アーサーが部屋を出て行ってから、私はメイドに食事の後片付けをお願いして、リビングのソファーに腰掛けた。

「もう一杯、紅茶をいかがですか?」

メイドが声をかける。

「有難う、でも・・・・・・・後でいいから、珈琲をお願い」

春蘭が、自分の意思であんな行動を起こしたとは、とても考えられない。

春蘭が私を見る目は・・そう、「恋」などというものではない。

相手が、男だろうと、女だろうと、「恋心」は、目に現れる。
そして、春蘭には、見えない壁のようなものを感じていた。
明らかに、私で無い「誰」かを守るかのように・・・・・・・・・

春蘭を、あのまま私が、抱いてしまったら?

亜莉亜は、どうするだろう・・・・・・・
動揺し、演奏会を辞めると言いだすかもしれない。
それが狙いなら・・・・・・・・そう、亜莉亜が言いだせば、「得」をする人は?

演奏会が中断されて、「得」をする人はいない。
じゃあ、私と亜莉亜の間を裂く事で、「得」をする人は?

私を手に入れたい人。
亜莉亜を手に入れたい人。
単に・・私が、邪魔な人。

アーサーの馬の事件、春蘭の件。
どれも、単発的な「事故」だろうか?

アレクにとって、亜莉亜は大事な「商品」だ。
何の形だろうと、私を取り込みにかかっている。
企業の一員なのか、何なのかはわからないけれど。

でも、アレクに対しての疑惑が、無いわけではない。

私たち二人を、あるいは、他の人を通して、「遠ざけたい」人間がいるかもしれない。

たとえば・・・亜莉亜の言う事はが本当だとしたら、男色関係にあるレオン、そして、自分の跡継ぎを狙う弟がいる。

逆に、アーサーにしてみれば、兄を失脚させたいと、ほんの欠片も考えていないとは思えない。
私を取り込み、兄の男色を暴露する事も出来る。

レオンは、明らかに私を邪魔ものだと思っているし、アレクと切れる事を何よりも恐れている。
彼らを結ぶものが、愛なのか、お金なのか、友情なのか、芸術なのか、それはわからないけれど・・・

そう考えると、レオンが糸を引いている線が濃いような気がするけれど、それは、あくまで「単体」としての駆け引き。

その「駆け引き」を、男性3人が、していたとしたら?

事態は、複雑に絡み合い、巧みにお互いの爪を、隠しあぅているとしたら?

ああ・・・そんな風に、疑り深い自分が、ときどき情けなくなる。

亜莉亜の、無邪気さ、一途さに惹かれてしまうのも、自分がとうに手放したものを、彼女の中にみているせいかもしれない。

亜莉亜・・・・・貴女に、会いたい。

会って、貴方を抱きしめたい。

柔らかな髪の毛の香り、滑らかな肌、華奢で壊れそうな体は、まだ少女のような面影を残し、白い肌が蒸気するときのあの美しさと、甘いため息。

亜莉亜の小さな蕾は、美しい「スイッチ」だ。
初めての時に、自分以外の女性の性的反応を目の当たりにした衝撃と、得も言われぬ快感。

体の快感ではない、自分の中のどこか解らない部分の温度とボルテージが上がるあの感触。堅くなった蕾を、可愛がるほどに手足を硬直させ、私の名を呼ぶ甘い声・・・・・

私を愛撫する、柔らかい舌と、細くて綺麗な指。
亜莉亜と愛し合うようになって、私は爪を短く切りそろえるようになった。

派手なネイルは、パーティの時だけ「付け爪」を使っていた。
そんな私の「変化」に、周囲は気付く事は無かった。

でも・・・・・・・・・・

もし、

亜莉亜がこのコンサートを終えて、一躍マスコミに躍り出た時に、私との関係は決して表に出してはならない。

同性愛に、友好的な国人など、ごくわずかだ。

亜莉亜の才能を、そんな偏見で葬り去る事・・・・・・・・・出来ない・・・そう思いながらも、亜莉亜が自分の傍らからいなくなる事など、考えたくもない。

だけど・・・・・・・・・・

もし・・・

そう、もし、二人の関係が暴露されたら?

メイドが速やかに、朝食の後片付けを済ませ、出て行った部屋のバルコニーへの窓を開ける。

眼下に広がる、パリ市内。

目の前を、優雅に群れをなして飛ぶ鳥達。

亜莉亜の翼を、折るような事が起きた時に、私は、潔く彼女から身を引く事が出来るだろうか?

鳴り響く、教会の鐘。

もしも、「神様」というものがこの世に居るのならば、祈りたい。

どうか、私から亜莉亜を取り上げないでください・・・。
そのためなら、私は何でもします。
きっと、どんな事でも・・・・・・・・。
「そう・・でも、私の語学力では、まだまだ心配だわ。」

「大丈夫さ。慣れるより、習え?あ、違う、習うより・・・何だっけ」

「ふふ・・『習うよりも、慣れよ』ね。アーサーの日本語の方が、ずっと私の英語よりも堪能だわ。」

「僕は、子供の頃から、日本語を習ってたからね。
その割に、大したことないけど。
語学は、まだまだでも、恵理のビジネスセンスは、万国共通だよ。
ミセス=マーガレットは、片言なら日本語を話せるけれど、多分、彼女はほとんど日本語は使わないと思うから、春蘭に比べたら、かなり不自由になるかもしれないけれど、我慢して欲しいって、アレクから伝言。それから・アレクから、君への贈り物も一緒に到着するらしい。
楽しみに・・じゃ、行ってくるよ」

アーサーはそう言いながら、私にハグをし、いつものように、両頬にキスをした。

「ええ・・・気をつけて。」

「ん・・・・・恵理の香水のトップノートをかぐのは、初めてだ」

抱き寄せられたままの姿勢で、そうささやかれたときに、少し、胸がどきっとした。

あの、湖の事故での事が、脳裏をリフレインし、少し頬が赤らんだのを自分で感じて、一瞬の動揺。
だけど、反射的に

「早寝早起きすると、そういう特典もあるかもしれないわね」
と、答えていた。

「早起きは・・・えっと・・何得??」

アーサーは、わざと間違えたのかもしれない。
私の動揺を、感じないふりをして・・・

「私、春蘭に・・・・・・お別れを言った方がいいかしら?」

アーサーは首を振った。

「僕なら、しないね」
「春蘭の代わりに、アレクの教育係だった、ミセス=マーガレットがこっちへ来る事になったから、空港まで迎えに行ってくる。それから、春蘭を、ロンドン行きの飛行機に乗せるよ」

朝の朝食の席で、アーサーが言った。

昨夜は珍しく、『お遊び』は控えていたらしい。

「そう・・・」

私は、短くそう答え、ワゴンサービスで運ばれてきた朝食のセッティングが終わった、ダイニングテーブルに腰掛けた。

優雅な仕種で、私の椅子を引いてくれた男性従業員は、他に何か用は無いかと尋ね、丁寧な仕種で部屋を出て行った。

少し離れたところに、給仕の為のメイドが残っている。

「珍しいわね。昨夜は、遊びに出掛けなかったの?」
「ん?どうして?」

向かいの席に座ったアーサーは、ゆっくりと紅茶の香気を堪能しながら、尋ねた。

「朝はいつも疲れた顔をしているし、朝食を一緒に食べたのは、いつ以来かしら?」

私は、絶妙な味付けのスクランブルエッグの、バターの濃厚な香りに舌鼓を打つ。

何度食べても、美味しい。
この芳醇ともいえるバターの香りは、日本でも味わったことが無い。
そう言えば、亜莉亜は卵が苦手だと言っていた。
偏食が酷くて、特に野菜と卵と魚を苦手だと言っていた。
偏食だったのは、こんなに美味しい卵料理は、日本では味わえなかったからかもしれない・・・

リラックスすると、つい、何を見ても亜莉亜を思い出し、胸の奥がざわめく。

「昨夜は・・・アレクと電話会談だったから、酒は飲んでないけど、何だか疲れた。春蘭の事も聞いたよ」

「・・・・・・・・・」

亜莉亜へと思いをはせていた私の頭の中で、何かが閃いた。
「ミセス=マーガレットは、メイドではなく、アレクの教育係だった方なのでしょう?春蘭とは格が違うわ。」
「ああ・・・・・」
アーサーは、カップを置いた。

「メイドも来る。正しくは、ミセス=マーガレットと、新しいメイド」

「二人?リントン家は、人材が有り余ってるのかしら?」

「さあね。僕にも、そのあたりはよくわからない。あの広い屋敷に、離れに・・・父が応援してる芸術家の卵を養ってる場所もあるし・・・使用人の数も、部屋の数も不明。だけど、ミセス=マーガレットはよく知ってる。」

アーサーは、もくもくと食事を進めながら言った。
「子供の頃から、僕は叱られるばっかりだったからね。『アレク様を見習いなさい』ってね。アレクは、子供の頃から、そつのない子供だったよ。僕は、そのあたりが・・・なんていうか・・・」

思わず、微笑がこぼれる。

「要するに、やんちゃだったのね。で、ミセス=マーガレットに、未だに馴染めない。だから、ミセス=マーガレットが来る事について、気が進まない。そうでしょ?」

「あ~どうして、恵理には、何もかもわかっちゃうんだろう。その洞察力には、恐れ入るよ。」

「アレクがよこすという事は・・・・貴方が心配だからかしら?それとも私?」

「どっちもだろう。」
アーサーは首をすくめて言った。

「春蘭が、馬鹿な事をしてくれたおかげで、とんだ災難だ」

「ふふ・・・貴方でも、苦手な人がいたのね。」

「僕?僕は、もともと、人間付き合いがあまり上手な方じゃない。アレクの方が、そつないよ。あ、女性は別だけどね。」

「そうみたいね。」

「昨夜は、アレクと電話会談だ。酔えないし、ふざけられない。出来の悪い弟だから、出来の良い兄は、子供の頃から苦手でね。」

「そう言いながらも、子供の頃の貴方は、いつもアレクの後ろをついていっていた記憶があるわ。」

私は、何度か、両親とリントン家の別荘で過ごした事を思い出しながら言った。
「そんな時期もあったのか・・・・・・・・・覚えが無いや」
アーサーは、そう言いながら、ナフキンを置いた。

「明日から、新しいカリキュラムになるらしいよ。いよいよ淑女教育から、仕事シフト。今日は、スケジュールは白紙だ。僕が、帰るまで、ゆっくり部屋でくつろいでいて良いよ。」