【複製】一度外国で暮らしてみたかった  第一話 アバヨニッポン | パドックに魅せられて

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競馬歴45年。
馬ほど美しい動物はいません。

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私は1999年4月27日から2001年6月19日まで韓国ソウルで暮らしました。この2年2カ月という人生初めての異国での暮らし…これは私にとって5年にも7年にも感じる密度の濃い長い時間になりました。外国で暮らすということ…これは、当たり前ですが、自分が外国人になるということです。ずっと緊張感があって、帰国するとあっという間に時が過ぎて行きました。緊張感のない自分の国での暮らしの中で、あの韓国ソウルで暮らしたことを、まるで浦島太郎になったような感覚で思い出します。私の人生にとってあの韓国での暮らしが、私に人生の中で大きな、かけがえのない体験だったことは間違いないでしょう。しかし、その体験は未だ私だけの思い出のまま私の中に留まっています。韓流ブームを迎え、多くの日本人が韓国に関心を持ち時代が変わろうとしている今、私の韓国語学留学の体験をふり返って総括し、私が韓国ソウルで暮らした2年2カ月の意味を考えながら体験記を書こうと思い立ちました。

1998年私は46歳、I木材という会社で働いていました。仕事は配送で体力勝負のきつい労働の毎日でした。収入はいい方でしたが、ただ40代も後半にさしかかってふと考えました。(このまま定年までこの会社でずっと我慢して働くのか、それとも自分のやり残したことを思い切ってやるのか)と。会社はずっと辞めたかったのですが、しかしいざ辞めるとなると、次の仕事、人生設計を練り直さなければなりません。かなり真剣に考えました。それで結局仕事を辞め、自分のやり残したことをすることにしたのです。一度外国で暮らしてみたかったのです。そして外国語を一つ習得してみたかった。死ぬまでに外国語を一つでも覚えたかったのです。それが私のやり残したことの一つでした。

次の仕事は日本語教師をすることに決めました。あてはありません。ただ日本語を勉強したい外国の人に日本語を教えたいという情熱だけはありました。どこに行こうかと留学先を考えたのですが、日本語を勉強している人が多いのは中国、韓国、オーストラリアなど。それで最終的に中国にするか、韓国にするかしばらく考えました。これからの経済を考え、自分の留学後の仕事のチャンスを考えれば明らかに中国でしたが…私は韓国語学留学を選択しました。なぜ韓国を選んだのか?ひと言でいえば「回り道したくなかった」のです。私はもう46歳でした。自分が本当に一番暮らしてみたい国に回り道せずに行こうと、韓国語学留学を決断したのです。

私は若い頃から韓国に注目していました。いや子供の頃から日本社会の〈朝鮮人蔑視〉に疑問を持っていいたと言っていいでしょう。(どうしてなんだろう?)と思っていたのです。物心ついて、私は日本社会の〈朝鮮人蔑視〉に参加しないことにしたのです。なぜ私はそういう選択をしたのでしょう?大人になるにあたってなぜ私はそういう選択をしなければならなかったのでしょう?この選択は日本社会に迎合しない生き方をするということを意味するのです。この社会に迎合するのなら〈朝鮮人蔑視〉にうなずき、相槌を打ち、自ら〈朝鮮人蔑視〉の発言をしなければならないでしょう。それをしないという生き方が私の選択だったのです。日本に生まれ育った方ならもう十分にご存じでしょうが、そういう生き方というのはこの日本社会では〈のけ者にされる〉という生き方なのです。たとえば1988年から勤め始めたI木材という会社で、私は見事に、強烈に〈のけ者にされる〉目に遭うことになります。何の理由もなく、まるで生贄にでもなるように、それは始まりました。たとえば、仕事が終わって事務所から帰る時に私の挨拶に一人も返事をしなくなりました。そうなると私も挨拶をしません。これが何年も続くのです。ある日、私の買ったばかり車のボンネットに大きな十字の傷が書かれていました。石で書いたのでしょう。書き方から見て左利きの人間が書いたであろうことはすぐわかりました。その人間は私の同僚です。一人では何もできない野郎ばかりですから、何人かとうすら笑いを浮かべながら、周りをきょろきょろしながら卑屈にやったのでしょう。あの時なぜ警察に連絡しなかったのか今でも悔やんでいます。こんな職場でのバカバカしい毎日が11年続いたのです。(もうこの人達のお相手をすることはないな)と感じていました。いい加減この国=日本に嫌気がさしていたのです。(外国に行ってみたい、外国に行って今までの自分の生き方が正しかったのか、間違っていたのかを検証してみたい)、私はそう考え始めていました。

私は1970年代から続いた韓国の民主化運動に注目していました。朴正煕独裁政権に対する学生、知識人、宗教家らの闘いを日本でずっと見ていましたし、それを支援する市民運動も少ししました。その中で在日朝鮮人・韓国人との交流もありましたし、朝鮮語も少しかじりました。日本と朝鮮の古代からの関係も少し勉強しましたし、知れば知るほど、日本が古代から現代まで朝鮮と切っても切れない関係であったかを強く思いました。いつか韓国に行って言葉を勉強して、韓国人と交流がしたい、在日韓国人・朝鮮人とハングルで話がしてみたい、そういう夢を持つようになって行きました。

私はとりあえず通信教育で『日本語教師養成講座』を勉強し、留学案内の本で調べてソウルの韓国語学校三つに英語で手紙を書きました。延世大学の語学堂、高麗大学の語学堂、カナタ韓国語学院の三校から全て返事がきて、入学案内、入学申請書が同封されていました。私は条件等いろいろ考え、民間のカナタ韓国語学院に行くことにしました。この学校を選んだ理由の一つは保証人が要らないことです。大学の語学堂はみんな韓国在住の韓国人の保証人が前もって必要なので、韓国にあてなどない私にはとても保証人を準備することなど不可能だったのです。私はカナタ韓国語学院に入学申請書を送り、1999年5月の入学が許され、入学の前に学費を納めてくれとの返事がすぐ来たのでした。

韓国にはもう10回ほど旅行で行っていたので、旅行ではカタコトの韓国語を使っていました。しかし学費を納めに行ったときに受けたクラス分けの試験では、見事に初歩=1級からスタートする事になってしまいました。独学なんてこんなもんですよ。この学校は1級から6級まであるのですが、少し喋れた私は(2級ぐらいからかな?)と思っていたのですが、しかし旅行会話や、日本でのラジオのハングル講座の独学程度では、ほとんど何も身についてないのと同じだったようです。その頃の私の韓国語は、助詞の使い方さえまるで分かっていいようなレベルの低さだったのです。

カナタ韓国語学院で入学手続きをし、下宿を紹介してもらい、教科書とそのテープを購入して、私は一旦帰国しました。下宿は新村(シンチョン)というところにあるようでした。二食付きでひと月45万ウォンの一人部屋でした。私は日本から国際電話をしました。下宿の場所を聞くためです。電話は最初韓国人の女性が出ました。当然韓国語です。「韓国語できますか?」と聞いているようでした。私は「モッタムニダ=できません」と答えました。すると日本人留学生と思われる女性が電話に出て「何時何分に延世大学の正門前で下宿のアジュンマが大きいぬいぐるみを持って待っています」と伝えてくれ、私の外国暮らしの準備はすべて完了したのでした。

私は幸か不幸か独身でした。独身だからできたのかもしれません。それはよく言われましたが、情熱があったことも事実です。韓国へ行って、韓国語を身に付けて、日本語教師の仕事を必ず見つけるぞ!と考えていたのです。これから50歳を迎えるにあたって、日本語教師という仕事を最後の職業にして人生を送ろうと、そう考えたのです。韓国にずっといてもいいし、日本に帰って日本語教師をしてもいい、とにかくそれでメシを食っていこうと決断したのです。もし失敗しても…たとえ新聞配達をしてでも生きて行こうという覚悟でした。もうこんな国にはサヨナラしよう!アバヨニッポン!と言って、私は1999年4月27日関西国際空港を飛び立ったのでした。