ヴィンデビー・パズル | kanoneimaのブログ

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私的備忘録

書名:ヴィンデビー・パズル
原題:The Windeby Puzzle
作者:ロイス・ローリー(アメリカ作家)
出版:新評論
内容:1952年5月、西ドイツ北端の町ヴィンデビーの沼地で泥炭(でいだん)を採集する作業中に、機械の爪が人間の脚や手をすくいあげた。すぐに警察が呼ばれ、博物館の学芸員たちも現場にかけつけた。調査の結果、これは未解決の殺人事件ではなく、およそ二千年前、鉄器時代にあたる紀元前後の死体と断定された。いわゆる「ボグ・ボディ(湿地遺体)」だった。人類学者たちは、それが十三歳前後の少女の遺体だと結論し、「ヴィンデビー・ガール」と名づけた。作家ロイス・ローリーは「ヴィンデビー・ガール」について初めて読んだとき、好奇心でいっぱいになった。彼女の身に、何が起きたのだろう?この少女にまつわるパズル(謎)を解き、その物語をひもときたいと思った。紀元一世紀前後のヴィンデビーには、ゲルマン人が住んでいた。帝政期ローマの歴史家タキトゥスが書いた民族誌『ゲルマニア』には、北欧のゲルマン系諸民族の風俗習慣が描かれている。そこで作家はこの古典を下敷きに、彼女の物語をつむぎだそうとする。まず名前は古ゲルマン語の女性名から「エストリルト」と呼ぶことにした。
 冬が終わり春を迎えようとする小さな集落で、革職人の娘エストリルトは夜明け前に家を抜け出す。集落のはずれにある鍛冶小屋の物置で寝起きしている孤児の少年ヴァリクと落ち合い、二人だけの秘密の訓練を始める。エストリルトは女性の役割に不満を持ち、亡き叔父の跡を継いで戦士になりたいと願っている。村で初めての女戦士になるために、友人であるヴァリクに教えをうけているのだ。盾をかまえて「盾の歌」を詠唱し、足を踏み鳴らして踊ることを覚える。剣術を稽古し、戦士の髷を結う練習を繰り返す。そして、いよいよ春の祭りの日、少年たちが戦士と認められる元服式の場にエストリルトもまぎれこむ……。
 このように作家は無数のピースをつなぎ合わせ、イマジネーションによって架空の物語をつむいだ。しかし、この物語を根底からくつがえす事実のかけらを作家は新たに知る。2006年の研究結果により、ヴィンデビーで見つかった遺体は少女のものではなく、少年のものだと報告されたのだ。そこで作家は別の物語を見つけ出そうとして、すでに物語に登場している体が不自由な少年ヴァリクの存在を思い出す。そしてヴァリクを主役に、ありえたかもしれない別の世界を想像する。
 天涯孤独のヴァリクは生まれつき体が弱く、いじめられがちな十六歳の少年。鍛冶師の手伝いをして暮らしている彼は、知的好奇心が旺盛でひまさえあれば動植物を観察して過ごす。今ではミミズクの鳴き声を聞き分けることも出来る。彼が寝起きしている物置には動物の骨のコレクションでいっぱいだ。夏の終わりの夕べ、湿地の小道を歩いていたヴァリクは物知りな老人と出会い……。
 二つの物語の前後と幕間には作者による解説も兼ねたエッセイが挿入されており、物語の基礎となる知識や死の謎を解き明かすプロセスも楽しむことができる。巻末には付録として遺物写真と解説も収録されており、鉄器時代の北欧と「湿地遺体」について学べる本。
※2023年初版
※「ボグ・ボディ(湿地遺体)」とは、泥炭地に埋葬された遺体が泥炭中の化学物質によって保存された状態のもの。ヴィンデビーのような北欧の泥炭地では、酸素の欠乏、強酸性の土壌・水質、寒冷な気候があいまって、ときに自然の霊安室が出現する。そこに埋葬された遺体は、なかなか腐りきらない。死後数世紀たって発見された死者のなかには、しぼんだゴム人形のような姿をしたものもあるという。
※泥炭とは、なかば朽ちた植物が炭化したものをさす。水気の多い土地の土壌は酸の濃度が高く、養分が低い。ミズゴケなどの植物は、酸の殺菌作用のせいで、枯れたあとも完全には腐らない。条件がそろえば、堆積した泥炭の層が、沼地や湿原を形成する。太古の時代から、人類は泥炭を採集し、固め、乾燥させて燃料にしてきた。
※「ゲルマニア」とは、ライン川より東、ドナウ川より北の一帯に古代ローマ人がつけた地名
※エストリルト(Estrild)という名には、「春の女神」「戦闘」「東の戦士」といった意味がある。
※「ヴィンデビー・ガール」改め「ヴィンデビー・チャイルド」の亡骸(なきがら)は、他の湿地遺体とともに、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州立博物館に展示されている。

泥炭からなる湿地帯では、夜になると地中の物質から発生するガスが、大気中の酸素にふれて発火し、ちらちらした光を出す。科学用語で生物発光といわれるこの現象は、民間伝承や怪談では人魂(ひとだま)などと呼ばれている。

柳の樹皮は、古くから鎮痛剤や抗炎症薬としてひろくつかわれていた。古代ギリシアの医師ヒポクラテスは、その薬効を書きのこしている。
しかし、柳の樹皮からサリチル酸という成分が抽出され、アセチルサリチル酸とよばれる解熱鎮痛剤(商標名は「アスピリン」)がつくられるのは、十九世紀末のことである。
 

バリートゥス:「盾の歌」の意。出陣の歌。タキトゥスによれば、ゲルマン人はいざ戦争となれば、出陣前に鬨(とき)の歌をうたうのがしきたりだった。

スエビアン・ノット:本書では「武者結び」と表記されている。タキトゥスの『ゲルマニア』38節には、ゲルマン系(ケルト系という説もある)のスエビ族の男性が、「自由人」の証としてこの髪型をしたとある。