高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)最終処分場による町おこしと決別したはずの鹿児島県南大隅町(森田俊彦町長)の住民が、原子力ムラの誘いで核関連施設の視察ツアーに参加している実態が明らかとなった。
HUNTERの取材によれば、視察先は青森県六ケ所村。今年10月、複数の町民が森田町長を支持する町の有力者から誘われ、2泊3日程度の日程で、同村にある日本原燃の核関連施設などを視察していた。核ゴミ施設建設に向けた、地ならしの一環と見られている。
問題は旅行の費用で、ツアー参加者の大半が、旅費の出所について「分からない」「話せない」などと口を閉ざす状況。原子力ムラの黒いカネが、南国の町を蝕みつつある。
核関連視察ツアー、町長派が誘い
六ケ所村への視察が行われたのは10月中旬。町内の有力者Y氏の誘いに応じた6人が、2泊3日の日程で、日本原燃の再処理工場や放射性廃棄物の管理施設などを見学したという。ツアー初日は、鹿児島空港から羽田に飛び、都内で原子力ムラの関係者と見られる人物による講話を聞いてから新幹線で青森に移動。同市内に1泊し、翌日から核関連施設の見学を行っていた。2日目は三沢市泊まりで、3日目に三沢から鹿児島まで航空機利用で帰途についていた。この間、原子力ムラの関係者が「添乗員」(ツアー参加者の話)のように付き添っていた。
あるツアー参加者の話によれば、航空券などは視察に誘った町の有力者Y氏が一括して手配。Y氏に送られてきた航空券が、それぞれの参加者に配られる仕組みだったという。旅費の出所について聞いたところ、ある参加者は「分からない。全部、Yさんに任せていた」。誘いの手口は「六ケ所に行ってみないか?ただで行けるから」というものだったという。6名のうち3名は核ゴミ処分場の誘致に反対だというが、「一度見てみたいという思いがあった」「興味があったのは事実」などとしている。
旅費の出所―「話せない」
六ケ所ツアーの取りまとめを行ったとされるY氏は、核ゴミ疑惑の中心人物である森田俊彦町長を支持する建設会社の幹部。町内自治組織のトップを務めており、多数の町民にツアー参加を呼び掛けていた。誘いを受け、断った町民も少なくない。Y氏にツアーの趣旨や旅費の出所などについて訊ねたが、六ケ所への視察については認めたものの、視察の趣旨や旅費の出所については「絶対話せない」としている。
核ゴミ巡る町内の動き
南大隅町は核ゴミ施設の誘致を巡って揺れ続けてきた。平成19年、町議会などの関係者が「高レベル放射性廃棄物最終処分場」の誘致に動き、町内は騒然に。23年には、誘致促進派の町民が議会に対し核ゴミ施設の誘致を促進する陳情書を提出し、誘致反対運動が高まりを見せるようになっていた。24年8月、政府が南大隅町を福島第一原発の事故によって発生した汚染土の処分地として検討していることを民放キー局が報道。直後に伊藤祐一郎鹿児島県知事(当時)が汚染土受入を否定したが、町長派は水面下で誘致実現への動きを続けていた。町では誘致反対派の住民らが集会などを通じて運動を展開。これを受けた町は12月、核関連施設の受入を否定する「南大隅町放射性物質等受入拒否及び原子力関連施設の立地拒否に関する条例」を制定し、事態の沈静化を図っていた。下が、同条例の全文である。
嘘つき町長の疑惑
条例制定で沈静化したかに見えた町内だったが、今度は「核ゴミ疑惑」の形で騒ぎが再燃する。平成25年、条例制定を主導した森田俊彦町長に、核ゴミ施設の建設を狙う東京電力関係者H氏に核関連視察誘致に関する公印を捺した委任状を渡していた疑いが浮上。見返りに、飲食接待を受けたり、モーターボートを譲り受けていたことまで明らかとなり、反対運動が激化する事態に――。
森田氏は当初、一連の疑惑について全面否定したが、後日、HUNTERの記者に証拠を示され一転して認めるという醜態を演じ、町内の批判が高まっていた。委任状問題を巡っては、TBSの報道番組で、町長が東電関係者とともに政府要人と会談した場面をスクープされている。
核ゴミ施設と縁が切れたはずの南大隅町で、なぜ今六ケ所ツアーなのか――。取材を進めたところ、核関連視察への嫌悪を薄めようとする原子力村や町長派による工作の実態が浮き彫りとなる。
核視察ツアー 旅費は全額“原子力ムラ”が負担
原子力ムラは、鹿児島県南大隅町(森田俊彦町長)での核ゴミ施設建設を諦めていなかった――。
核と決別したはずの南大隅町の町民が、青森県六ケ所村の核関連施設視察ツアーに参加していた問題。取材を進める中、建設会社の役員が、一昨年、昨年と町民の参加者を募って別の原子力関連施設を視察していたことが明らかとなった。背後に蠢くのは原子力ムラの中心である電力会社。旅費や現地の案内など世話の一切を、東京電力の関係者がまかなっていた可能性がある。
核視察は毎年 引率は町長派の建設業者
新たに分かった視察先は、茨城県東海村と北海道幌延町。東海村は、我が国の原子力発電発祥の地として知られ、現在は日本原子力発電の東海(廃炉作業中)・東海第二原発の他、「大強度陽子加速器施設(J-PARC)」などの原子力関連施設が集積する村だ。
一方、幌延町にあるのは国立研究開発法人日本原子力研究開発機構が運営する「幌延深地層研究センター」。高レベル放射性廃棄物の地層処分技術を研究開発する施設で、南大隅町で消えては浮かぶ核ゴミ処分場のモデルである。
原子力関連施設の視察ツアーに参加した南大隅町の住民によれば、昨年は東海村、一昨年は幌延を2拍3日程度の日程で訪れていた。町民らを核施設に連れ出していたのは、森田町長の支援企業として知られる地場業者「大村工務店」の取締役。町内にある自治会長会のトップを務めており、幅広く声をかけることのできる立場にあることから、原子力ムラの代理人になったと見られている。
ツアーにかかる旅費は、昨日報じた六ケ所村視察と同じく出所不明。ほとんどの参加者が、旅費を支払い元を知らされておらず、誰がツアーを主催したのか、まるで分らないのだという。必要な航空券などは、大村工務店の取締役が参加各人に渡していた。
背後に、闇の代理人と東電
森田町長に、東電関係者との核ゴミ疑惑が浮上したのが平成25年。核関連施設の建設推進派は、この騒ぎをよそに、原子力関連施設の視察ツアーを企画し、同町住民への地ならしを続けていたことになる。カネの力にモノを言わせる原子力ムラの手法だが、参加者などの話を総合すると、ツアー代金を支払ったり、視察の説明役として同行していたのは東電の関係者だった可能性がある。
六ケ所や東海、幌延などにある原子力関連施設は、どこも目を見張るような規模。いずれも安全性や地元への貢献を誇ってきた施設だ。原子力ムラは、視察を通じて町民を懐柔し、南大隅での核ゴミ施設建設に道筋をつけるのが狙いだろう。毎年視察を実施するのは、少しづつ理解者を増やし、施設誘致反対の声を減らすため。少人数でのツアーは、情報漏れを防ぐためだったと考えられる。事実、取材したツアー参加者たちは口が重く、「話せない」と下を向く町民も少なくない。
見落とせないのは、町長から核関連施設建設に関する委任状を受け取っていた会社社長H氏の動きだ。かつて、町民のツアー代を支払っていたのは東電の闇の代理人とされるH氏。町長との関係が知られてから表に出る機会を減らしているというが、前出・大村工務店の代表者をはじめ町長支持者と頻繁に会っていることが確認されており、背後に同氏の影がチラついているのは確か。ある電力関係者によれば、核ゴミ施設建設へに対するH氏の意欲は、少しも衰えていないのだという。H氏と東電による裏工作――闇の構図は何も変わっていない。森田町長は平成21年、H氏の自腹六ケ所ツアーに参加した町民らと東京で合流し、H氏から飲食接待を受けていたことが分かっている。
年度内にも核ゴミ施設の「有望地」公表
原発推進の姿勢を鮮明にしている安倍政権は、高レベル放射性廃棄物の最終処分場について、国の主導で場所を決める方針。これまで、原子力発電環境整備機構(NUMO)に任せてきた処分場の選定を国が行い、処分地の適性がある「科学的有望地」を、年度内にも公表する予定となっている。南大隅町は、経済産業省が狙う有力候補。有望地に指定される可能性は高い。
報じてきた通り、南大隅町は核関連施設の受入を否定する「南大隅町放射性物質等受入拒否及び原子力関連施設の立地拒否に関する条例」を制定している。現状では、核ゴミ施設の建設は不可能。町長も、表面上は条例を盾に「核ゴミ施設は造らせない」と主張している。
だが、一部に「条例撤廃」への動きもあるとされ、国が南大隅町を核ゴミ施設の「有望地」として公表した場合、騒ぎが再燃するのは必至の状況だ。南国の静かな町が、再び核の是非を巡る争いに巻き込まれようとしている。
「Hunter」より転載
金目の話が満載だぁ。
いくらくらいの金が飛び交っているんだろう。
行方の見えない核のゴミ最終処分場問題で、胡散臭い連中が札束を振りまきながら暗躍している。
その原資は、電力料金であったり、国民の税金だろうね。
静岡市の奥座敷、梅ヶ島温泉に出かけてきた。
「梅ヶ島温泉(うめがしまおんせん)は、静岡県静岡市葵区(旧国駿河国)にある温泉。県道29号の北端に位置し、山梨県との県境に近い秘境の温泉郷である。
1700年前に発見されたと伝えられ、武田信玄の隠し湯として使われたこともあった。近くに金山があった時代もあり、その頃は「黄金の湯」と呼ばれていた。
古文書による湯治記録で徳川家康、徳川秀忠の名が見られることから、江戸時代にはかなり有名な温泉地であったことがうかがわれる。当時は立地上、身延に近いことから甲州との峠越えの交易が盛んで、湯治客も甲州経由が多かったようだ。
江戸時代中期には良純親王が湯治し、その霊験ぶりに感激し、神社を開いている。(俗にいう三蛇権現、三匹の蛇に導かれて梅ヶ島温泉に到達したという言い伝え)三種の神器も、老舗旅館、梅薫楼のほか地元の民家に保存されている。現在は、源泉跡地に湯之神社として現存している。
幕末から明治にかけての湯治客には、清水次郎長、乃木希典の名が見られ、創傷や外傷に効能のある温泉として評価を得た。(第二次世界大戦時には帝国陸軍の保養施設となった)。
昭和の世になってからは、歌人の吉井勇が長逗留の時に「梅ヶ島遊草」を詠ったり、茂木草介が「太閤記」を書き上げたり、といった、文人達に好まれる湯治温泉地となった。」
(ウィキペディア)
宿泊は「旅館いちかわ」
気さくで親切な女将が一人で切り盛りしているような旅館だが、梅ヶ島温泉はお湯が柔らかくて肌がヌルヌルになる。その風呂が良かった。料理も手作り感満載で工夫を凝らしたものが並び多いに満足した。
山屋としては、標高差1000㍍ほどの八紘嶺に登ってきた。
前回は天候悪化で途中で下山したが、今回はカミサンの足で往復7時間、無事山頂を踏んだ。
冠雪の富士山や南アルプスの山々が快晴の下、よく見えた。
正面の割れ目は大沢崩れ。
葉が落ちたお陰で山頂から赤石岳が見えた。