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kanoneimaのブログ

私的備忘録

書名:後宮の検屍女官6
作者:小野はるか
出版:角川文庫
内容:新年を迎えて十日が過ぎた朝、後宮で厳しい冷え込みが原因の凍死が多数起きた。掖廷署(えきていしょ)は凍死体への対応に追われ、掖廷令・孫延明(そんえんめい)も忙しくしていた。掖廷の老検屍官・八兆(はっちょう)と正式な掖廷署の官吏となった少年宦官・華允(かいん)から報告を受けていると、皇太子に仕える東宮宦官がやって来た。掖廷から呼び出された延明は、禁中で太子に拝謁する。大光(だいこう)帝国の皇太子・劉盤(りゅうばん)は人払いを命じると、延明に巻子(かんす)を渡す。ひと月ほど前、河西(かせい)の名士・董(とう)氏に調べものを依頼していた返書らしい。敵対派閥の宦官に中を検分されずに文書を内廷に持ち込むためだと太子は説明するが、私信を太子に運んでもらった延明は恐縮して巻子を押し戴いた。孫家を陥れた事件の関係者の一族を調べていると知った太子は、延明が仇を討つのかを気にする。延明の亡父は太子の教育係であったのだ。延明は仇討ち目的ではないと、太子の誤解をとくために偽りの説明をする。北に優秀な検屍官が居るというので招いて講義をしてもらおうと考えたが、仇と同姓なので同族かと思い調べを頼んだと。延明の信頼する検屍女官・姫桃花(きとうか)の父方祖父・羊角慈(ようかくじ)は、すでに鬼籍の人であると知っている。延明の祖父を陥れた検屍官の名は、羊角莽(ようかくもう)。桃花の話によれば、彼女の父は清廉であった祖父とは真逆の検屍官で、自分の父を殺し、金銭目当てに娘を売り払ったというような人物だ。だから桃花の父が羊角莽なのかどうか確認したくて、延明は調査を依頼したのだ。すべてを語ることは出来ないので、延明の検屍術への傾倒を知っている太子に、「『無冤術(むえんじゅつ)』が行き渡れば、偽りの検屍によって利益を得る羊角莽のような者を根絶やしにできます。これ以上の復讐はありません」と述べて御前を辞した。掖廷署へ戻る途中、延明は人目が無いことを確認してから巻子の封泥をはがした。やはり延明の仇は桃花の父だった。董氏の調べによれば、桃花の祖父・慈は七年前に卒中死。慈の死後、桃花は事故死、と記録上はなっている。父・莽は妻と離縁。直後、京師(みやこ)に転籍。孫家の冤罪にたずさわったのは、その翌年のことだ。冊書を読んだ延明は怒りに燃えるが、莽は既に処刑されている。なぜか延明は桃花に会いたくなったが、同時に会うのが恐くなる。仇の娘である桃花に会って、見る目が変わってしまったら……。掖廷署では、厳冬対策として皇后が麻を後宮女官に下賜なさる、という事前情報がもたらされ慌ただしくなっていた。延明が配布する布の計算に頭を悩ませていると、急報が届く。後宮二区の安処殿(あんしょでん)に住まう帝の伯母・珍嶺大長公主(ちんりょうだいちょうこうしゅ)が薨去されたらしい。大長公主は皇后派の要人で、大きな手札を有していた。手札の確保を延明が考えていると、太医署(たいいしょ)の少年医官がやってくる。安処殿から迎えに来たという太医薬丞(やくじょう)の扁若(へんじゃく)は、中級宦官で使い走りをするような階級ではない。検屍の依頼かと延明が確認すると、太医署の判断は『衰弱死』で、不審死ではないという。しかし、扁若個人は死因は別だと考え、検屍官・老猫をよこせと言う。すぐには呼べない老猫の代わりに検屍官・八兆を手配すると、延明は華允を連れて安処殿の建つ二区の中央へ向かう。移動しながら扁若に事の経緯を聞くと、食事時の鐘が鳴ったばかり(朝七時から八時前ごろ)に、太医署に急報があった。齢(よわい)六十五を数え、弱ってきた大長公主のために常駐していた医官のひとりが、臥室(しんしつ)で公主が冷たくなっていたと報告してきたのだ。扁若らが調べたところ、大長公主は亡くなっており、綿掛(わたが)けをかけていない状態で、死後硬直がはじまっていたという。冬なのに衾(ふとん)をかけていないのはおかしいと延明が指摘すると、扁若が見たとき綿掛けは臥牀(ねどこ)のわきに落ちており、火鉢の火も消えていたと答える。大長公主は微熱があったので、火が消えたせいで臥室が冷え、体調が悪化して亡くなったのだと太医署は考えている。微熱なのに、太医署は『衰弱死』の判断なのかと確認すると、扁若はそのほうが処分される医官の数が少なくなるからだと答える。延明が亡くなる直前の大長公主の病状を確認すると、侍女の介助がなければ生活もままならない程度には衰えていたが、微熱ていどで亡くなるほど弱っていたとは思えないという。ただ高齢なので判断が難しいと言いつつ、扁若は「老猫なら、あれを病死や衰弱死だなんて言わない」と答えた。八兆と合流して安処殿に到着すると、常駐している医官三名に出迎えられ、大長公主の臥室に案内される。室内はひどく寒く、既に遺体は整えられていた。検屍のために遺体を屋外に運ぶと、待機しているはずの女官が駆けつけてきた。大長公主が子供のころより仕えている老侍女・金鈴(きんれい)と銀鈴(ぎんれい)は遺体に化粧をしたいと言い出すが、延明は葬儀礼を行なうのではないと断る。それでも老侍女たちが「魂よばい」という儀礼を行なうことは許可する。八兆による検屍が始まり、大長公主の顔を覆っていた白布を取り去ると、皺とともに数多の痘痕(あばた)がきざまれていた。大長公主が降下せずに後宮に留まり続けた理由がここにある。延明も手伝って着衣を脱がせ、遺体を裏返すと背に鮮紅色の死斑(しはん)があらわれていた。華允が「芙蓉色の血色。凍死の所見じゃないですか!」と叫ぶと、扁若はいぶかしんで声をあげる。「鮮やかな色合いの死斑は、石炭や木炭による中毒死だと老猫が言っていたけれど?」その言葉を聞いて、扁若は部下を守るために延明たちを呼んだのだと納得する。衰弱死や病死であれば担当医官は処分されるが、検屍によって炭による中毒死と鑑定されれば、医官は処分されない。延明は「炭毒による中毒死と凍死は同様の死斑の色味をていする」と、扁若に説明する。連日運ばれてくる凍死体は、婢女などの暖をとれない身分だから炭で中毒死することはないと判断できる。だが、大長公主の場合は生前に火鉢の火が消えていたのかどうかで判断が分かれる。さらに検屍を行なっている八兆が「ご遺体の口から酒の匂いがいたしまする」と報告する。酒は体温の調節を阻害し、凍死の可能性を高める。はたしてこれは、凍死か、炭毒の中毒死か……。一方、公式には蒼(そう)皇子に仕える侍女である姫桃花は、皇子の住まう中宮の孺子堂(じゅしどう)で働いていた。十歳の蒼皇子は生母を亡くして皇后に引き取られたのだが、反皇后派の宦官である魚中常侍(ぎょちゅうじょうじ)が自派閥に取り込もうと働きかけているようで油断できない毎日だ。風邪をひいた同僚の才里に代わり、皇后の宴に招待された蒼皇子のお供をした桃花は、静かすぎる椒房殿(しょうぼうでん)の様子に違和感を覚える。殿舎に面する院子(にわ)で立ち止まり、確認しようとしていたところ、二人の妃嬪が階(きざはし)をおりて近づいてくる。二人は蒼皇子の前までやってくると挨拶する。新しく入内した側室の虞美人と蔡美人である。どちらも皇后派だ。蒼皇子が「楽の音がきこえませんが、なにごとかあったのでしょうか?」と尋ねると、「大長公主さまが薨去された」と教えられた。それでは宴は中止だと、蒼皇子は戻ろうとした。それを呼び止めた虞美人が、自分が飼っている鶏が産んだ卵を蒼皇子に贈る。すると、蔡美人が自分のところに居る腕利きの庖人(りょうりにん)に調理させようと申し出る。公平な対応をするために申し出を受けることにした蒼皇子は……。後宮の疑惑と謎を検屍術で解き明かす中華風後宮検屍ミステリ。

歳首、すなわち正月(いちがつ)だ。

『百世と雖(いえ)ども可なり』
たとえ百代先の子孫となっても復讐の義務はなくならない
子、讎(あだ)に報いざれば子に非(あら)ず。親の仇を討たぬはひとにあらずという。

『公主』とは帝の娘、『長公主』とは帝の姉妹、そして『大長公主』とは帝のおばにあたえられる号である。
珍嶺(ちんりょう)大長公主の珍嶺は、名ではなく湯沐邑(ゆのむら)の地名である。湯沐邑は化粧領(けしょうりょう)ともいい、ここからの税収がすなわち収入となっている。

階を備えた高い基壇の上に構えられた殿舎、天に反りあがるような屋根。それを支えるのは丹(に)塗りの柱、柱と柱の間に渡された虹梁(こうりょう)

正房(おもや)のなか、中堂(ひろま)の東となりにつくられた臥室は、絹張りの折れ戸にて締め切られていた。
臥室に隣接する控えの間にて不寝番

幄(あく)とは、四本の柱で屋根を支える天幕のようなものだ。屋外の宴などで使用されるものだが、四方には緞子(どんす)の帳(とばり)が垂らされており(略)

おなじ女であっても官婢は含まれない。奴婢(ぬひ)とは几(つくえ)や筆などと等しく財産(もの)である。宦官も同様である。
老太(ラオタイ)とは女官につける尊称
後宮の女にはみな階級があり、序列はすべて階級によって決定されている。側室位のほか、五官から家人子までの女官位が存在し、全員がいずれかの階級を賜っている。
階級だけでなく、『長幼の序』を尊重してくれた。年長者を尊ぶ道徳である。

若い娘のように頭上でふたつ輪にした飛仙髻(ひせんけい)は、義髻(かつら)である

魂よばいは、死者からぬけ出た魂に呼びかけるもので、重要な儀礼である。
喪に服するには官職を返上せねばならず、職にしがみつけば不孝者のそしりをうける。

袴(こ)とは襠(まち)がなく脚だけを覆うもので、やや古めかしい形式のはかまである。
襪:たび

母以子貴:母は子を以て貴し――殿下が貴きことが、生母である婕妤さまのご身分を死後もお守りしている

「宮城を警備する職には三職あります。宮城のもっとも外側、殿外の門署をつかさどるのが『衛尉(えいい)』。それよりうち、殿門から殿下までの郎署をつかさどるのが『光禄勲(こうろくくん)』。そして禁門とそのうちにある鈎盾署(こうじゅんしょ)をつかさどるのが『少府(しょうふ)』いずれも秩石(ちつせき)中二千石にして、爵位は卿(けい)を有する職です」
「九卿のうち三卿によって三重に守られているってことですね」
「ただこのうち、もっとも最奥を護る少府は宦官がおもに勤めております」

豬厠(ちょそく)は豚小屋のうえに厠をつくり、人糞を餌とする仕組みとなった厠のことだ。衛生的で臭いがすくなく済む。
これが苦手で、甕(かめ)式の厠まで行った。汲み取りをする厠である。

松仁(まつのみ)や胡桃、蓮肉(はすのみ)や乾柿(ほしがき)、枸杞(くこ)、栗、銀杏(いちょう)、榛仁(はしばみ)という薬効高い八種の実

物品庫は漆喰塗りの壁で、突き上げ窓は、ひっぱって窓蓋をあげれば、内側には粗いすだれが貼られてあった。防虫のためだろう。このすだれには透光性があり、外が明るいときはなかをのぞくのは難しいが、逆に外が暗くてなかが明るければ、隙間からあるていど内部をうかがうことができそうだった。
 

書名:平和を愛したスパイ
原題:The Spy in the Ointment
作者:ドナルド・E・ウェストレイク(アメリカ作家)
出版:論創社
内容:1964年4月、冷戦下のアメリカ・ニューヨーク。ジーンことJ・ユージーン・ラクスフォードは、マンハッタンのアパートで暮らす32歳の独身男性。ジーンが自宅で謄写版の手回し印刷機の修理に悪戦苦闘していると、骨董商の名刺を持った男が訪ねて来る。エドワード朝風のおしゃれな服装をした地中海人種らしい男はモーティマー・ユースタリーと名乗り、幾つもの組織の名前を挙げて演説を打つ。ジーンが代表を務める〈市民独立連合〉を含む11の組織は、イデオロギーから目的まで全てバラバラだが、一つだけ共通点があるという。それは目標を達成する手段は一致するテロ組織であること。故に手を組むことが可能なはずだとユースタリーは言い、最終的な目標は異なっても、現体制を打破するために今だけ仲間になろうと提案する。今夜零時にブロードウェイにある「変人会館」で集会を行うから来てほしいとジーンを誘い、会合の合言葉「グリーンスリーヴズ」を伝えてユースタリーは去った。話の途中でユースタリーの誤解を解こうとして出来なかったジーンは途方に暮れる。〈市民独立連合〉はテロ組織どころか平和主義者の団体である。1952年にニューヨーク市立大学の学部学生たちが、朝鮮戦争に大学生を徴兵するなと抗議したのが始まりだ。当初は反戦主義を志向していた組織は、朝鮮戦争が終戦に近づき目的がなくなると、一部の過激な平和主義者が主流になった。創立時は千四百名いたメンバーも年々減って現在は十七名。うち十二名は幽霊会員で、会費を納めているのはたった二名。しかもジーンが平和団体と勘違いして接触した〈非暴力と武装解除を求める学生連合〉が実は共産主義組織の偽装であり、北アフリカの国家転覆に絡んでいたことから、FBIの「監視すべき危険組織」リストに〈市独連〉まで載せられてしまったのだ。という訳でユースタリーが去ってから一時間後、二人のFBI捜査官がやってきた。FBI捜査官は名乗らないので、ジーンは勝手にアルファベットで呼ぶことにしている。ジーンの部屋に盗聴器を仕掛けて監視しているFBIはユースタリーの来訪を知っており、彼の用件を知りたがる。ジーンは正直に「〈市独連〉をテロ組織と間違えて来た」と告げる。Aが「あんたたちは平和主義者の良心的兵役拒否者だろ」と確認し、ジーンは肯定した。すると、「ユースタリーは〈世界市民独立連合〉に用があったのか?」とAが漏らした。そこへ、ジーンの恋人で同じ平和主義者のアンジェラが訪ねてくる。金髪碧眼の美女で金持ちのお嬢様アンジェラは、大卒で車の運転も出来るのにおバカさんなところがある。Bがフルネームを尋ね、彼女が「アンジェラ・ユーラリア・リディア・テン=アイク」と答えると、BはAと顔を見合わせた。アンジェラの父親であるマーセラス・テン=アイクは実業家で、有名な兵器製造業者でもある。それでFBI本部は、マーセラスの娘の扱いに特定の指示を出していた。そういうことで、AとBは帰っていった。ジーンが一部始終を話して聞かせると、アンジェラはユースタリーの企みを止めるべきだと言い出す。ジーンがFBIに話したと答えると、「それだけじゃだめ」とアンジェラは食い下がった。そのとき、玄関でベルが鳴った。来客はユダヤ系弁護士のマレー・ケッセルバーグだった。ジーンとマレーは同い年で、ジーンが退学処分になったニューヨーク市立大学の学部生だった頃に知り合い友人になった。マレーは〈市独連〉に入会していないが、運営に助言してくれている。今日は税金の書類にサインをもらうために来たという。アンジェラにせっつかれたジーンが相談すると、マレーは「集会に欠席したら、内部情報を握ってる部外者になるジーンは殺される」と指摘した。マレーは通報するようにアドバイスし、FBIが口にした組織「世界市民独立連合」について調べて五時半に戻ると約束して帰った。ジーンは電話の受話器を取って、アパートメントの地下室で盗聴しているFBI捜査官Cに、「テロ計画があるので通報したい。FBIを寄越してくれ」と語りかけて電話を切った。三十分後、FBIの捜査官にしては若造のDがやって来た。ジーンがユースタリーの件を持ち出すと、Dは「こちらでユースタリー氏に確認したところ、印刷機の補給品のセールスマンだった」と答え、ジーンとマレーのいたずらで呼び出されたと判断して出て行った。戻ってきたマレーがFBIの見解を知ると、ジーンに集会に出てFBIへ提出できる証拠を入手しろと勧める。マレーは例の〈世界市民独立連合〉を調べたと言い、ジーンたちに説明する。〈世界市民独立連合〉は国際協調主義者で、あらゆる国境やいかなる種類の旅行制限にも反対している。その意思表明として、国境にある税関をいくつか爆破した。しかし、組織本部の集会で爆弾を誤爆させて全滅したので、もはや現存していない組織だ。なのに四、五年前に検事当局が公表したリストに誤植があり、〈世界市民独立連合〉の項目から〈世界〉の文字が抜けてしまったせいで、ユースタリーは接触したいテロリストとジーンを間違ってしまったのだろう。マレーの話を聞いたアンジェラは集会に出る案に賛成し、自分もジーンと一緒に出席すると言い出す。零時十五分前、アンジェラの運転するベンツのコンバーティブルで集会に向かっていたジーンは困惑する。ジーンを尾行していたFBI捜査官二人組E・Fと交代したG・Hが居なくなったのだ。二人はGとHを待ってみたが、集会に遅刻しそうなので諦めて移動する。変人会館に到着した二人は、合言葉を言い怪物男ロボの身体検査を受け、ようやく中に入る。どうやら二人が最後の参加者だったらしく、全員が席に着くと、ユースタリーが演壇の前に立って口を開く。「〈新たなる始まり連盟〉の組織集会にようこそ」ユースタリーは出席者にそれぞれの組織を紹介するように言い、順番に立ち上がって話し始める。ところがユダヤ人の団体がいるかと思えばファシストの団体もいるし、白人労働者を支持する団体がいれば黒人を支持する団体もいるという具合で、スローガンを掲げるたびに参加者同士で揉める。ついに痺れを切らせたユースタリーが秩序を維持するためと称して怪物男ロボを呼び寄せ、出席者たちを威圧させる。これでスムーズに進行するかと思いきや、共産主義者と同盟など出来ないと言い出した参加者ストーンライト氏が「この企てについて、しかるべき筋に報告する」と宣言した。即座にストーンライト氏はロボに捕まって暴行され、クロークに監禁されてしまった。後で始末するとユースタリーが告げても、出席者たちは驚きも恐がりもしない。ジーンは自分の立場を考えてぞっとする。ようやく全員の組織が紹介されると、ユースタリーが戦術家で警備部門のエキスパートを呼ぶ。演台の右手のドアから出てきて「レオン・アイク」と紹介された男は、なんとアンジェラの兄であるタイロン・テン=アイクだった。タイロンは父親マーセラスに逆らって、1954年に北朝鮮で竹のカーテンの向こうに消えて共産中国に入った男だ。妹を苛めただけでなく、動物を虐待し、使用人に暴力を振るっていたというタイロンに、アンジェラは激しく怯える。タイロンは大型のイーゼルに図表を載せ、同盟の目標と計画を話しはじめる。「中国の仕業に見せかけて国際連合の建物を爆破する」とタイロンが説明したところで、パニックと焦りで挙動不審のアンジェラが、右ひじを隣の空いていた折りたたみ椅子にぶつけ、椅子は音を立てながら次々とドミノ倒しになっていった。酷い騒音が起きた後、アンジェラに気付いたタイロンが声を張り上げた。「アンジェラ、平和主義者のクソ女!」捕まえようとするロボをかわし、アンジェラとジーンは逃げ出す。雨降りで人影のない夜道を走って車に戻ると、後部座席に二人の男がいた。悲鳴をあげるアンジェラに、「FBIだよ」と言ってジーンが宥める。アンジェラの運転する車の中で捜査官IとJに一部始終を説明したジーンは、アパートメントの自室を家捜しいていたKにも説明を繰り返すと、五番街にある図書館付近のオフィスビルに連れて行かれた。ここで又もやL・М・N・О・Pに説明した。PがFBI捜査官たちのボスらしく、合図するとОが書類を出して集会出席者たちの経歴を読み上げる。ジーン以外は本物のテロリストだ。そして、Pは「有事の際に自分の役割を果たすのは市民ひとりひとりの義務である」と言い出し、ジーンは「僕は平和主義者だ」と主張する。協力しないならばジーンに対するFBIの監視を解くので、一人でタイロンたちに対峙するようにとPに告げられる。結局、ジーンはPと取引することになる。ジーンは潜入スパイになるように依頼される。〈新たなる始まり連盟〉の一員になり、内部で動向を偵察して報告しろというのだ。すでに部外者だとバレているとジーンが意見すると、Pは「ジーンがテン=アイク嬢を殺したと情報工作する」と説明する。向こう五日間、新聞にテン=アイク嬢の失踪と捜索の内容が掲載される。最後に目撃されたときに同行していたのは悪名高きテロリストである〈市民独立連合〉の代表者で、仕上げにテン=アイク嬢の他殺死体が発見された記事を出すというのだ。そのうえで〈新たなる始まり連盟〉にコンタクトを取り、集会から駆け出したのはスパイだと判明したアンジェラを捕まえて処分するためだったと弁解すれば良いという。ジーンは「コードネームQ」として、作戦の下準備が済む五日後まで、スパイの短期養成訓練を受ける。訓練を終えたジーンは、連絡用の応答装置がついた時計や送受信機が仕込まれた靴、盗聴器、燃やせば煙幕が出るネクタイ、クレジットカードに偽装した爆弾など様々な装備を身に着けて施設を出た。だが、最初に連れて行かれた〈新たなる始まり連盟〉の隠れ家でジーンは靴を脱がざるをえない状況になる。FBIと連絡不能になってしまったジーンは……。クライムコメディ小説。
※原書初版1966年
※ドナルド・エドウィン・ウェストレイクは1933年にアメリカ・ニューヨーク市ブルックリン区で生まれ、2008年没。ウェストレイクは幾つものペンネームを持っていた作家で、別名義はリチャード・スターク、タッカー・コウ、ティモシー・J・カルヴァー、サミュエル・ホルト。
※『訳者あとがき』によると、「原題のThe Spy in the Ointmentは、英語の表現fly in the ointment(軟膏の中の蠅)の語呂合わせだと思われるとのこと。旧約聖書の一節に「死んだ蠅は軟膏を臭くして腐らせる」とあり、それが「完全なものをぶち壊しにする人やもの、玉に瑕」を意味する表現になった。すると、The Spy in the Ointmentは、完璧な組織さえぶっ壊すスパイ、といったところ」とある。

※竹のカーテン:第二次世界大戦後、中国と西側諸国とのあいだにできた政治的・軍事的障壁を指す
 

書名:後宮の検屍女官5
作者:小野はるか
出版:角川文庫
内容:立冬の朝を、生まれ育った孫家の四合院で迎えた孫延明(そんえんめい)。立秋の日に皇帝の寵妃・梅婕妤(ばいしょうよ)が殺害された巫蠱(ふこ)事件の際、投獄されたあげく毒殺されかかった延明は、回復して職務に復帰した後もたびたび体調を崩した。そんななか、帝から「たまには帰郷し家廟(かびょう)に参れ」というお言葉を賜る。しぶしぶ京師(みやこ)を離れ、延明は五年ぶりに帰郷していたのだ。冤罪で腐刑をうけて跡継ぎをのぞめない身体となった延明は、血統の絶える孫家の家廟に対する罪悪感がある。もはや此処は自分の居場所ではないと感じていた。ひと月もの長い休暇を過ごした延明は、今日ここを出発する。ふと延明は、旅行の荷物のわきに冊書(さつしょ)が一巻置かれてあることに気付く。閉じ紐をほどいて木簡に目を通すと、殺しの顛末(てんまつ)書であった。延明の祖父が大罪に問われるきっかけとなった殺人について、詳細を書き連ねた資料だった。孫家に長く使える老奴僕(ぬぼく)の丁(てい)が、冤罪であると信じて事件の情報を集めて清書したものだという。いつか延明が仇討ちする時に必要だろうと用意したが、これを届ける前に冤罪が晴れ、関係者は処罰を受けて死んだ。丁の孫は、不要になった冊書を捨てるに忍びなかったと述べる。延明が冊書を荷のなかにしまい、京師に向けて発とうとしたした時、来客が告げられた。孫家を訪(おとな)ったのは、延明の主にしてこの大光(だいこう)帝国の皇太子・劉盤(りゅうばん)だった。行啓(ぎょうけい)中の太子は、京師に近い邑(むら)・水望(すいぼう)への供を延明に命じる。水望は梅婕妤殺害事件の際に、「太子に横暴をはたらかれた」と誣告した土地だ。おかげで蟄居を命じられた太子は、事件のあいだ動きを封じられたのだ。事件の主犯とつながっていた者はすべて処刑された。その件とは関係なく、不作だった国土を慰撫するために、太子は各地を回っているという。延明は使用人たちに別れを告げると、太子が乗った宝駕のわきに侍って出発する。その日は水望邑(すいぼうむら)近くの置(えき)にて宿泊することになった。延明のことを宦官となる前の名で呼ぶ太子は、眠る前に話がしたいと言い、「私を恨んでいるか?」と問うた。五年前、唯一の友「孫利伯(そんりはく)」を失うのを恐れた太子が助命嘆願した為、極刑であった延明は宦官として生きることになった。望まざる延命であったが、「恨みは過去のこと」と延明は答える。「私はいま、世から冤罪をなくすという天命を得ました」と述べた延明は、太子に命を救われた礼を言って揖礼(ゆうれい)をささげた。主従で酒を酌み交わした翌朝、道中の違和感を覚えながらも、太子の行列は水望邑に到着する。ところが、邑に穢れがあった所為で迎え入れられないと邑人が低頭した。けさ死体が見つかり、検屍官の到着を待っているところだという。太子は穢れを避けて帰京する選択をしても良かったが、延明の天命の話を持ちだし、宮廷外の検屍を目にする機会だと言って滞在を決めた。そして、死体発見現場に向かう延明に、儀仗(ぎじょう)兵に変装した太子がついてくる。邑を囲む城壁の北門から出た先にある畑で見つかった死体は、夏まで邑を任されていた計(けい)家の当主・計雲回(けいうんかい)である。先代の当主である雲回の父親は、巫蠱事件の主犯に加担したことで死罪になっていた。本来であれば邑全体が罪に問われるところであるが、太子に庇われたおかげで関係者だけが死罪となった。それでも雲回の父をのぞいて十五人が死罪になったという。事件に関連して死罪となった者の家族が、計家を恨んで復讐した可能性は低くない。子には父親の仇(あだ)をとるべき義務がある。巫蠱事件の罪に問われなかった雲回は無関係であったに違いないが、仇とみなされたおそれはある。遺体の番をしている邑人たちも、計家に対して忌々しげな言動を見せている。そこへ下級役人や下僕たちが現れる。検屍官は太子(の影武者)に挨拶してから来るという。官を待たずに、検屍助手である仵作(ごさく)人が検分を始める。筵(むしろ)をはぎ取ると、血にまみれた男の遺体が現われ、執拗に襲われたようだった。仵作人は「創(きず)は槍によるもの」と結論づける。遅れて到着した検屍官は記入済みの死体検案書に目を通し、雲回の妻である春春(しゅんしゅん)と邑人らを呼び寄せる。邑に槍は無いと聞いた検屍官は、うろついていた山賊に襲われたのではないかと見立てる。延明は収穫を終えた畑に賊が現われ、金銭を持ち歩いてるかわからない相手を執拗に攻撃したことに疑問を投げかけた。すると、畑で人銜(にんかん)または人参(にんじん)とも呼ばれる薬草を育てているが、人銜は収穫までに最低五回は土中で冬越ししなければならないと説明される。冬も採れる食料として山賊たちが掘り返して持って行くことがあるのだという。次に遺留物を探して、被害者と犯人が争ったらしい現場を検証することになった。周囲は竹の柵が破壊され、畑の土がめちゃくちに踏み荒らされ、掘り返されたように黒い土がのぞいていた。検屍官は被害者の妻である春春に、被害者が農作業のない時期の早朝に畑へ行った理由を尋ねる。雲回は父親のしたことの罪滅ぼしとして、太子に上等な人銜を届けたいと言い、人銜は獣にも狙われやすいからと畑を見回るのが日課だったと春春は証言した。それに対して、計家によい感情を抱いていない老人が反発して口論になる。すると呂人(ろじん)という名の老人は雲回に借金しており、数日前にも金の無心をして断られたと春春が暴露する。そのとき、「血がついてるぞ!」と叫んだ下僕が、柵として使われていた竹を持ってくる。壊れて散らばっていたうちの一本で、鋭利に尖った先端に血糊が付着していた。凶器は竹槍だと悪びれもせず仵作人が言うので、延明は呆れる。延明が信頼している検屍女官・姫桃花(きとうか)なら、創(きず)の形状で鉄槍か竹槍か判断できたにちがいない。犯人は凶器を持参していないところから山賊ではない、おそらく邑人だろうと考えた検屍官は、呂人に対する聴収を指示する。捕り方を率いる官吏としての判断は悪くないほうだが、延明は今ひとつ腑に落ちない。延明は竹を調べている輪に加わった。仵作人は「髪の毛と頭皮だな」と唸り、竹の先端を白い巾(きん)でぬぐい取る。「この毛髪は短いですね」と、延明は口をはさむ。天子が治める世では、男も女も髪は切らない。身体を損なってはいけないからである。だからこそ、頭髪を剃り落とす『髠(こん)』という刑罰が存在する。仵作人は「人の髪は長く見えて、そのなかに成長途中の短い毛髪を隠しておるんです」と説明した。竹を見せてもらった延明は、遺体の創(きず)と見比べて違和感を明確にした。それで春春に尋ねると、雲回は畑に獣がいたら追い払うつもりで石をいくつか持って行ったという。疑問が解消した延明は、検屍官に呂人は事件に無関係だと告げる。不審顔の検屍官に「これは事故である」と、延明は告げた。後宮に戻った延明は、連絡係りの織室宦官・冰暉(ひょうき)経由で桃花を呼び出す。公式には織室女官の桃花は、初めての冬支度で大変な思いをしていた。同房の同僚である才里(さいり)と宋紅子(そうこうし)も、以前は妃嬪(ひひん)の侍女特権でぬくぬくと過ごしていたので、冬支度の大変さを知らず呑気にしていたのである。強面の織室宦官・亮(りょう)が密売する真綿や布くずを購入し、何とか寒さをしのごうとしていた。梅婕妤亡きあと、昭陽殿(しょうようでん)の女官たちはすべて織室などの労働部署へ移動となり、織室内の物価も上がって苦しい状況である。才里が新しく入内したばかりの側室たちの女官選びに意欲を見せているところへ、織室丞(しょくしつじょう)が現れて紅子に異動を告げる。二区の鳳凰殿に住まう田充依(でんじゅうい)の侍女に選ばれたというのだ。桃花と才里は同僚の栄転を寿いで送り出した。夜、桃花と才里は暖を求めて二人一緒に臥牀(ねどこ)に横たわっていたところへ、呼び出しの合図があった。才里に送り出された桃花は、久しぶりに延明と会う。人銜の蜂蜜漬けの甕(かめ)を土産に持ってきた延明は、帰路で遭遇した事件の死体検案書の確認を桃花に頼む。竹簡に目を通した桃花は、事故だという延明の見解に同意する。安堵した延明は、高級生薬の甕を桃花に渡そうとして断られる。そして、二人で会った時に桃花は蜂蜜湯を、延明は人銜の輪切れを食べることにしようと桃花に折衷案を出される。提案を受け入れた延明は、よい配属先を紹介するから友人と一緒に異動するよう桃花に勧める。桃花と別れて織室の房を出た延明は、「孝ではなく天命に生きるのだ」と誓いながらも気になっていることがある。それは奴僕の丁が作成した冊書に記されていた、延明の祖父が着せられた濡れ衣のもととなった殺人事件、それを担当した検屍官の名前だ。姓は羊角(ようかく)、名は莽(もう)。珍しい姓であるから、すぐに調べはつくだろう。一方、延明の手配で桃花と才里は中宮の孺子(じゅし)堂に異動した。孺子堂は、皇后の長男である皇太子が東宮に移る前に暮らしていた殿舎だ。今は皇后の養子となった蒼(そう)皇子の住まいだという。蒼皇子は帝の三男で、梅婕妤の遺児である。母を亡くしたうえ、身の回りの世話をしていた女官が全員入れ替えられたことで蒼皇子は塞ぎこんでいるという。桃花と才里は蒼皇子と面識があり、信用もできると推挙されて採用されたのだ。蒼皇子を心配していた才里は張り切り、生き生きと働き出す。桃花は蒼皇子の侍女として仕えつつ、裏では延明の検屍官として働くことになり……。過去の因縁が暗い影を落とす中華風後宮検屍ミステリ、新章開始!

『丁(てい)』とは成人、あるいは下男という意味である

家廟(かびょう)は、先祖代々の位牌をまつる祠堂(しどう)である。先祖の魂を安らかしめることは子孫の務めであり義務だ。家を継ぎ、先祖をまつり、子々孫々の繁栄を築くことが最大の『孝』である、その象徴だと言ってよい。

不俱戴天(ふぐたいてん)――父の讎(あだ)は倶(とも)に天を戴(いただ)かず。
父親の仇はおなじ天(そら)の下に生かしてはおけず、直ちに殺すべし、という仇討ちを奨励する考え方だ。
父親の仇をとらない息子は「不孝者」としてうしろ指をさされる世の中

儀仗をそなえた供の者たちがずらりと控えている。天子や太子の行列である『鹵簿(ろぼ)』だ。規定よりも簡素で、大仰な行啓(ぎょうけい)というわけではない
天子となればその顔は龍顔(りゅうがん)、声は龍声と称されるように、まさに『人』ではなくなる。
先払いとは、貴人の通行に先駆けて往来に『回避』や『粛静』を命じる使者である。
民は農作業をはなれて道を掃除し、あるいは家にこもらねばならず負担となる

下級役人らは遺体のそばでサイカチを燃やしはじめた。サイカチは手の洗浄に使われるほか、焚いた煙は臭気や悪気除けとして効力を発揮する
仵作(ごさく)人だ。死体の埋葬を生業(なりわい)とする民である。
州の獄官、あるいは県の軍兵をつかさどる官である。死体の専門家ではないため、仵作人を検屍助手として雇い、調べさせることが多い
官はあくまで捕り方の役人であり、穢(けが)れに触れず知識を持たない。助手である仵作人は死体をあつかう専門家ではあるが、役人ではないので責任を持たない。

木でつくられた木簡(もっかん)ではなく、細く裂いた竹に文字を書きつけた竹簡(ちくかん)だ。

繭を煮た際に出たサナギは珍味として帝や妃嬪に供される

厠もさまざまで、半地下に豚を飼い、屎尿をそのまま餌にするものもあれば、下にただ甕(かめ)を置いただけのものもある。
後宮妃嬪は帳(とばり)に囲まれた専用の『花箱(便器)』にて用を足す

塩で口を洗浄し、うがいする。

「対食(めおと)の語源をご存じですか?」
「向かい合って対のように食事をとるから対食、それで夫婦って意味でしょ?まんまじゃない」
「菜戸ともいうわね。こっちもやっぱり食事が関係してるわ。それもそうよね、いっしょに食事をとるって家族だもの」

通常、正殿は南面し、そこから東に位置するのは長男の養育施設など、格高い建物と決まっている。

つま先上がりの方頭履(ほうとうり)

書名:後宮の検屍女官4
作者:小野はるか
出版:角川文庫
内容:大光(だいこう)帝国皇帝の寵妃・梅婕妤(ばいしょうよ)を呪殺したとして、許皇后が北の離宮にて蟄居(ちっきょ)となった。さらに殺害に加担したとして青い目の中宮宦官・点青(てんせい)と掖廷令(えきていれい)・孫延明(そんえんめい)が投獄された。事の起こりは、立秋をむかえたその日のことだった。朝議にて「後宮に蠱気(こき)の疑いあり』と、太卜令(たいぼくれい)の上奏があったという。蠱気とは『蠱(まじな)いの気』をいう。宮廷で蠱い、巫人(みこ)に祈らせて他者を呪う『巫蠱(ふこ)』をおこなうことは禁じられている。太卜令は瑞兆、天災、そして時節の占(せん)と記録をつかさどる官職で、立秋を迎えるにあたり天候について占をおこなった結果だという。帝はただちに蠱気を除くべしと下命し、皇后の住まう中宮、そして妃妾(ひしょう)らの住まう後宮が検められることになった。太子から密かに届いた急報に、延明は警戒する。後宮を管轄する掖廷に太卜令は協力を求めず、直接調査する許可を帝に頂戴したのは問題だ。そこへ帝の筆頭侍医(じい)である太医令(たいいれい)・夏陀(かだ)が助手の少年宦官・扁若(へんじゃく)を連れ、延明を訪ねて掖廷署にやって来た。夏陀は幼少より病弱で、生への執着から医学の門を叩いたとは有名な話だ。延明と同じ二十代の夏陀は腐刑(ふけい)を受けていないが、受けるまでもない体であったらしく宦官である。夏陀の来訪は、『病での死にざまについて知りたい』という延明の文に応えてのことだった。延明はいま、検屍方法や参考事例についてまとめた『検屍教本』をつくるべく、検屍女官の姫桃花(きとうか)の協力を得ている。ただ病については医官のほうが詳しかろうと桃花に勧められ、夏陀に協力要請をしたのである。延明が「検屍の参考にしたい」と言うと、夏陀は感心して快諾した。しかし、気位が高そうな扁若は「病で死んだか否かは医官が判断する。掖廷や死体係りが付け焼き刃の知識で判断することではない」と生意気な言動である。延明は「医官が李美人(りびじん)を病死だと見誤ったことから始まった事件」を指摘した。扁若は「その医官は杖刑(じょうけい)の末に死んだ」と悔しげに呟く。医官が貴人の病を治せなければ罪であり、失態があればそれは死である。三人が話していると、巫覡(ふげき)らの様子を探りに行かせていた部下が駆け込んできて急報を運んできた。事件が相次ぐため封鎖していた後宮三区の地中より巫蠱の形跡が発見され、皇后が梅婕妤を呪ったものだという。しかも、呪具には皇后直筆の花押(かおう)があったらしい。中立の立場である夏陀は巻き込まれまいとして辞去しようとするが、延明は手を掴んで引き留める。そして、「梅婕妤を急ぎお助けに行かねば。まさか医者でありながら見殺しに?」と迫る。呪いもまた病であり、呪いに対応した養生法や薬が存在するのだ。延明は夏陀を引きずるようにして連れ出し、梅婕妤の住まう昭陽殿(しょうようでん)に向かった。梅婕妤が自作自演で体調不良を演じ、巫蠱の事実をでっち上げ、皇后を糾弾、廃位へと追い込むつもりだろうと延明は危ぶむ。勢力争いに関わっていない太医令に仮病か否か診断させるしかない。騒然とする昭陽殿で取り次ぎを頼むと、女官に「死王騒動で配り歩いていた『皇后の護符』は蠱いの品だったのだろう。そんな護符を絲葉(しよう)さまの棺に入れてしまった」と泣きわめかれる。困っていると女官長が出てきたので、何とか言いくるめて案内させる。延明が予想していた通り、梅婕妤は巫蠱の報せに心乱されて人払いしているという。きっと巫蠱によって病を得たという独り芝居を始めるつもりなのだろう。廻廊を歩いて行き着いた先は、小さな魚池を望むための建物だった。綾の帳(とばり)を垂らされたなかには、梅婕妤と親しい張傛華(ちょうようか)と、皇后の侍女だった田寧寧(でんねいねい)が膳を囲んで座っている。田寧寧は帝の手がついて懐妊しており、安全のために出歩かないよう言われていた筈だ。延明が敵陣にいることを咎めると、張傛華は「懐妊を祝っていた」と笑う。田寧寧を辞去させるため梅婕妤に挨拶をという話になり、居場所を尋ねると対岸の小さな離れを女官長が指した。そのとき、夏陀が怪訝な声を上げ、露台に出る。夏陀が指をさしたのは、露台と離れの中間あたり。水を抜いた池の泥のなかに露出した大岩だった。岩のとがった部分には縄が掛けられ、四方に延びている。夏のあいだ、灯籠を吊り下げていた縄のようだ。目を凝らした延明は、岩の陰から衣の端が見えて息を呑む。人が倒れていると認識するなり、延明はぬかるみに飛び降り、足首まで埋まる泥のなかを岩までたどり着く。うつ伏せに倒れていたのは梅婕妤であった。延明が肩を叩いて声をかけても反応がない。今度は脈を診る――反応がない。呼吸を確認し、慌てて仰向けにして心音を聴く。遅れてたどり着いた夏陀も脈を確認し、真っ青な顔で首を横にふった。「梅婕妤が、死んでいる」露台に控えていた女官らが悲鳴をあげ、こちらに駆けつけようとするのを延明が押しとどめ、夏陀に現場保存を頼む。田寧寧が気を失って倒れたので女官長に別室での介抱を命じ、女官らを締め出したうえで張傛華に露台に面した部屋の守護を頼むと、延明は掖廷署に応援を呼びに走った。だが、梅婕妤の死因は特定できなかった。検屍の途中で延明は捕まり、外傷の有無を確認するところまでしか行えなかったのだ。ただ、梅婕妤の口の周りには嘔吐の痕跡があり、中毒死の可能性があった。その検出の準備を始めたときに、獄吏を引き連れた太卜令がやって来て延明の身柄は拘束され、延明と繫がりがあるとのことで検屍官も聴取へと連れ出されてしまったのだ。若盧獄(じゃくろごく)に収監された延明の房は、壁ひとつ隔てた点青の隣り。点青が必死に冤罪を訴えるが、応える者はいない。どうやら獄舎に留置されているのは二人だけのようだ。このままでは濡れ衣を着せられたまま、獄吏に訊問という名目で拷問死させられてしまうだろう。延明には成し遂げたいと桃花に語った夢がある。延明は生きたいと願う。一方、公式には織室(しょくしつ)女官の姫桃花は、上司である織室令の甘甘(かんかん)に呼び出され、延明投獄の報せを告げられた。後宮三区で偶人(ぐうじん)が発見されたことが決め手となっているという。偶人とは、木で人を模(かたど)った呪具で、巫蠱はこの偶人を土に埋めて呪詛(じゅそ)を行うものである。後宮は延明が長官を務める掖廷の管轄下で、しかも三区はひと月ほど前に延明の命によって封鎖されているので、延明が手引きして巫蠱をおこなったと糾弾されているらしい。この事件は掖廷令に共謀の疑いがかけられているため、帝の預かりになっている。梅婕妤の遺体は太医署に任されて調べられているようだ。延明を冤罪から救うためにも梅婕妤の検屍を自分の手でしたいと桃花は申し出るが、政争に絡まない中立の太医署には伝手もなければ黒銭(わいろ)も通じないという。代わりに、連絡係りの織室宦官・冰暉(ひょうき)を通じて掖廷令の副官である公孫(こうそん)から検屍官・桃李(とうり)に事件に関わる別の検屍の依頼があるという。前のめりに引き受けた桃花を制し、冰暉が「掖廷では桃李という少年をさがして官奴(かんど)の名簿調査が行われており、危険がともなう」と注意する。それでも「行く」と決めた桃花は、甘甘の手配で織室で宦官に変装する。なんと点青が勝手に宦官の籍を桃花用に偽造していたのだ。名簿上の名は「老猫」だという。掖廷獄に到着すると、延明の副官である中年宦官・公孫ひきいる掖廷官たちと太医署の医官たちが検屍対象をめぐって争っていた。事件を帝に一任されたと主張する太医署と、後宮所属の女性達を管理する掖廷署でどちらが検屍をするかで口論になっている。桃花が両者をよそ目に検屍を始めると、医官らは抗議の声を上げるも死体の穢気(わいき)を恐れて忌避するように距離を置く。それでも制止の声を上げる十代後半の医官に対して、「医官が監視するなかで検屍をおこない、不正なしと判断したら、死体検案書を太医署の仕事として提出する」と桃花が提案する。死体に触れたくない医官が承諾したので、少年宦官・華允(かいん)を記録係にして桃花は検屍を開始する。死んだ婢女は今日の昼過ぎ、三区で片付け作業中に呪具を火にくべて浄化するように命じられて実行したところ、吐血して悶絶死したという。死因は煙とともに立ちのぼった蠱気にあたった為とされている。つまり、この婢女の怪死がいっそう巫蠱の信憑性を高めている状況だ。若い医官は検屍の様子に怖気立ち、検屍官の仕事に否定的だった。だが、遺体から毒を検出して土中から発見された呪具に毒が仕込まれていたことを突き止めると、医官は桃花の名を尋ね、自分も「扁若だ」と名を告げて去った。検屍を終えて夜になると、皆の協力を得て桃花は宦官姿のままで若盧獄にいる延明に秘かに会いに行き、お互いの情報をすり合わせ、梅婕妤の死の謎を解く約束する。だが、延明が獄中で新たな殺人を犯し、自らも命を絶ったという報せが入り……。死王の怪談騒動から始まった後宮に渦巻く陰謀の正体、そして寵妃の死の真相とは?全ての黒幕が明かされる、驚愕の第4巻!

土をつき固めてつくった版築(はんちく)の獄

生きた生薬。生体のまま管理しなければならない薬が存在する。甲虫(かぶとむし)の死骸は粉に挽くことによって薬となる。蜣螂(きょうろう)といい、難産の際に使用するものだ。
生(なま)の材料は水蛭(すいてつ:ヒル)、家雁(がちょう)や鴨までと、さまざま存在する。
网草(もうそう)と粟を用意し、殺鼠団子を作成する。

子が親の罪を告発することは孝の観点から禁じられている。もし証言すれば、科せられるのは絞刑である。

女子の成人である笄礼(けいれい)を迎えた十五で入宮する

棺:遺体が入っていない状態
柩:遺体が納められた状態、だから柩車は棺と書かない

書名:後宮の検屍女官3
作者:小野はるか
出版:角川文庫
内容:死王の事件で無人のはずの後宮三区で、夜警の女官と宦官が墜落死体を発見する。それはなんと皇帝の寵妃・梅婕妤(ばいしょうよ)の奶婆(うば)・曹絲葉(そうしよう)だった。死体発見の報告から一時(二時間)ほど経った頃、掖廷令(えきていれい)を務める美貌の宦官・孫延明(そんえんめい)の所に『完』の楬(ふだ)がかけられた報告書が届く。曰く、「三区の櫓(やぐら)から身を投げたことによる自害」。これを届けに来たのは帝の側近宦官で、梅婕妤派閥の人間だ。死体発見から夜も明けておらず手つかずの事件だというのに、調べる前から自害だと主張する梅婕妤を怪しく思うが、延明は権力によって捜査を終了させよという圧力をかけられた状況だ。そこへ「中宮娘娘(皇后さま)のお気に入り」である青い目をした中宮宦官・点青(てんせい)が現われ、「女官の投身は夜警の不手際である。よって後宮夜警の責任者である皇后側が仔細調査を行う。中宮に検視官はいないので、掖廷署に協力を要請する」という内容の指示書を渡す。建前を得た延明は捜査を開始し、点青が連れてきた給事羽林(うりん:皇后を護衛する宦官兵)に現場を保存させる。死体の発見者となった二人の女官、亞水(あすい)と媚娘(びじょう)から事情聴取を済ませると、延明は現場の三区に向かう。一方、死王の事件がきっかけで、秘かに検屍官として延明に協力する織室の女官・姫桃花(きとうか)は、同僚の紅子(こうし)や才里(さいり)と蚕房(さんぼう)の桑摘みに駆り出されていた。紅子が作業しながら『女官選び』を話題にする。帝のお手がついて皇后の侍女から妃嬪に昇格する田寧寧(でんねいねい)の件だ。近々この織室からお付きになる女官が数人選ばれるのだ。とは言え、梅婕妤に睨まれている立場の桃花と才里の配置換えは許されない。溜息をつきながら才里が「三区のお宝探し」の噂を話し出す。死王事件で死んだ女官の隠し財産だという話だが、桃花は信憑性が低いと指摘する。がっかりした才里だが、噂好きで情報通の彼女は昨夜起きた三区の身投げの話を始める。そこへ織室宦官の亮(りょう)が「田氏(でんし)の女官選びだ」と言って紅子を呼びに来る。残された桃花と才里は、織房(しょくぼう)で機(はた)織りするように言われて移動する。そして、三区で検屍の準備が整った頃、連絡係りの宦官に先導されて官奴(かんど)・桃李(とうり)に変装した桃花が現れた。急な「女官選び」は織室から桃花を連れ出すためだったのだ。身の安全を図るため桃李の正体を知る者は少なく、連絡係りの織室宦官は桃花の恋人だと誤解させているままだった。普段は居眠りしてばかりのぐうたらだが検屍となると覚醒する桃花は、曹絲葉は墜落死ではあるが身投げではなく、発見場所ではない高所から墜落したあと運ばれたと結論を出す。墜落場所を特定するために、梅婕妤の住まう一区の昭陽殿(しょうようでん)に延明たちは踏み込む。延明が屋根に足跡を発見し、墜落死の真相に迫るが、思わぬ邪魔が入る。梅婕妤側の妨害で点青が婦女暴行という状況を演出されてしまうという失態を犯し、やむなく撤退するしかなくなる。さらに元女官の妃嬪が産んだ八歳の帰蝶公主が行方不明となる事件が起きる。後宮中を捜索していると、またしても三区の井戸から宦官の死体が発見され……。水面下で激化する皇后と梅婕妤の対立、深まる疑惑の闇、そして桃花にも変化が……?後宮の女たちの業を描き出す中華風後宮検屍ミステリ。

本宮:わたくし(皇后の一人称)

油差しを手にやってきた。燭台に、ひとつひとつ油を足してゆく。

鳳蝶:アゲハチョウ

書名:完訳 家なき子 下
原題:Sans Famille
作者:エクトール・マロ(フランス作家)
出版:新潮文庫
内容:捨て子のレミは、芸をする動物を率いる旅芸人ヴィターリスの一座の一員として旅をする。だが、パリ近郊の花づくり農家の庭先でヴィターリスは凍死した。一命をとりとめたレミは、残されたプードル犬カピとともに花づくり農家のアキャン家に保護された。一家はレミを家族のように遇してくれ、家業を手伝いながら暮らすようになる。ところが、雹(ひょう)の被害に遭ったアキャン氏が破産して借金を背負い、監獄に入れられてしまう。残された兄弟姉妹四人は、アキャン氏の弟妹が引き取った。子どもたちはフランス各地に散り散りとなる。口のきけない幼い末妹リーズのために、レミは旅芸人として巡業しながら兄弟姉妹を訪ね、それぞれの様子を知らせると約束する。パリの監獄にいるアキャン氏に面会し、レミはこれからの計画と別れの挨拶をする。レミが巡業に出発しようとした矢先、イタリア人の少年マティアと再会する。マティアは亡きヴィターリスの知人であるガロフォリ親方の甥っ子だ。亡くなる直前のヴィターリスがレミをガロフォリに預けようと考えたが、使役する子どもたちを虐待する様子を目撃して考え直したのだった。あの後マティアはサーカスに貸し出され、ガロフォリ親方は使役する少年を殴り殺した罪で刑務所に入った。そして、サーカスをお役御免になったマティアは、路頭に迷って飢え死にしそうになっていた。レミがパンを買ってマティアに食べさせると、彼は一座に加えてほしいと懇願する。こうしてレミの一座は少年二人に犬一匹になった。音楽の才能のあるマティアがヴァイオリンや他の楽器を演奏し、プードル犬のカピが芸を披露し、レミがハープやイタリア民謡を歌いながら金を稼ぎ歩く。一座の最初の目的地は、アレクシを引き取った叔父ガスパールが暮らす炭鉱町ヴァルタス。レミの訪問をアレクシは喜ぶ。ある日、炭鉱夫として働くガスパールを手伝うアレクシが怪我を負い、レミが代わりに坑道に入る。ところが、坑道の上を流れる川によって鉱山が浸水し、ガスパールとレミを含む七人の鉱山夫が旧坑道に閉じ込められる。二週間後に救助されると、レミは再び一座を率いて旅に出る。レミの故郷シャヴァノンに立ち寄ることになり、育ての母に稼いだ金で雌牛を贈る。養母は夫のジェローム・バルブランがパリでレミを探していると告げる。バルブランは養母に詳細を教えなかったが、レミの両親から連絡が入ったらしいという。レミとマティアはパリに戻ってバルブランに会うことに決めた。パリに向かう道中でドルージーを通る際、そこで暮らす叔母に引き取られたリーズを訪ねる。レミは稼いだ金で買った人形をリーズにプラゼントし、彼女の兄アレクシと炭鉱のことや自分の近況を報告して別れる。パリに到着した少年たちは、バルブランが死んだことを知る。レミは養母に手紙を書き、養母はバルブランが生前に送った手紙を同封して返事をし、その中にはレミの捜索を担当したロンドン事務所の弁護士の住所が記されていた。レミとマティアはイギリスに渡り、ロンドンを目指す……。レミたちは国境を越えてイギリス、スイスへと旅を続け、ついに生母の居場所をつきとめるのだが……。フランスの児童文学の傑作。
※本作は当初新聞小説として執筆され、単行本は1878年に初出版されている。本書は1880年刊行のエッツェル社版を底本としている。

バツ印:かつては、字が書けない人はサインのかわりにバツ印を書くことがよくあった。

御者は馬のすぐ後ろの御者台に坐るかわりに、馬車の後方の、幌の上に乗り出せるような高い位置に乗っていた。あとになって知ったのだが、これは『キャブ(辻馬車)』と呼ばれるものだった。
馬車は前方があいていて、幌の後ろのほうに小さなのぞき窓があり、彼はそこを通して御者と話しはじめた。

グローグ:砂糖とレモンを加えたラム酒のお湯割り
 

書名:完訳 家なき子 上
原題:Sans Famille
作者:エクトール・マロ(フランス作家)
出版:新潮文庫
内容:フランスの真ん中あたりにある貧しい村・シャヴァノンで育った八歳の男の子レミ。マルディ・グラの日にパリで働いていた養母の夫ジェローム・バルブランが帰ってきた。バルブランは怪我で障害を負ったうえに、裁判に負けて雇用主から補償金を貰えなかったという。バルブランはパリのブルトゥーユ大通りに捨てられ、豪華な産着を着て泣いていた赤子がレミだと言い、お礼目当てに引き取ったがいまだに親が現れないので諦めて孤児院に入れると宣告した。孤児院に行く途中で入った村のカフェで出会った老人はヴィターリスという名の旅芸人で、ムッシュー・ジョリ=クールという名の猿、シニョール・カピという名のプードル、シニョール・ゼルビーノという名の黒いバルビー犬、シニョーラ・ドルチェという名の灰色の小さな犬を連れていた。ヴィターリスの申し出を受け、レミは四十フランでバルブランに売られる。ヴィターリスの一座に加わったレミは、芸をする動物たちとともに巡業の旅に出発する。ヴィターリスは紳士然とした優しい師匠で、レミに文字を教え、楽譜の読み方を手ほどきし、ハープを奏でさせ、イタリア民謡を歌わせた。レミは動物たちと芝居を演じ、観客に拍手喝采される。ところが、興行中に警察官と揉めたヴィターリスは逮捕されてしまう。さらに裁判で有罪宣告を受けたヴィターリスは、刑務所に二カ月のあいだ収容されることになる。動物たちと残されたレミは宿屋を追い出され、生活費を稼ぐために巡業の旅を再開する。しかし、最初の村の興行で失敗したうえに、ゼルビーノが盗みをはたらいたせいで追いかけられる。逃げているうちにゼルビーノとはぐれてしまったレミたちは、旅を再開することも出来ず困ってしまう。レミが川辺で空腹をまぎらせるためにハープを奏でていると、「ブラボー」という声が聞こえた。それは病気の少年アーサーの声だった。イギリス人貴族マダム・ミリガンの次男であるアーサーは療養のためにフランスに訪れ、特別に造らせた小型船「白鳥号」で旅をしているのだという。ベッドから起き上がれない彼の遊び相手としてレミは船に招かれる……。真の幸福を求めて旅を続けるレミは、時に厳しい荒野を渡り、川を越え、吹雪に耐え、大都会から炭鉱町まで……フランスの児童文学の傑作。
※本作は当初新聞小説として執筆され、単行本は1878年に初出版されている。本書は1880年刊行のエッツェル社版を底本としている。
※シャヴァノン:架空の村だが、フランスの中央に近いクルーズ県の南部、アルプスとピレネー両山脈のあいだに広がるマシーフ・サントラル(中央山地)のどこかとされている。
※マルディ・グラ:復活祭の四十六日前から四旬節がはじまる。この間、信者は肉食や油脂を断ったり、華やかなことを慎んだりして、荒野で断食(だんじき)したキリストをしのぶが、それに先立つ数日間、思いきり飲み食いしたり騒いだりするお祭りが謝肉祭(カルナヴァル)で、その最終日がマルディ・グラ(ふとった、肉の、または脂っこい火曜日の意)。フランスでは、この日にクレープやベニェ(揚げ菓子)を食べる習慣がある。四旬節の前に卵を使いきるためにはじまったという。

サボ:木靴
キュロット:膝丈のズボン
ルセット:赤毛の、という意味の愛称。日本語なら「あか」とでも言うところか。

七里の長靴:ペローの昔話『親指小僧』で、人食い鬼が履いている「七里の長靴」は長距離を飛ぶように走れる魔法の長靴。もとは、中世の街道筋の宿駅から宿駅へと宿馬を移動させる騎乗御者が履いていた長靴が「七里の長靴」と呼ばれていた。

叔父に相続権がある:イギリスはかつて限嗣(げんし)相続という制度があり、財産を分散させないため、遺産は誰かひとりの男子が相続することになっていた。したがって、夫婦に男の子がいなければ、夫の死後、財産は妻にではなく、たとえば叔父(夫の弟)などに受け継がれることになった。

芥子泥(からしでい):芥子に小麦粉を混ぜて、泥状に練ったもの。胸に湿布して、咳を鎮めるのに用いられた。

砂糖入りのホット・ワイン:フランスではかつて、ワインは単なる酒ではなく、滋養になると考えられていて、病人にも積極的に出され、軍隊でも必需品とされていた。

一年のうちの大祝日、聖ペテロ(六月二十九日)、聖母マリア(八月十五日)、聖ルイ(八月二十五日)の祝日だった。ピエール、マリ、ルイまたはルイーズという名前の人がとても多く、したがって、家族や友人たちの聖名の祝日を祝うため、この日に鉢植えの花や花束を買う人がきわめて多いからだ。こういう祝日の前日には、パリの通りには花があふれ(略)
※現在はかなり自由になったが、以前は、フランス人のファースト・ネームはいわゆるクリスチャン・ネーム(洗礼名。聖人の名前)でなければならなかった。だから、だれでも自分の名前の聖人の祝日があり、かつては誕生日よりむしろ聖名の祝日のほうが重要視されていた。お祝いに贈るのはまず何といっても花だったから、フランス人に多いファースト・ネームの聖名の祝日には、花を買う人がそれだけ多くなることになる。

ナイフは友情を断ち切ってしまうから:刃物を扱う人たちのあいだでは、とりわけオーヴェルニュ地方では、ナイフを贈ると、それが二人のあいだの愛情や友情を断ち切ってしまうおそれがある、という迷信があった。それを避けるには、かわりに小銭を受け取って、贈ったのではなく売ったことにすればいいことになっていた。
 

書名:英国貴族の本棚1 公爵家の図書係の正体
原題:A Novel Disguise
作者:サマンサ・ラーセン(アメリカ作家)
出版:コージーブックス
内容:1784年9月、イギリス・ロンドン郊外。婚約者を亡くして以降ずっと独身のティファニー・ウッダールは、異母兄ユライアの世話をして暮らしていた。横柄でしみったれの異母兄は、お茶の缶には鍵をかけ、昼食はなし、歌を歌うことも、本を読むこともティファニーに許さなかった。ティファニーの40回目の誕生日の朝、起きてこない異母兄の部屋をノックしても返事がない。昨晩ユライアが胃痛を訴えていたことを思い出したティファニーは、ドアを開けて室内に入ると酷い悪臭がした。床には嘔吐した痕があり、ベッドで異母兄は息絶えていた。ショックを受けたティファニーは涙を流す。これからの事を考えてティファニーは頭を悩ませる。財産のないティファニーには葬儀のお金どころか、ひと月分の生活費も足りるかどうか。兄妹で住んでいたコテッジも、ボーフォート公爵家の図書係というユライアの仕事に用意されたものなのだ。ティファニーが働くとしても、独身女性が就ける仕事は少ない。その時ふっとティファニーの脳裏に、学生時代に兄に変装して両親をからかった思い出がよぎる。ティファニーは兄と同じ背丈に加えて、そっくりな顔立ちである。コテッジはメイプルダウンの町から離れた場所に建っており、異母兄とつきあいのある友人と呼べそうな人物は、シャーリー牧師ひとりだ。ボーフォート公爵の遠縁という立場を意識しているユライアは、同僚である使用人たちとも親しくしていない。ティファニーは自由を手に入れ、自分の暮らしを守るために異母兄になりすます決意をする。公爵の館アストウェル・パレスに出向いたティファニーは、家政婦長のミセス・ホイートリーに異母兄が病欠すると伝える。ついでに、異母兄が盗まれたとわめいていた父の形見であるダイアモンドのクラスターピンについて「置き忘れたようなので、見つけたら知らせてほしい」と頼む。コテッジに戻ったティファニーは、裏庭のポッキリヤナギの下に穴を掘った。そして太陽が沈みはじめて薄暗くなった頃、異母兄の遺体を苦労して運んで穴に埋めた。それから汚れたマットレスと泥まみれになった自分の服を脱いで燃やした。裸になったティファニーは、コテッジの側の湖に入って体の汚れを落とした。水中に潜ったティファニーは、突然腰を掴まれて岸に引きずりもどされた。彼女が溺れていると勘違いした書店主のラスロップが助けようとしての行為だった。裸のティファニーは恥ずかしい思いをしながら誤解を解いた。翌朝、ティファニーは白粉と口紅で化粧した上につけぼくろを貼り付け、ユライアの鬘と衣服を身に着けて出かけた。異母兄のぶかぶかなブーツが脱げないように苦労しながら歩く。ティファニーの出勤初日、公爵夫人が二週間後に催すハウス・パーティーの招待客のための本を用意するように言いつけられる。職場のアストウェル・パレスでは図書室の場所が分からなかったり、使用人の名前を知らなかったりしたが、ティファニーは用心深く行動する。そんな時、レディーズ・メイドのミス・ドッドリッジが複数の男性使用人と親しくしている所をティファニーは目撃する。お屋敷内でパーティーの準備が進むなか、ティファニーはうっかり失言して自分がサリー公爵夫人の学友だったことをボーフォート公爵に知られる。23年前、トプハム伯爵令嬢のテレサはサリー公爵と婚約し、身分の違うティファニーとはもう友人ではないと告げ、それ以降は音信不通であった。ティファニーはボーフォート公爵夫人の命じた最新の小説を購入するためにメイプルダウンに向かい、途中で自宅のブリストル・コテッジに立ち寄ってユライアの変装をといた。自分自身の姿に戻ったティファニーは、ラスロップの書店で気まずい思いをしながら本を注文した。インド人の母とイギリス人の父の間に生まれたラスロップは、この地域では浮いている存在だが、ティファニーは惹きつけられる。ラスロップに勧められた本をティファニーは楽しんで読んだ。日曜日、ユライアとして教会の礼拝に出席したティファニーは、帰宅しようとしたところをシャーリー牧師に話しかけられる。2人目の妻を亡くし14人の子どもを抱える牧師は、再婚相手としてティファニーに目をつけており、彼女は嫌な気持ちになる。月曜日、ユライアとして出勤したティファニーは、ボーフォート公爵からパーティーにサリー公爵夫人が参加することになったと告げられる。しかもティファニーとの旧交を温めたいのだという。昔、ティファニーに異母兄のふりをさせたのはサリー公爵夫人だった。ユライアになりすましていることを彼女に見破られるかもしれない。ティファニーは不安を抱えながらも、公爵から受け取ったお金で新しいドレスの準備をする。一人二役の多忙な生活を送るなか、ティファニーはミス・ドッドリッジが盗みを働いているのではないかと疑う。そのうえミス・ドッドリッジが自分の叔母である家政婦長を脅迫する場面まで見てしまう。ハウス・パーティーの日が近付くが、ミス・ドッドリッジは体調を崩す。彼女に想いを寄せるファースト・フットマンの黒人トーマスは医者を呼ぶように言うが、フォード執事に却下される。サリー公爵夫人が到着し、ティファニーはアストウェル・パレスに招かれる。再会したサリー公爵夫人はかつての酷い態度を謝る。母親にティファニーとの友人づきあいを止めるよう迫られたのだという。夫を亡くしたサリー公爵夫人は、2番目の息子がメソジストの聖職者となったことで、昔の行いを改めたいと思ったと告白する。友人の仲を修復したいと願われたティファニーが返答に窮した時、大きな叫び声が聞こえた。ティファニーが廊下に出て大きな泣き声を追って使用人用の棟に向かった。ティファニーは泣き叫んでいるミセス・ホイートリーを見つけた。ミス・ドッドリッジが屋根裏の自室で死んでいるという。牧師だった亡父を手伝って遺体を埋葬する準備もしたことのあるティファニーは、家政婦長を宥めて使用人用宿舎の奥へ向かった。ミス・ドッドリッジが亡くなったことを知って使用人たちは大騒ぎになる。屋根裏のメイドの部屋に入ると、ユライアが死んだ時にコテッジに充満したのと同じ不快な匂いがした。ミス・ドッドリッジは自分の吐いたものの中に横たわっていた。家政婦長が水や布の準備のために部屋を出て行くと、ティファニーは着替えを探すために箪笥の抽斗を開け、そこに兄のクラスターピンを見つけた。他にも盗品と思しき銀のカトラリーや燭台などが入っていた。雑役メイドのエミリーが床の汚物を片づけ始めると、ティファニーは医師に調べてもらうために、サイドテーブルに置いてあったグラスに少しだけ嘔吐物を入れておいた。水を張った洗面器を持ってミセス・ホイートリーが戻ってくると、ティファニーはミス・ドッドリッジのドレスを脱がせた。ミセス・ホイートリーが体を清めると、二人でミス・ドッドリッジをベッドに乗せドレスを着せた。そこへハドソン医師がやってきたので、ティファニーは事情を説明した。ミス・ドッドリッジの遺体を調べたハドソン医師は、サイドテーブルのアヘンチンキの瓶を確認すると、「毒を盛られて亡くなったと思われます」。ティファニーは、ユライアが死んだ朝とそっくりだと考え……。

サミュエル・リチャードソンの『クラリッサ』1748年刊行
ミス・ファニー・バーニー『セシリア:あるいは、女相続人の回想録』1782年刊行。未邦訳。
『ハンフリー・クリンカーの探検』1771年刊行。書簡体で書かれた紀行小説。

コンパニオン:貴婦人の話相手

スナッフボックス:かぎたばこ入れ
公爵はスナッフをひとつまみ、手の甲に載せた。その手を鼻のところまで持っていき、まず片方の鼻の穴から吸いこみ、もう片方の鼻の穴からも吸いこんだ。
乾燥させたたばこの葉っぱを香油に浸したもの
少量のスナッフを細い指でつまんだ。夫人は片方の鼻の穴でそれを吸いこみ、もう片方でも吸いこんだ。

トライコーンハット:つばの両脇と後部が折りあげてあり、上から見ると三角形になっている帽子。18世紀に流行した。

テス:テレサの愛称
サム:サミールの愛称

レディーズ・メイドは名ではなく姓で呼ばれる。使用人部屋の女性の中では、家政婦長に次ぐ重要な立場だ。レディーズ・メイドには、美しいドレスから古くなった手袋まで、侯爵夫人が使わなくなったものをなんでも与えられるという特権もある。
使用人同士の結婚を認める雇い主もいるけれど、このお屋敷では使用人同士の結婚は認めていない。ミセス・ホイートリーは結婚していない。『ミセス』の称号は、家政婦長という立場に与えられた肩書きに過ぎないのだ。

イングランド国教会では、結婚するまでに三週つづけて日曜日に結婚予告を読みあげなければならない
 

書名:命をつないだ路面電車
原題:Un tram per la vita
作者:テア・ランノ(イタリア作家)
出版:小学館
内容:1943年10月16日土曜日の早朝、12歳の少年エマヌエーレ・ディ・ボルトはドイツ兵の銃声で目が覚めた。ローマのゲットー地区(ユダヤ人居住区域)のまわりを銃声が取り囲む。土曜日が安息日のユダヤ人はみな家にいる。そこを狙ってナチスの親衛隊が踏み込んできた。男の人たちが連行される様子を窓から見た母親は、テルミニ駅で働く父親に危険を知らせるために雨の降る外へ出た。一番上の姉ベッタが兄妹に着替えるように指示し、末妹ジェンマの子守りをする。母を心配するエマヌエーレは、窓の板戸に隠れながら外を窺う。そして、母親が兵士に捕まってトラックのほうに引きずられていくところを目撃する。「母さん!」エマヌエーレは引きとめる姉の手を振りほどき、家を飛び出す。トラックの荷台に乗せられた母親のもとへ駆けつけたエマヌエーレは「レシュッド!(逃げなさい)」と言われるが、見張りの兵士に捕まって車に放り込まれる。しかし、監視の兵士が目を離した一瞬のすきに、母親がエマヌエーレを荷台から突き落とした。今度こそ母親の言うとおりにしなければならない。人ごみの中、エマヌエーレは兵士の注意を引かぬようにゆっくりと歩き出す。雨に濡れながら歩き続け、エマヌエーレはモンテ・サヴェッロ広場にある路面電車の始発の停留所に着いた。ちょうど出発しようとしている電車があったので、エマヌエーレは車両に乗り込んだ。そして、切符を切っている車掌に小声でささやいた。「ぼく、ユダヤ人なんです。親衛隊に追われています」車掌は「わたしのそばにいなさい」と答え、まもなく電車が走り出した。電車にゆられるエマヌエーレは停留所を一つ、また一つと乗り越し、息をひそめてローマ市内を巡る。車窓からは大勢のユダヤ人を乗せたトラックが見える。電車を乗り降りする乗客のなかにはファシストたちもいて、彼らの心ない会話が聞こえ……。ナチス・ドイツによるユダヤ人強制連行から逃れ、路面電車に乗って生き延びた少年の実話を元にした物語。
※原書初版2023年
※本書巻頭に掲載されたイマヌエーレ・ディ・ポルトの言葉によると、「この本で語られている物語には、実際にあったとおりに書かれた部分もあれば、作家が想像をふくらませて書いた部分もあります。」とのこと。
※1943年10月16日、ローマのゲットー地区ではエマヌエーレの母親を含む1023人ものユダヤ人が連行され、アウシュヴィッツ強制収容所へ送られた。そのうち生きて帰ってこられたのは、たったの16人だった。

母さんの名前はヴィルジニア。みんなからは「ジノッタ」という愛称で呼ばれている。

母はわたしにローマのユダヤ人が使う言葉で、『レシュッド(逃げなさい)』と