声を失ったTの病棟へ、下咽頭ガン | Tへ

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ブラックタイガーに濯ぐ .◦☆* 。*◦*~♪

緊急で彼の証明書のコピーが必要だった

週に1回限りで僅か3時間の荷物の受け渡し場では

貴重品を預かって貰えない

面会も出来ないし困ったと思ったら

Tが看護師さんにコピーを預けたから

自分のいる階の受付で受け取って欲しいと連絡をくれた

彼に渡す書類や下着を持って駅まで歩く

暑くてマスクの内側から汗が噴き出て苦しい

梅雨が明けたら更に暑くなるのだろうなと

日傘を置いてきた事を悔やむ

ローカル線の車内はガラガラに空いていて涼しくて気持が良い

それでも降りるのはあっと言う間で

再び病院まで歩くと汗だくに

日頃、運動不足な私には良いことだけれど

暑さが身に応える

行ってもTに逢えずに

ただ荷物を渡して受け取り帰るだけ

術後の彼の姿を見たのは

手術当日にオペを終えた後の眠っている姿だけ

その後、声を失った彼を目にしてはいない

手術当日は、まだ穏やかに見えた彼の眠る表情と傷跡

でもきっと翌日からは相当腫れて

きっと目を反らしてしまうほど酷い状態になっている

そういう手術の後を目にして

ショックを受ける身内を病院側は

沢山見てきている事と思う

今回はウイルスの影響で

面会完全禁止だけれど

病院側の配慮もあるのではと考えたりもする

サンダルで歩いてきたので靴擦れが出来て痛い

気にせず歩き続ける

途中に小さな野菜直売所がある

安くて大きなナスが目に止まり食べたくなる

煮浸しにしてキンキンに冷やしたら

美味しいはず

Tに食べさせてあげたい

そんな事を思いながら病院の中へ

彼の入院している階へエレベーターで進む

降りて受付へ向かう途中に彼の居る部屋がある

廊下には誰も居ない


とっさに何を思ったか私は

Tの入院している部屋の扉を開けた

奥はカーテンで仕切られている

その向こうにTがいる

少し泣きそうになりながら部屋の奥へと進んだ

カーテン越しに中を覗くと

看護師さんの後ろ姿が見えた

そしてベッドに横たわり上を見上げている

彼の姿が見えた

思わず声を出しそうになったけれど

黙ってそっと後ずさりして部屋を出た

Tのキラキラした瞳を、しっかりと目に焼き付けて

受付へと向かう

荷物の受け渡しを終えて後は帰るだけ

再びTの病室を横目に通り過ぎる

その後は

駅に向かわず自宅までの長い長い道のりを

ずっと歩いて帰った

靴擦れが黒ずむほど酷くなったけれど

列車に乗って帰るいつもの道のりが寂しくて

時間をかけて歩き家路へと向かった

途中寄ったスーパーで買物をするのも

哀しかった

彼と過ごした時間や場所へ

1人で向かう度に寂しさがこみ上げてくる

何度も何度も涙ぐみながら

田植えを終えた田舎道を1人歩き続けた

そう言えば何処かで聞いた話

虫に産まれることは幸せなんだって

喜びも悲しみも怒りも何もない虫は

ただ単に生きるために存在しているだけで

人間の様な複雑な感情を持たないから

むしろ多くの感情を知る人間の心は繊細で複雑だから

時として自分で管理できなくなることも

だから虫は人間からすると単調で気楽

人間と虫を比べるのは大差があり過ぎるけれど

私は人間に生まれてきて

たとえ今、辛くても

良かったと言いたい

言えたらいいのにと思う

後日、再びTから写真が送られてきた

パンパンに腫れていた首がスッキリして

気管孔のカバーも外されていた

真っ赤に腫れた傷跡が

まるで火傷の跡のように痛々しかった

ようやく枕で寝られるらしい

ただ声が出ない分、やりとりに苦労している様子だった

看護師さんも多忙だから

ブギーボードの彼の筆談を待っていられない

電気式喉頭も傷口がまだ不完全で

口の動きを上手く読み取れないらしい

沢山のもどかしさはあるけれど

1番心配なのは術後の合併症や後遺症

どうか何事もなく無事であって欲しい

最後に届いた彼の写メには

うつろな表情の彼が写っていた

瞳も半分しか開かず正気を失った様子が気がかりだった

眼瞼が垂れ下がり何とか頑張っているけれど

相当、辛い状態なのが解る

何本もある命の琴線の僅か1本を辛うじて残して

必死で生きてくれようとしている感じさえ伝わる

今のTはヨレヨレで力がないけれど

きっと日々良い方向へ向かってくれると信じて

私は祈るばかり

ガンと言う病気は今の時代

多くの治療の選択肢があり

彼は根治するために大手術に挑んだ

手術しても安易に良かったとは言えない

その後の心の状態や身体の状態は

それ以前とは大きく異なり

手術による身体への負担も非常に大きい

日々夜になると熱が出ると連絡があった

これも傷口を治すために身体が戦っているためで

体内のタンパク質も大量に失われ

白血球も減少する

術後は身体や血中の多くの細胞が治るために

相当量失われていく

強い彼だけれど年齢的に

もう、こんな思いはこれきりで打ち止めにして欲しい

写真を目にして彼自身の過酷な思いが

ひしひしと伝わってくる

正しい選択とは何だろうと思う

私がいなければ

彼は、この手術を希望しなかったかもしれない

延命治療ではなく根治

そのために味わう苦痛は半端ない

もし自分が同じ立場だったら

無理だと思う

こんな手術に耐えられない

過去に舌ガンの手術で声帯が半分麻痺して元の声を失った彼が

東京の大きな病院で手術しても声は完治せず

関西の専門病院でヒアルロン酸を打ち少し良くなっても

結局は元の声には戻らなかった

それが今回は呼吸を妨げていた声帯を

丸ごと失うことに


「手術したらラクになるかな」


私は、それまでのTの様子を見てきているから

確実に言えると思ったのは

取った方がラクだということ

もう声帯麻痺で呼吸が続かず話し辛い状態から解放され

誤嚥もなくなる

長年、彼を悩ませてきた声帯を失っても

もっとラクに生きられるのは確かだと思った

もちろん日々のケアに時間を要するし

お金も掛かるけれど

それも歯磨きと一緒と思えば大きな問題ではない

吸引と吸痰の機械は全てTが予め購入して

家にあるから大丈夫

彼は何でも自分で先走ってやってくれるから

私は凄く助かっている

何しろ何も解らないから彼の指示に従うだけ

ある意味とても頼もしい

こんな感じで看護師さんにも指示しているのが解る

少しヤキモチを焼いてしまうけれど仕方がないこと

いま

半分以上

精気を失っているT

どうか無事でいて欲しい

それが私のエゴであったとしても

生きて欲しい

ふと思うけれど

まさか、こんなに1人の人に夢中に真剣になれる自分

ちょっと変わり者かもしれないけれど

私は彼を救いたい