ヒューマンドラマ?いやそれ以上の作品 | Before the dawn

ヒューマンドラマ?いやそれ以上の作品

It doesn’t fit into any genres.  Source
「どのジャンルにもはまらない作品だから」 

ロバート・パティンソンがこの映画をやりたかった理由のひとつとしていくつものインタビューでそんな事を言っていた。
実際今回映画を見た感想としても、どういうストーリーとして見ていたかによって観客の反応はまったく違ったものになったみたいだ。アメリカではこの物語をなぜか「ラブストーリー」とカテゴライズしてプロモーションしていたから、余計辛口な評になってしまったのだろう。あれはやっぱりラブストーリーではないと思う。
でも彼が言っていたとおり、実はヒューマンドラマと言うにも違和感がある。ラブストーリーとしてみるよりはマシ、でもヒューマンドラマとして見てもやっぱりしっくりこない。
実際私が思うには、この映画の家族の物語は映画を通しての装置のひとつであってメインではないと思う。タイラーとアリーの物語もしかり。二十歳前後の若者の話に恋愛のひとつも無いのではおかしいし、タイラーという青年の変化を描く際、やっぱり家族+友人というそれまでの形から一歩進んだ+αの存在がないと説得力もない。だから二人のラブストーリーが平行して進んでゆくのには何も不思議はない。
でも家族の物語も、二人の恋愛も、友情も、すべてあの時代のニューヨークに、そこに生きていた彼らにより観客をより近づける為の装置にすぎないんじゃないだろうか。
ラブストーリーと家族の物語が平行して進んでゆくから、観客はそれぞれ自分の立場に近い登場人物の視点からタイラーを見ることが出来る。実際私が一番共感できたのはピアース・ブロスナンだったし、20代の観客にとってはアリーやエイダンの視点から見るのが自然。タイラー自身の視点で映画を見られたら最高だけれど。

じゃあ何がメインなのか。

あるひとつのテーマを考えるとき、すべての場面が無駄なくつながるように感じる。

・突然殺される母親、
・ガンジー、モーツァルト、
・授業中のアリーの台詞、
・タイラーの喧嘩、兄の死、
・エイダンの提案、
・妹のいじめ、
・二人の父
・映画の中の女性たち

これらはすべてキーであり、メタファーだ。一見関係ないように感じるガンジーも、影絵の鳥も実はつながっている。

冒頭から全編を通して何度も何度もしつこいくらい形を変えて描かれるエピソード。
そしてあのラスト。


言うまでも無くこの映画の全編を通して描かれているのは「暴力」だ。ただキューブリックみたいに暴力そのものを描くというより、主眼は理由や結果、影響にあるように思える。
私が映画の中でのエピソードを「暴力」以外の言葉で言い換えるとしたら「極端な解決方法」というのが一番適当だと思う。この映画の中の登場人物はみなそんな「極端な解決方法」の被害者であり、加害者だ。

そして映画は10年前のある事件で始まる。残された父親と娘は10年後対照的な姿で描かれる。
おもしろいのは、10年後の主人公たちの現在において最初に「極端な行動」に出るのは主人公なのだ。

リメンバー・ミーの中で一番不完全で、頼りなく、もがいている主人公のタイラー。
そこがまた面白いところだ。