Before the dawn
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二人の父

リメンバー・ミーの中に出てくる父親二人はとても対照的だ。
弁護士と警察官。二人とも司法関係の仕事だけれど、立場は対照的な二人。

そしてつらい経験後の家族との関わり方も対照的に描かれている。
ピアース・ブロスナンの演じる弁護士の父は、長男の自殺後、離婚し、仕事にのめり込み家族を置き去りにする。
クリス・クーパー演じる警察官の父親は、冒頭の事件後娘、手洗いやり方で暴力事件を解決し、娘に過干渉し束縛する。

ここでもキーワードは暴力だ。

タイラーの父親は法と金とで依頼人(被害者)を救済する。

アリーの父親は現場で時には自身も暴力でもって相手をねじ伏せ事件を解決する。
アリーの父はずっと暴力のまっただ中に身を置いている。
事件解決には暴力には暴力を行使せざるをえない。
そうやってアリーの母のような人間を減らそうとしているのか、

この映画の中でアリーの父親は私にはタイラーと同じように過去の経験を克服できない者としてうつっている。否応無く暴力のただ中に身を置いている彼は娘との衝突も最後には暴力でねじ伏せてしまう。
アリーは10年で母の死をなんとか乗り越えた。でも父は乗り越えられていない。警察官という職業が四六時中暴力と、同じような事件の中に彼をとどめ、暴力の連鎖を断ち切るきっかけを与えないでいるのだ。

誰が、タイラー(エイダンを)をアリーに向かわせたのか。誰がアリーとタイラーの距離を近づけたのか。
アリーの父の、タイラーと同じような短絡的な行動がそうさせたのではないのか。
暴力と束縛の世界で得たものは。



一方、タイラーの父親は私には長男の自殺を乗り越えた者として見えた。
長男の死を、別のだれかを救う事によって浄化させてきたのかもしれない。
長男に対して干渉した事が死を呼び込んだから、タイラーやキャロラインから距離を置いている理由にも思える。

タイラーとアリーとタイラーの父の3人で食事をする場面。
アリーはあの場面で初めて自分の目の前で母親が殺されたという事実を告白する。
タイラーにではなくタイラーの父に。
タイラーは6年前、自殺した兄を発見したのは自分で、アリーの気持ちを理解できるのは自分だと思ったに違いない。
でもアリーが選んだのは彼の父だった。
それはきっと乗り越えたもの同士にしかわからない感情がそうさせたのだと思った。

まだ乗り越える事のできないタイラーでは本当の意味で”今の”アリーの心は理解できない。
同じ経験をしたから共有できるのではなく、同じ経験から乗り越え得た何かでなければ理解できないとアリーは無意識に感じたのかもしれない。

妹の絵を持って父のオフィスに怒鳴り込んだタイラーは、傷ついた心をアリーに慰められる。
ベッドでアリーと身を寄せ合いながらも、安らぎとはほど遠い表情で虚空を見つめるタイラー。

父にぶつけた怒りはそのまま自身に。安らぎとはほど遠く。

自分と父の違い、自分とアリーとの違いに否応無く向き合った夜。





タイラーの苦悩

普通主人公って最後にはかっこよく描かれるものだけれど、リメンバー・ミーのタイラーは作中一番”できてない”役柄だった。
なんとなくロブがそういう所を強調したのかなとも感じられるくらい情けない。
映画はまるでロブを追いかけているかのようにタイラーばっかりで、だからこそそういう未熟な部分が際立つのだけれど、とにかくやることなすこと間違っている(大人の目で見れば)

22歳直前。

21歳という年齢は米国のどの州でも大人としてすべての権利が認められる年齢で、
ということは、タイラーは子供じゃないけれど、大人になってまだ1年も経ってない。


何か起きたとき、彼の解決方法は暴力か、直談判か、とにかく直球ばかりで変化球が出来ない。
でもそれはただ若いからではなく、彼が抱えた苦悩に起因するもののように思える。

15歳のときに兄の自殺を発見して以来、人生の意味を見出せない。
その日の朝兄とカフェで顔を合わせていたのに何も出来なかった罪悪感。
そしてその時の兄と同じようにうまく父とかかわれない妹への不安。
解っていて間違った方法でしか行動できない自分への苛立ち。

売れないミュージシャンでやっていけなくて父の言うまま(たぶん)父の会社で働いていた兄と、父にうまく気持ちを伝えられない妹はきっとタイラーから見てとても似てみえるのかもしれない。

としたら、過去の兄の自殺は過去のものじゃなく、タイラーにとって現在進行形のようにも思える。兄を助けられなかったのに妹まで同じように追い詰めてしまわないように、タイラーは父と妹の関係に兄を重ねて焦りと恐怖を感じている。だからあんなにも過剰な反応なのだと、私には思えた。

いじめで髪を切られた妹に本を読んでやるシーンの、おびえたタイラーの声音がすごく印象に残っている。あのシーンは周囲に対する怒りより、何も出来ない自分へのふがいなさよりなによりタイラーは失うことへの恐怖を感じていたように思う。

すごくおびえて、苦しそうで。

あのシーンは見ていてひどく悲しくなった。

はじまりは他人の目

暗い夜の地下鉄。
無人ではないけれど、薄暗くさびしい。
一度911前にNYにいったことがあるけれど、確かにNYの地下鉄は夜だったらあんな感じだった。

昼間でもどこか薄暗くて、人が大勢乗り降りしているのに不思議なくらい雰囲気が暗かった。
この印象はたぶん乗り間違えて乗り換えた駅がかなりやばい感じの駅で、切符売りの叔母ちゃんにお釣りをちょろまかされたせいかもしれないけどガーン

そこで母娘が若者に脅されて、金を取られ、母親は銃殺されてしまう。
このシーン、冒頭にあるし、すごく衝撃的だ。ちょっと演出として強すぎるくらいだ。

でも冒頭で、私たちは何も知らないから、この事件を完全に他人の目(当事者ではなく)で認識している。
「世の中はどこも物騒で、気をつけていても逃れられない災難や事件がある。悲しいけれど仕方ない」
そんな感じで強烈だけれど、冷静に観客は見られる。


どんなに予防し気をつけていても避けられないもの。
そういうものがあることを地震の国にいる日本人には染み付いている事実で、日本にいれば地域の差はあっても誰もが等しく地震や台風に関しては当事者として納得している。
でも刑事事件は?
アメリカでは日本よりずっと犯罪件数も規模も大きいけれど、誰にでも起こるわけじゃない。
日本でもアメリカでも事件は誰の身にも起こる可能性はあるけれど、当事者になるのは一部の人間。

結局当事者にならなければ、他人の目で、他人の感じ方しか出来ない。

冒頭のシーンはアリーとクレイグ警部の過去だけれど、そういった意味も含まれていると思う。

他人の目で見ていればどんな事件でも冷静でいられるのだ。

ヒューマンドラマ?いやそれ以上の作品

It doesn’t fit into any genres.  Source
「どのジャンルにもはまらない作品だから」 

ロバート・パティンソンがこの映画をやりたかった理由のひとつとしていくつものインタビューでそんな事を言っていた。
実際今回映画を見た感想としても、どういうストーリーとして見ていたかによって観客の反応はまったく違ったものになったみたいだ。アメリカではこの物語をなぜか「ラブストーリー」とカテゴライズしてプロモーションしていたから、余計辛口な評になってしまったのだろう。あれはやっぱりラブストーリーではないと思う。
でも彼が言っていたとおり、実はヒューマンドラマと言うにも違和感がある。ラブストーリーとしてみるよりはマシ、でもヒューマンドラマとして見てもやっぱりしっくりこない。
実際私が思うには、この映画の家族の物語は映画を通しての装置のひとつであってメインではないと思う。タイラーとアリーの物語もしかり。二十歳前後の若者の話に恋愛のひとつも無いのではおかしいし、タイラーという青年の変化を描く際、やっぱり家族+友人というそれまでの形から一歩進んだ+αの存在がないと説得力もない。だから二人のラブストーリーが平行して進んでゆくのには何も不思議はない。
でも家族の物語も、二人の恋愛も、友情も、すべてあの時代のニューヨークに、そこに生きていた彼らにより観客をより近づける為の装置にすぎないんじゃないだろうか。
ラブストーリーと家族の物語が平行して進んでゆくから、観客はそれぞれ自分の立場に近い登場人物の視点からタイラーを見ることが出来る。実際私が一番共感できたのはピアース・ブロスナンだったし、20代の観客にとってはアリーやエイダンの視点から見るのが自然。タイラー自身の視点で映画を見られたら最高だけれど。

じゃあ何がメインなのか。

あるひとつのテーマを考えるとき、すべての場面が無駄なくつながるように感じる。

・突然殺される母親、
・ガンジー、モーツァルト、
・授業中のアリーの台詞、
・タイラーの喧嘩、兄の死、
・エイダンの提案、
・妹のいじめ、
・二人の父
・映画の中の女性たち

これらはすべてキーであり、メタファーだ。一見関係ないように感じるガンジーも、影絵の鳥も実はつながっている。

冒頭から全編を通して何度も何度もしつこいくらい形を変えて描かれるエピソード。
そしてあのラスト。


言うまでも無くこの映画の全編を通して描かれているのは「暴力」だ。ただキューブリックみたいに暴力そのものを描くというより、主眼は理由や結果、影響にあるように思える。
私が映画の中でのエピソードを「暴力」以外の言葉で言い換えるとしたら「極端な解決方法」というのが一番適当だと思う。この映画の中の登場人物はみなそんな「極端な解決方法」の被害者であり、加害者だ。

そして映画は10年前のある事件で始まる。残された父親と娘は10年後対照的な姿で描かれる。
おもしろいのは、10年後の主人公たちの現在において最初に「極端な行動」に出るのは主人公なのだ。

リメンバー・ミーの中で一番不完全で、頼りなく、もがいている主人公のタイラー。
そこがまた面白いところだ。

リメンバー・ミーを見に行く

(1) 前書き、ネタばれアラート及び基本情報

2011年8月20日。
5月13日にこの映画の日本公開日が決まって以来、私のこの夏のメインイベントはこの日だった。もうひとつのロバート・パティンソンの映画「Water For Elephants」(WFE)が中止になって、落ち込んだ分、よけいこの日が待ち遠しくて、待ち遠しくて。
どうしても細かい部分が(実際みたら大事な部分も)わからなくて、でも私のつたない英語力ですら、この映画がすごく作りこんであるのがところどころに感じられて、日本語で見るのをとっても楽しみにしていたのです。
ロバート・パティンソンが出ていなければ、海外DVDも買っていなかっただろうからきっと今回新宿まで行ってもいなかったと思う。でも彼の映画ということを抜きにしても日本語字幕で見る前から、まわりにお勧めしたい映画だった。

当日、初日2回目の上映を見に新宿へ。
字幕で見たら・・・とんでもなかった!!
エンドクレジットを眺めながらしばし放心状態。1時間半の帰路も、そのあと数日も、ずーっと映画のいろいろなシーンが頭から離れなくて、気がつくと仕事の手が止まっている。
それくらい私には衝撃的な映画だった。今は衝撃的というより完璧な映画って感じだ。

この感動を誰かと共有したくて、リメンバー・ミーの感想を書いたサイトやレビューを探してネットの海を徘徊するも、同じような感想を書いている人が居ない。いや実際には3人ほど、「きっと同じだな」と感じるサイトは見つけたのだけれど、それらはみな試写会の感想だったためかネタばれを気にして詳細がないから確信が持てない。ただその方達のこの映画に対する評価は5段階の5ないし、10段階の7(10段階で3か4の評価の映画が大半の中)というすごい高評価だった。
うん。同感。私なら5段階の10つけちゃう。

一方あの衝撃のラストのせいか、「あれはいらないんじゃない?」とか「なんであのラストで終わるのか解らない」とか「唐突すぎる」という感想もかなりある。
実際昨年4月に全米で公開された当初も批評家たちのレビューはかなり辛口なものばかりで日本語のリメンバー・ミーのwikiの「評価」を見てもそれがわかる。

高評価をしている有名(らしい)な批評家も、ラストに関しては「Then there's a perfect storm of coincidences to supply the closing scenes. That's what I object to. (ラストには反対だ)」と書いてある。source


でも私の評価は先にも書いたように「完璧に5つ星」。すべて納得な上に、すべて好みだった(笑)
なかなか感想を共有できる人がいないから(独りで見に行ったし)すごくすごく欲求不満だ。
どうしても吐き出したい。


ということでブログを作ってしまったよ!!]



この後感想が続きますが、レビューとか感想とかネタばれとかいう生易しいものではないです。
もう以下を読んだら映画見なくても良いくらいの勢いで書きますので、映画を見ていない方、予備知識が欲しくて来られた方はこれ以上は見ないで下さい。

特にこの映画は予備知識なしで見てもらいたい。
そして衝撃を受けて欲しい。

お金を払って映画やDVDを見て他人の解釈で感動しても意味ないです。これ読んだらきっと自分の解釈で見られなくなります。
それくらいタイトルにも書いた通り「紐解く」とか「考察」とか「解説」とかそんな感じで、もうバラバラにしてしまっています。だから映画を見た後で、「どうしてあのラスト?」とか思った方や、他の人の感想を見てみたいという方だけ見てください。
もともと推理小説好きで伏線とかメタファーとか構成とかいろいろ深読みが好きなので「それは考えすぎ!」な感想です。これから先に進む方、お覚悟を(笑)

まずは備忘録を兼ねた基本情報を

Remember Me(2010.4/US/113min)
リメンバー・ミー(2011.8 JP)

監督      アレン・コールター
出演      ロバート・パティンソン/エミリー・デ・レイヴィン/クリス・クーパー/レナ・オリン/ピアーズ・ブロスナン
脚本      ウィル・フェッターズ
製作      ニコラス・オズボーン トレヴァー・エンジェルソン
製作総指揮 キャロル・カディ ロバート・パティンソン
ロケ地     ニューヨーク