昨夕から横浜に出かけていた。相変わらずの人混みの多さにグッタリする。
そして気がつけば昨日は6月23日だった。
涙雨ぬぐい祈る 世代超え戦没者悼む 沖縄・慰霊の日
降りしきる雨の中、平和の礎の沖縄戦で亡くなった親族の刻銘に手を合わせる家族
=23日午前9時35分、糸満市摩文仁の平和祈念公園
「おびただしい数の住民を巻き込んだ沖縄戦の組織的戦闘が終結して74年。「慰霊の日」の23日、県内各地で慰霊祭が行われ、人々は思い思いの形で戦没者を悼み、島々は鎮魂の祈りに包まれた。雨が降りしきる中、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」には多くの戦争体験者や家族連れが足を運んだ。刻銘された戦没者の名をなぞったり、手を合わせたりして、戦争のない平和な沖縄を願った。
時折強い雨が降り足元が悪い中、糸満市摩文仁の「平和の礎」には早朝から多くの遺族や関係者が訪れた。刻銘板に集う親子やきょうだいは一緒の傘に入るなど、雨は平和を願う人々の距離を近づけた。沖縄全戦没者追悼式では平和を願う玉城デニー知事の宣言や児童の詩に賛同する拍手や指笛が沸き起こる一方、新基地建設を進める安倍晋三首相のあいさつには怒号が飛び交った。
娘と一緒に平和の礎を訪れた眞栄城嘉明さん(80)=浦添市=は父の嘉盛さんの刻銘板の前で泡盛をささげた。那覇署に勤めていた嘉盛さんは機関銃の部隊に配属され、伊江島で亡くなった。遺骨はなく、代わりに石ころを拾った。眞栄城さんは「よく那覇署に弁当を持って行った。剣道の特練員だった」と思い出す。娘の幸子さん(45)は嘉盛さんに会ったことはないが「生きていたらどんな人だったかな」と思いを巡らせた。
妹を亡くした玉那覇香代子さん(85)=西原町=は「遺骨もないから毎年、平和の礎に来て慰霊している」と手を合わせた。幼稚園児にしまくとぅばを教える活動に取り組み、戦争の悲惨さも伝えているが、改憲論議や沖縄への自衛隊配備などに危機感を抱く。「沖縄がまた戦争の時のようにならないか不安ばかりだ」と子どもたちの将来を案じた。
追悼式では、玉城デニー知事が平和を願う沖縄の思いを訴えた。集まった県民からは賛辞の拍手や指笛が沸き起こり、涙を浮かべて喜ぶ人もいた。大きな拍手を送った読谷村の男性(77)は「知事がウチナーンチュの肝心を大事にしていこうという意思がよく伝わってきた」とうなずいた。」 「琉球新報」より転載
そして相変わらず、アベシンゾウは心のこもらないコピペ文章を読み上げた。
席に戻る安倍首相(手前)を無視するかのように全く見ない玉城デニー沖縄県知事(中央右)
=23日午後0時9分、沖縄県糸満市の平和祈念公園で
「玉城氏が日本語で平和宣言を終えた後、締めくくり部分をウチナーグチ、英語の順で再び読み上げると、会場から拍手がわき、歓迎の指笛も鳴った。 沖縄県の玉城デニー知事は二十三日の沖縄全戦没者追悼式で、歴代知事で初めて日本語に加えて沖縄の方言「ウチナーグチ」と英語で平和宣言を読み上げ、国内外に平和への誓いを発信した。続いてあいさつした安倍晋三首相にはヤジが飛ぶ場面もあった。
締めくくり部分は、平和を愛する心を後世に伝える考えを強調した上で「いつまでも平和で安心した世界を皆で築いていかなければならない。県民と努力することを決意する」という内容。玉城氏は追悼式後、三つの言語で宣言した理由について「より多くの方々に令和元年、新時代沖縄の私の思いが伝わればと考えた」と記者団に説明した。
一方、安倍晋三首相があいさつに立つ際には、会場から「帰れ」と声が上がった。首相が沖縄の基地負担軽減に取り組む考えを示すと「ウソをつけ」「辞めろ」と大声が響いた。会場の平和祈念公園(糸満市)の入り口では「安倍NO」と書いたプラカードを持った市民の姿もあった。
安倍政権は昨年十二月、名護市辺野古沿岸部での米軍新基地建設に向けて土砂投入を開始。今年二月の県民投票で七割超が埋め立てに反対したにもかかわらず、工事を進めている。こうした姿勢に対する県民の憤りが追悼式の場でも示された形だ。」
「東京新聞」より転載