歴史に残る岩殿山・稚児落とし/里山にしてちょっとした岩場もあり楽しい山だった。 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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山の会メンバーで、山梨百名山岩殿山に登ってきた。

大月市内を見下ろす岩山で、テレビドラマ「真田丸」でも、織田勢に追い詰められ逃げ落ちようと武田勝頼が城主小山田信茂を頼って入城しようとするが、裏切った信茂に拒否され、最早ここまでと自害して、甲斐武田が滅亡する様が描かれていたその城があった岩山だ。

ウィキペディアによれば、以下のように書かれている。

 

「岩殿山城(いわどのやまじょう)は、山梨県大月市賑岡町にあった日本の城標高634メートルの岩殿山に築かれた山城

甲斐国都留郡国衆小山田氏居城とされ、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた。山梨県指定史跡(指定名称は「岩殿城跡」)

 

岩殿山城の築城時期は不明であるが、『甲斐国志』では小山田氏の本拠である谷村館都留市谷村)の詰城説を取っている。『甲斐国志』に先立つ天明3年(1783年)の萩原元克甲斐名勝志』でも同様の見解が取られており、江戸後期には小山田氏による要害説が認識されていたと考えられている。一方で、近年は岩殿山城を谷村館の詰城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏による相模との境目の城として築かれたとする説もある。

 

甲州街道の通過する大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)に武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入った。その後は武田氏が相模北条氏駿河今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、岩殿山城は国境警備の役割を果たしていたと考えられている。

 

岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのままにしている。全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。

 

信長公記』『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、武田家臣・小山田信茂新府城韮崎市中田町中條)から武田勝頼を岩殿山城へ迎えるが、勝頼一行が郡内領へ向かう途中で信茂は勝頼から離反し、勝頼一行は天目山(甲州市大和町)で自害した(天目山の戦い)。『理慶尼記』では信茂が勝頼に籠城を薦めた岩殿山城を「みつからか在所」と記している。小山田信茂は勝頼滅亡後に織田氏に出仕しているが、甲斐善光寺において処刑され、郡内小山田氏は滅亡する。

 

同年6月には本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、郡内領へは後北条氏が侵攻する。甲斐では甲府盆地において三河国徳川家康北条氏直が対峙するが、徳川・北条同盟の成立により後北条氏は甲斐・郡内領から撤兵し、甲斐国は徳川家康が領した。江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定していたといわれ、江戸時代にも岩殿山城は要塞としての機能を保った。」

 

急峻な岩山の山頂に築かれた典型的な山城だ。

今は何もないが、大月市内が眼下に見下ろせるところで、中央線や中央自動車道からも見える。数年前の冬、雲取山からの帰宅時に奥多摩湖から凍結した峠を越えて走ってきた時、下を通る139号線から見上げたことを想い出した。

 

 

山頂からの大月市内

 

 

岩殿山全景 こんな山の上に城があった

 

 

 

稚児落とし方面への縦走路には何カ所か岩場があり、一寸したスリルを味わえる。

 

 

稚児落とし。いささか過激な名称だが、謂われについては下記のような説があるそうだ。

 

 

「岩殿山ふれあいの館」で説明されている「落城の道」の内容は以下の通り。

 

1582年3月、武田勝頼は築城して間もない新府城を焼き払い、岩殿城に向かって敗走していた。岩殿城城主の小山田信茂は織田方の命令で甲斐善光寺に出頭する事態だった。岩殿城は北条勢によって攻撃されており、小山田氏の残された婦女子は、平時より整備されていた「落城の道」を通り脱出することになった。

 

堅手門から大手門、築坂峠、兜岩、呼ばわり谷の大岩壁(稚児落しの前の呼び名か?)へと来た時に、夫人が背にしていた子供が泣き出し、泣き止まないどころか他の子供も泣き出し、敵に発見されてしまった。夫人はやむを得ず、子供らを岩壁上から落とし、雁が腹摺り山(大菩薩山塊のひとつ)方面へ落ち延びた。子供らに最後水を飲ませたところを「水くれ堂」、子供らを落とした150mの岩壁を稚児落しと呼ぶようになった。

 

雁が腹摺り山に向かった夫人は峠で従者の小幡と別れ、受け取ったつづらを持ち、小和田郷の東光寺へと急いだ。この峠は村人からつづら峠と呼ばれている。東光寺は小山田氏縁の寺で、夫人はこの寺の床下で自刃したという。」

 

 

 

巨大な岩の上で休んでいる人たちが見える。

この岩の上を通過して、下山した。