もう結構あちこちで喋ったと思うが、木上益治氏。
僕が唯一「師匠」と呼べる人だ。
彼が「京アニクオリティ」の始祖だとか、絶対妥協を許さなかったとか、シナリオ無視しろ!とかいう話は散々したので、他の話を。
『MUNTO』の続編を作ろうという話になった時だ。前作は僕はとても大好きな、上出来の作品だと思った(今も思っている)のだが、やっぱり完全なインディーズで、全然話題にならなかった。
特にストーリーが難解だ!訳わかんね!と周りから言われ、次は外から脚本家を招聘することになった。僕は演出補佐として、まぁちょっとずつ茶々を入れる役に徹した。
しかし師匠と脚本家の息が全然合わない。
師匠も、議論になるとめっぽう弱い人で、その場では「いいですねぇ」と言ってしまうが、終わった後で僕と個人的に話すると「ダメだー!」とうなだれてしまう。
脚本家の方もどっちもどっちだった。打ち合わせで彼が語ったアイディアは凄く生き生きしてていいのに、シナリオとしてあがったものにはそのアイディアは欠片もなく、あの打ち合わせは何だったの?くらいの訳の解らんものになっていたのだ。
何度かのそんなやり取りを経て、個人的な話し合いの時、師匠が脚本家を降ろしたがっていることを知った。
でも本人はそれを言う勇気がない。
そこで僕はこう言った。「解りました。僕が話します」
次の打ち合わせの時、書かれたシナリオとアイディア出しの時の話とが全然違うというのを、僕がメモってた議事録をもとに精細に説明し、当時は僕も敵なし怖いものなしの「マッドドッグ」の時代だ、ついでにシナリオ自体のアラと矛盾を逐一洗い出し、臆することなく一気にまくし立て、論破してやった。
まぁ所謂「鉄砲玉」みたいなことをやったのだ。
脚本家先生は大激怒して帰ったが、周りのお偉方は、「あ、こりゃ駄目だ」と察してくれたらしい。
こうして脚本家先生には降りていただいたのだが、脚本はどうなったかと言うと、
「山本くん、一緒に書いてよ」
は?師匠、アンタ一人で書けばええですがな!
散々そう言って拒んだのだが、前作の評判もあって、師匠ひとりに任せるのは皆どうしても不安だったようだ。
しょうがないから、半分こした。
しかも後半部分が僕に回ってきた。なんで後半?
僕は既に予想がついていた。
これ、全部直されるだろうな。
それでも、我ながらいいものができた。
クライマックスもあり、ドラマもあり、人物関係も明快だ。
でも、案の定原型をとどめず直された。
だからクレジット上にも脚本に僕の名前はない。
なんか最初から最後まで「鉄砲玉」だったなぁと思うが、まぁ脚本の実践経験もできて、それはそれでいい思い出。
それに、良く「作画監督が全部直すなら最初から自分で描けばいいじゃん」と言われるが、あれは違う。
どんなに下手でも、「下敷き」があった方が、直しは早いのだ。
それくらい、0から1を作るというのは難しい。
まぁ僕の脚本はその「下敷き」になったんだろうな、と思って、今は満足している。
もうひとつ、京アニを出る、最後の日だ。
当日、社長は本当優しかった。
持っていけるものは全部持ってけ、と、特別ボーナスみたいなものも渡してくれた。
それから身辺整理、机を片付けて、なるべく誰とも会わずに、去ろうと思っていた。
なんだかんだと入社以来一番お世話になったUさんのところには挨拶に行ったかな。
もう帰ろうか、と思っていたら、廊下で師匠とバッタリ会った。
ああーしまった、と思ったが、即座に非常階段のところに連れてかれた。
めっちゃ怒られるだろうなぁ、と覚悟していたが、彼はひとこと、目を潤ませながら、これだけ言ってくれた。
「京都アニメは、君には器が小さすぎる」
最後までカッコいい人だった。
カッコいいと言うのかな、僕の育て方を良く知っている人だったと思う。
最後の言葉も、「お前はこのまま養殖育ちじゃダメだ!大海で荒波に揉まれながら生き抜いていけ!」という意味だったのだと思う。
まぁお陰様で、今その大海で溺れかけているのですがね・・・。
お世話になったというだけでなく、アニメ史に絶対刻印しなければならない名前として、木上益治という人物はこれからも語り続けようと思う。
まぁ、師匠はこれ読んだら絶対怒ると思うけどね(笑)。
「日本アニメ100年」が予想通りこれっぽっちも盛り上がってなくて、この業界の脆弱さを露わにしているが、せめて本当に使命感と良心をもって今年活動しようとしている人がいるなら(いないだろうけど)、是非こういう名前をどんどん掘り起こしていってほしい。
『MUNTO』の続編を作ろうという話になった時だ。前作は僕はとても大好きな、上出来の作品だと思った(今も思っている)のだが、やっぱり完全なインディーズで、全然話題にならなかった。
特にストーリーが難解だ!訳わかんね!と周りから言われ、次は外から脚本家を招聘することになった。僕は演出補佐として、まぁちょっとずつ茶々を入れる役に徹した。
しかし師匠と脚本家の息が全然合わない。
師匠も、議論になるとめっぽう弱い人で、その場では「いいですねぇ」と言ってしまうが、終わった後で僕と個人的に話すると「ダメだー!」とうなだれてしまう。
脚本家の方もどっちもどっちだった。打ち合わせで彼が語ったアイディアは凄く生き生きしてていいのに、シナリオとしてあがったものにはそのアイディアは欠片もなく、あの打ち合わせは何だったの?くらいの訳の解らんものになっていたのだ。
何度かのそんなやり取りを経て、個人的な話し合いの時、師匠が脚本家を降ろしたがっていることを知った。
でも本人はそれを言う勇気がない。
そこで僕はこう言った。「解りました。僕が話します」
次の打ち合わせの時、書かれたシナリオとアイディア出しの時の話とが全然違うというのを、僕がメモってた議事録をもとに精細に説明し、当時は僕も敵なし怖いものなしの「マッドドッグ」の時代だ、ついでにシナリオ自体のアラと矛盾を逐一洗い出し、臆することなく一気にまくし立て、論破してやった。
まぁ所謂「鉄砲玉」みたいなことをやったのだ。
脚本家先生は大激怒して帰ったが、周りのお偉方は、「あ、こりゃ駄目だ」と察してくれたらしい。
こうして脚本家先生には降りていただいたのだが、脚本はどうなったかと言うと、
「山本くん、一緒に書いてよ」
は?師匠、アンタ一人で書けばええですがな!
散々そう言って拒んだのだが、前作の評判もあって、師匠ひとりに任せるのは皆どうしても不安だったようだ。
しょうがないから、半分こした。
しかも後半部分が僕に回ってきた。なんで後半?
僕は既に予想がついていた。
これ、全部直されるだろうな。
それでも、我ながらいいものができた。
クライマックスもあり、ドラマもあり、人物関係も明快だ。
でも、案の定原型をとどめず直された。
だからクレジット上にも脚本に僕の名前はない。
なんか最初から最後まで「鉄砲玉」だったなぁと思うが、まぁ脚本の実践経験もできて、それはそれでいい思い出。
それに、良く「作画監督が全部直すなら最初から自分で描けばいいじゃん」と言われるが、あれは違う。
どんなに下手でも、「下敷き」があった方が、直しは早いのだ。
それくらい、0から1を作るというのは難しい。
まぁ僕の脚本はその「下敷き」になったんだろうな、と思って、今は満足している。
もうひとつ、京アニを出る、最後の日だ。
当日、社長は本当優しかった。
持っていけるものは全部持ってけ、と、特別ボーナスみたいなものも渡してくれた。
それから身辺整理、机を片付けて、なるべく誰とも会わずに、去ろうと思っていた。
なんだかんだと入社以来一番お世話になったUさんのところには挨拶に行ったかな。
もう帰ろうか、と思っていたら、廊下で師匠とバッタリ会った。
ああーしまった、と思ったが、即座に非常階段のところに連れてかれた。
めっちゃ怒られるだろうなぁ、と覚悟していたが、彼はひとこと、目を潤ませながら、これだけ言ってくれた。
「京都アニメは、君には器が小さすぎる」
最後までカッコいい人だった。
カッコいいと言うのかな、僕の育て方を良く知っている人だったと思う。
最後の言葉も、「お前はこのまま養殖育ちじゃダメだ!大海で荒波に揉まれながら生き抜いていけ!」という意味だったのだと思う。
まぁお陰様で、今その大海で溺れかけているのですがね・・・。
お世話になったというだけでなく、アニメ史に絶対刻印しなければならない名前として、木上益治という人物はこれからも語り続けようと思う。
まぁ、師匠はこれ読んだら絶対怒ると思うけどね(笑)。
「日本アニメ100年」が予想通りこれっぽっちも盛り上がってなくて、この業界の脆弱さを露わにしているが、せめて本当に使命感と良心をもって今年活動しようとしている人がいるなら(いないだろうけど)、是非こういう名前をどんどん掘り起こしていってほしい。