋根裏部屋に置かれたリジーのトランクに隠すようになる。1888年4月、英語辞典の第一巻『A AND B』が刊行され、お祝いのパーティーが催された。パーティー当日は、ちょうどエズメの6歳の誕生日でもあった。学校に入学したエズメは、手の火傷痕をからかわれるせいで周囲になじめなかった。授業が終われば迎えにくるリジーに連れられて帰り、エズメはスクリプトリウムで過ごす。しかし、新しくスクリプトリウムに入った助手クレインは、エズメが居ることを良く思わなかった。さらにエズメがカードを拾っていることに気付いたクレインは、「あの子は手癖が悪い」とマレー博士に伝えた。エズメは父親にポケットを改められ、隠し持っていたカードが見つかってしまう。それから数か月間、エズメはスクリプトリウムに近づかずかなかった。やがてエズメは思春期を迎える。1896年のクリスマスの翌週、14歳のエズメは名付け親であるイーディス・トンプソンの手配でスコットランドの女子寄宿学校に転校する。1898年4月、復活祭の休暇中に迎えにきた父親とともにエズメはオックスフォードに戻る。学校で教師に虐待されたエズメは心身を衰弱させており、転校したオックスフォード女子高等学校の試験を落第して退校してしまった。学校を辞めたエズメは編集者になりたいと考え、父親と相談してスクリプトリウムの助手になる。スクリプトリウムの仕事に携わるうち、エズメは男性の辞典編纂者たちに採録を却下された庶民や女性の言葉があることを知る。エズメは街に出て、読み書きにも苦労する市井の女性たちから言葉を集めるようになる。1906年5月、いつものようにカバード・マーケットで言葉を収集していたエズメは、女優のティルダ・テイラーと知り合い彼女が出演する公演に誘われる。実はティルダは女性参政権のために運動するサフラジェットで、親しくなったエズメを会合に参加させるが……。ことばの蒐集に生涯を捧げた女性の物語。
※2020年初版
※作者は英国ロンドン生まれ、オーストラリア・シドニーで育つ。現在はアデレード在住。
※本書は、史実と実在の人物を基にしたフィクションで、主人公エズメは架空の女性である。
※サフラジェット:英国の女性参政権団体「女性社会政治連合」のメンバー
エッシー、エッシーメイ、エズ:エズメの愛称
本当の名前はイーディスだったけれど、わたしが小さかった頃、それをうまく言えなかった。デンマークに行くと、おばさんはディータと呼ばれる。ディータのほうがスウィーター(可愛い)、と、その音の重なりが気に入ったわたしは考えた。
Lie child(ライ・チャイルド:嫡出でない子。庶子。ラブ・チャイルド(私生児)に同じ)
マレー夫人は、マレー博士がナイト(勲爵士)の称号を授与されたとき、デイムの称号を与えられた
バート、バーティー:アルバートの愛称
書名:降りていこう
原題:Let Us Descend
作者:ジェスミン・ウォード(アメリカ作家)
出版:作品社
内容:19世紀アメリカ南部。サウス・カロライナの農園で生まれ育った少女奴隷アニスは、月に一度、満月の夜に小屋の寝床から抜け出して、森の中で母サーシャと木の槍で戦う訓練をする。この秘密の特訓は祖母の「アザ母さん」から受け継いだ習慣だ。アザ母さんことアザグエニは、フォン族の王に嫁いで戦士として仕えていたという。ダホメ国王の大勢いる妻の一人だった祖母は、兵士と恋仲になった罪で奴隷船に乗せられ、売られた先でアニスの母親を産んだのだ。祖母の物語以外にも母親はフォン族の信仰した精霊の話もアニスに語り伝えた。実はアニスは生まれた時は母親が名づけた「アリーズ」という名前だったのだが、アニスの所有者であり、アニスの父親でもある白人農園主が今の名前を付けたのである。そのご主人はアニスが母親の背を越したと気付くと、「ジョージアマン」と呼ばれる白人の奴隷商人たちに母親を売り渡してしまう。娘との別れを悟った母親は、髪の毛の中に隠し持っていた象牙の錐をアニスの髪に挿す。その象牙の錐は、祖母が女戦士だった頃に狩猟で殺した象から得た物だった。母を失ったアニスは心を閉ざす。悲しむアニスの面倒をみたのは、同じ年頃の女奴隷サフィ。慰められるうちにアニスはサフィと親密な関係になる。屋敷で一緒に仕事をしていた時に、アニスは衝動的にサフィにキスをする。その現場をちょうど戸口に現われた主人に目撃された二人は、二日後の朝に現われたジョージアマンたちに売り飛ばされる。同じように売られた奴隷たちと共に縄で縛られたアニスとサフィは徒歩で南に向かわされる。その旅の途中で、ジョージアマンの不手際に乗じてサフィは逃亡する。逃げることが出来なかったアニスは、ニューオーリンズの奴隷市場を目指して歩き続けるしかない。そんなアニスの前に、彼女にしか見えない嵐の精霊が現れる。母に似た姿の精霊は「アザ」と名乗り……。
※2023年初版
※本書の題名『降りていこう』は、ダンテ『神曲』第一巻『地獄篇』より取られている。『神曲』では、35歳のダンテの前に現われた古代ローマの詩人ウェルギリウスは、ダンテの魂を救うために導き手となって地獄へと降りていく。対して本書の主人公は、奴隷商人に売り飛ばされ、黒人奴隷にとっての生き地獄である南部へと降りていく。さらに主人公の導き手として精霊が姿を現わす。
※主人公アニス/アリーズ(遅れてやってきた子ども、の意。作中では「ちょうどいいときにやってきた子ども」という一文がある)の祖母アザグエニ(象を檻に入れることはできない、の意)の出身地であるダホメ王国は、17世紀から19世紀にかけて西アフリカに実在した国家(現ベナン)であり、同国において女性のみの軍隊が活躍したのも史実である。奴隷貿易とパーム油生産で栄えたダホメ王国は、ヨーロッパ諸国による三角貿易の一端を担い、同国だけで数十万人とも言われる数の黒人奴隷をアメリカ大陸に送り出した。
書名:シナモンとガンパウダー
原題:Cinnamon and Gunpowder
作者:イーライ・ブラウン(アメリカ作家)
出版:創元推理文庫
内容:1819年8月、イギリスの料理人オーウェン・ウェッジウッドは、雇用主のラムジー卿に同行してイーストボーンに向かった。ラムジー卿の同僚が所有する海辺の別荘で催された晩餐会で腕を揮っていたウェッジウッドだが、その最中に海賊団に襲撃される。ラムジー卿が射殺されるところを目撃したウェッジウッドは、彼の料理を気に入った女船長ハンナ・マボットの指示で海賊船フライング・ローズ号に拉致されてしまう。女船長マボットから脅され、ウェッジウッドは身の安全のために週に一度、日曜日に彼女だけに極上の料理を作ることになる。食材も設備もお粗末極まる船で、ウェッジウッドは経験とひらめきを総動員して工夫を重ねる。ウェッジウッドは徐々に船での生活にも慣れていき、脱走の計画を練るようになる。ある夜ついに作戦を実行したウェッジウッドはドジを踏んでフライング・ローズ号から海に落ちてしまう。ひとり海を漂流するウェッジウッドを救ったのは、マボットが追跡している海賊船ディアステマ号だった。しかも船長ブラス・フォックスはマボットによく似た顔立ちのうえ、自分はラムジー卿の息子だと言うのだ。マボットへの伝言を託されたウェッジウッドは海に投げ捨てられ、追いかけてきたフライング・ローズ号に逆戻りすることになった。マボットに尋問されたウェッジウッドは、フォックスの話を伝える一方で彼女たちの過去の因縁を知る。どうやらラムジー卿が会長をしていたペンドルトン貿易会社は阿片で商売をしており、阿片を憎むマボットの襲撃を繰り返し受けた。そこでペンドルトン貿易会社は、フランス人天才科学者ラロッシュに最新兵器での攻撃を依頼しており、先の別荘襲撃は被害を受けたマボットの報復だったのだ。さらに海賊ブラス・フォックスがペンドルトン貿易会社に対して何事か企んでおり、それをマボットが追跡していること……。イギリスを離れた船はアフリカ沿岸からインド洋へと進み、中国を目指すが、たびたび敵対勢力との戦闘になり……。ウェッジウッドの日誌という形式で綴られる波乱万丈の海賊冒険&お料理小説。
※2013年初版
※ペンドルトン貿易会社のモデルは東インド会社。
ガンパウダー:火薬
マッド:いかれた、狂気
灰汁(あく)を用いた本格的な石鹸作り。炉床の白い灰をできるだけ選りわけ、黄麻布を数枚重ねたものに包んだ。この包みに一滴ずつ水を落とし、下の鍋に濁った灰汁をカップで数杯ぶん溜める。灰汁にラードを混ぜ、香りづけのために蜂蜜をほんの少し足した。石鹸はゆるくて瓶に入れておかねばならなかったが、なめらかで、たっぷりと泡が立つ。
大きな顔を縁取るのはマトンチョップ頬ひげ(もみあげとつなげたひげで下半分が広い)
クラバット:ネクタイの原形となったスカーフ
この船の飲料水は保存のために酒で割られている
ココナッツのなかの水は切り傷を洗えるくらい清潔
ラスカー:かつてヨーロッパの船で雇用されたインドや東南アジアの水兵・船員
シャイフ:アラブ社会の部族の長
カスティール石鹸:天然オイルを主体としたもの
焼き討ち船:爆発物などを積んで体当たり攻撃に及ぶ船
「ライオン(英国)とドラゴン(中国)のあいだで踊ってる」
書名:ふたつの心臓を持つ少女
原題:The Impossible Girl
作者:リディア・ケイン(アメリカ作家)
出版:竹書房文庫
内容:1830年のアメリカで、裕福なカッター家の令嬢エリザベスは中国人水夫との子供を妊娠する。ニューヨーク州ロングアイランドでひそかに出産した女の子コーラは、生後すぐに心臓がふたつあるとグリア医師に診断される。当時、珍しい特徴を持った人体が高値で売買されていた。エリザベスが出産で命を落とすと、エリザベスの従姉シャーロットは、コーラの身の安全のためにジェイコブ・リーという男の子として育てることにする。ジェイコブが14歳になるとシャーロットは引っ越しをして、改めてコーラ・リーとして淑女の教育をする。数年経ってシャーロットも亡くなり、コーラは生まれる前から仕えてくれているアイルランド人メイドのリアと暮らしている。1850年9月ニューヨーク州マンハッタン島で暮らすコーラは、シャーロットの恋人で彫刻家のアレグザンダーからの援助を断り、死体盗掘人となって稼いでいた。墓掘りの際は双子の兄『ジェイコブ』としてふるまい、二つの人格を使い分けている。ジェイコブは珍しい身体的特徴を持った死体や奇妙な死因で亡くなった遺体を専門にするが、それは自分が狙われたときにいち早く察知するためでもあった。あるとき、埋葬したばかりの棺を守る警備隊を買収するために墓地を訪れたコーラは、同じ目的で訪れたセオドア・フリントという青年と鉢合わせする。しかし、裏仕事のルールを知らないらしいセオドアではなく、コーラの方が番人との取引を成立させた。それでもセオドアは「きみを好きになった」とコーラに告げる。しかも、その後ジェイコブとして盗掘に出かけた先で部下たちとセオドアが一緒に待っていた。無料で働くと言うセオドアと一緒に仕事をした後、一行は彼の紹介先に死体を売ることにした。ところが、セオドアの正体は医学生で、買い手というのは彼自身のことだったのだ。腹を立てたジェイコブ(=コーラ)は、金を受け取ったあとで死体を放り投げて去った。その後もセオドアと仕事を共にすることになったコーラだが、彼女がマークしている人々が、自然死ではなく次々と殺害されていることに気付く。同時に、一度は消えかけた『ふたつの心臓を持つ女の子』の噂が街に広がり始めていた……。
※2018年初版
※作者はコロンビア大学とニューヨーク大学医学部を卒業して、内科医として働いている。
「コーラ?」
「Cor(コール)は、ラテン語で心臓という意味。それがこの子の本名よ」
榛色(はしばみいろ)の目は、明るい緑でも茶色でもなく、くすんだ中間の色をしていた
怒っているようだった。瞳の榛色は謎めいた色に変わり、本人の名前と同じフリント(火打ち石)のようだった
レティキュール:手さげ袋
コルセットを着け、バッスル(腰当て)で細いウエストを目立たせて、昼用ドレスを身にまとい、
名前はなんだった?シザーズ(はさみ)に似た響き。フランス語の――。
「スゼット?」
名前と――ジャック・ケッチとは、死刑執行人を意味する隠語だ。
デイヴィー・スウェル この名前は、公判での証人の紳士を意味する隠語だった。
「近所に住んでた男の子が、ストリキニーネで鼠を殺してたんだ」
ストリキニーネ中毒が破傷風とよく似た症状を示す
薬草茶 このお茶は、野良人参の実やら目草薄荷(めぐさはっか)やらを混ぜたものだった。苦くて刺激臭があるが、リアは一度も妊娠したことがなかった。
「わたしのソーン・イン・マイ・サイド(わき腹の棘:『悩みの種』を意味する成句)」
「グッド・モーニング(おはようございます)」
「グッド・モーニング(いい朝)とはいえない。少しもな」
獣脂蠟燭
薬屋へ歩いていった。
ムミア、つまりエジプトのミイラの粉末で、苦くて土臭いにおいがする薬。容器のふたに空気穴がある蛭。アロエ、ホミカ(ストリキニーネを含むマチン科高木の種子で苦味健胃薬)。
カウンターの後ろに立つ薬剤師に処方箋を渡した。薬剤師がせわしく薬を計量し、紙袋に、ベラドンナ・チンキの小さな瓶と、阿片チンキの瓶を加え、包みを手渡した。
「ジギタリスと山査子(さんざし)と立浪草(たつなみそう)は、脈を遅くするはず。阿片チンキは、鎮静させて呼吸をゆるやかにする。そしてベラドンナ・チンキは、目にさしてね。阿片は瞳孔を収縮させるんだけど、その作用を中和して、逆に瞳孔を大きくするの」
「死んだばかりの人の瞳孔は、すごく大きくなるからよ」
瘧(おこり:マラリアなどの熱病)みたいな病気
トム:トマスの愛称
パリスグリーン(花緑青)は、19世紀を通じて、美しいエメラルドグリーンの塗料として利用されていた。シェーレグリーンともエメラルドグリーンとも呼ばれるが、パリで鼠を殺すのに役立ったので、パリスグリーンという名前がついた。猛毒なのは、ヒ素を含んでいるからだ。パリスグリーンは、壁紙の塗料としても使われ、そういう環境で暮らしていた人々を病気にしたに違いない。
書名:影王の都 The Paradise of Darklord
作者:羽角 曜(はすみよう)
出版:創元推理文庫
内容:村はずれに一人住む16歳の美しい少女リアノ。四年前に両親が相次いで亡くなり、村の暮らしに嫌気がさしていた兄のガレルーンは夢を追って家を出ていった。もともと他所からきた父親が予言者であったために村人から疎まれていたせいで、一人残されたリアノは孤独な暮らしを送っていた。ある冬の夜、家の戸口に髑髏が落ちてきた。驚いたことに髑髏はしゃべり、リアノが生まれた時に握っていた滴形の水晶に惹かれて此処に来たという。髑髏はこのまま村にリアノが一人で居るのは良くない広い世界に出るべきだと言い、図々しくも自分を砂漠に連れていって欲しいと求めた。髑髏に指摘され、改めて村で暮らし続けても行き詰まることを悟ったリアノは好奇心から旅立つ。しゃべる髑髏に助言されながらの奇妙な道行きの途中で泊まった宿屋で、リアノは精霊から「愛から生じた呪いをかけられている」と警告される。せっかく精霊に忠告されても意味の解らないまま旅を続けるリアノは、ある街の側で野宿することになった。夜中、人の気配で目覚めたリアノは、フィンミリオと名乗る美男の魔法使いに出会う。フィンミリオは此処は貴族の館の廃墟で、自分の生家だったと言い、昔の幻をリアノに見せる。そして、館の失われた彫像とリアノが似ていると言い、彼女に魔女の素質があると指摘する。今は砂漠で暮らしているというフィンミリオは、強引にリアノを攫う。あとに残された髑髏は雪原でリアノを呼び続ける……。一方、砂漠には神の怒りで永遠に砂漠を彷徨う運命となった伝説の都があり、その呪われた『影の都』を統べる『影王』の存在が知られていた。砂漠に近い街に住む富豪の娘イーラは17歳の美しい娘だが、「実母に呪われた娘」として周囲から疎まれていた。そのイーラの元に赤い小鳥が飛んできて影王からの呼び出しを告げる。影王の招きを断れば災いが降りかかると言われており、イーラは馬車で運ばれて都の大門の前に一人残された。影の都に入ったイーラは、美しい音色に引き寄せられてたどり着いた部屋で美しい少年に出会う。旅芸人の一座の中で育った17歳の少年ヴィワンは、自分も影王に呼ばれてやって来たという。ヴィワンは「死者から生まれた男」だという。影王は何故二人を呼んだのか?影王とは何者なのか?捻じれた運命の糸に搦め捕られるリアノ、ガレルーン、イーラ、ヴィワンは……。
※本書は、2015年第一回創元ファンタジイ新人賞選考委員特別賞受賞作『砂の歌 影の聖域』を、刊行にあたり作品名を変更した。
病葉(わらくば)
書名:金庫破りとスパイの鍵
原題:The Key To Deceit
作者:アシュリー・ウィーヴァー(アメリカ作家)
出版:創元推理文庫
内容:英国ロンドン、1940年8月31日、エリーことエレクトラ・ニール・マクドネルが錠前師の仕事から帰宅すると、陸軍少佐ゲイブリエル・ラムゼイが待っていた。ミックおじに仕事を頼むために来たと少佐は説明するが、伯父はヨークシャーに出かけており留守だった。それならエリーの帰りを待つようにと、マクドネル家の家政婦ネイシーが勧めたという。長年家政婦として働くネイシーことナンシー・ディーンは、マクドネル家の遠縁で、エリーと従兄たちの母親代わりの存在だ。ネイシーとミックおじは、エリーと少佐が恋仲になることを期待しているようだ。情報部の仕事をしているラムゼイ少佐によると、昨夜テムズ川で若い女性の死体が発見され、その手首には錠のかかったブレスレットのような装置を着けていたという。政府公用車で少佐と病院に向かったエリーは、死体安置所で検死前の女性の遺体と対面する。身元不明だという女性が着ていた衣服は百貨店で購入したばかりらしい流行の高価な品で、クロテンの毛皮は職業婦人の一年分の給与くらいの値段がする。エリーは店に問い合わせて購入者を調べるようにと言い、さらに遺体のカットしたばかりらしいヘアスタイルと爪のマニキュアも指摘した。それから、依頼された遺体の手首のブレスレットはゴールドの分厚いカフ状のもので、鍵がなければ開かないように小さな錠がついていたうえに、懐中時計くらいの大きさがあるカメオがついていた。どうやらロケットになっているようで、壺を持ったギリシア風の女性が彫られたカメオの脇にも小さな鍵穴があった。古いものをつなぎ合わせて新しく作ったらしいブレスレットの錠をエリーは解錠し、次にロケットの錠も解錠する。エリーがロケットの中身を確認する前に少佐が回収し、彼女はすぐに車で帰される。事件の結末を知らずに終わることを不満に思いつつエリーが日常生活に戻って二日目の夜、幼馴染みで筆跡贋造師(がんぞうし)のフェリックス・レイシーが電話をかけてきた。フェリックスとエリーは友達以上恋人未満の微妙な関係にある。フェリックスによると、海軍にいた頃の同僚で、冤罪で死んだエリーの母親の無実を証言できる女性の息子から手紙の返事を受け取ったという。その件で話し合うために、二人は明日の夜八時に食事を約束する。しかし、翌日の朝にラムゼイ少佐に呼び出されたエリーは、先日の女性が溺死ではなく毒殺だったと聞かされる。そして、カフブレスレットがカメラだったこと、殺された女性はスパイだったと教えられる。エリーの助言にしたがって遺留品の衣服を精査したという少佐は、毛皮のコートの裏地に隠されていたという宝石と小さな真鍮の鍵を見せる。鍵はアンティークの炉棚時計の巻き鍵らしかった。この巻き鍵がどの時計のものか特定するのは無理だとエリーが告げると、少佐は不機嫌になり、盗品の宝石を売買するロンドン市内の故買屋の情報がほしいと言う。エリーは裏稼業の仲間を売ることはできないと渋るが、ラムゼイ少佐は自分は警察ではないと言い国家の安全のために協力を要請する。エリーは仕方なく女スパイを殺したドイツ側の人間を捕まえるために少佐と行動を共にするが……。
※2021年初版
※作者はルイジアナ州オークデール在住。14歳のときから図書館で働いているという大の本好きで、ルイジアナ州立大学で図書館情報学の修士号を取得し、現在はルイジアナ州アレン郡図書館で図書館員をしている。
「愛する故人の髪の毛なんかを入れていた、ヴィクトリア朝時代のモーニング(服喪)ブローチ」
「前にドイツと戦争したときのトレンチ(塹壕)ケーキ(かぎられた材料で作る日持ちするケーキ。戦場の家族や恋人に送られた)のレシピを見つけてね」
「ごめん、ラブ」
「ええ」
「じゃあ、明日、スウィート」
ひなを数えるのは卵からかえってからにしろ:捕らぬ狸の皮算用の意
ムッシュー・ラフルールは優雅な物腰でわたしの手を取ってそこにお辞儀をした。
「すてきだよ、シェリ(かわいい人」
「スーティ・スマイスの店」
「『スーティ(煤まみれ)』?」
「そう呼ばれているのよ。若いころ、煙突掃除仕事をしていて、いつも煤にまみれていたから」
「やあ、ラブリー(美人くん)」