僕が暴いたらまた怒られるのだろうが、京都アニメの作画力は、実は「勉強すりゃできる」レベルのものだ。

それは最近でも変わりなかったと思う。
 
まぁもちろん、東京は「こんな落書き描いてて恥ずかしくて死にたくならないのかな?」と思うくらいの超弩級ヘタクソばかりだから、全然いいのだが。
 
人体がどんな構造なのか、どう動くのか。
物理的に物はどう動き、変容するのか。
それを知って、真似て、描く。
実はそれ自体は、頑張ったら誰でもできることだ。
 
しかし、やはりと言っては何だが、「師匠」はそれを更に超えていた。
 
 
師匠とこんな会話をしたことがある。
「アニメは28〜35ミリレンズくらいが標準だと思った方がいいよ!」
「え?さすがにそれは広角すぎですよ!僕はやっぱり40ミリくらいないとダメだと思います」
 
僕はてっきりレイアウトの話をしているのかと思ったが、それが作画の話なのだと後で気付く。
 
 
これは何人かの関係者が証言していると記憶するが、彼の作画は「伸びる」のだ。
つまりパースが強調される。
 
しかしそれは最近話題のガイナックス一派(と言うのはさすがに刺々しいか)のような、これ見よがしな超広角なパース強調ではなく、非常に気付きにくいものだ。
おそらくディズニーなどカートゥーンの影響もあるのだろうが、そのカテゴリーでもない。
実際『AKIRA』『火垂るの墓』などの超リアル路線の作品に彼が重用されたのがその証拠で、そこでも彼の「嘘」は絶妙に利いたのだ。
「嘘」に見えないのだ。
 
そこに天才・木上益治の力量を僕は見る。
 
 
僕(に限らず京アニOB)が唯一不幸なのは、それが当たり前のものだと、入社時から刷り込まれてきたことだ。
東京に出たら師匠のような作画ができる人間などいない。自分も出来ない。
上手いアニメーターは数多いても、何か違うのだ。
 
恐らくOBの誰もが、それぞれの現場で「木上さんがいればなぁ……」と嘆いたことがあるだろう。
そしてそれは、まさに今京都アニメに突き付けられている、実に厳しく険しい課題なのだとも思う。
 
天は二物を与えずならぬ、天は二者を与えず。