場所 東京都千代田区永田町1丁目
旗本赤松氏江戸屋敷跡 |
約1306坪あったそうです。
江戸の古地図を見ていて見つけてしまった。
たまにお世話になっている国立国会図書館の近くにあったとは…
昨年訪れた赤坂見附交差点を外堀跡から見る。
青山通り大山道の始点。
赤坂御門。
赤坂門から江戸城内へ入る。
富士見坂の南側には出雲松江藩松平氏上屋敷があった。
東京女学館発祥の地でもある。
懐かしの東京メトロ赤坂見附駅9a出口。
富士見坂を登った先で首都高が分岐。
この辺りは古地図とは道路の位置が違っている。
分岐した辺り、駒井小路に北面して旗本赤松氏の屋敷があったと云う。
高台のいい所に立地してますね~
全国町村会館辺りかな。
紀州名物手ごね寿司や、比較的安価でかれい煮付が食べられる。
失礼しま~す!
特に屋敷跡を示すものは見つけられませんでした。
下湯江に陣屋を置いていたと云う旗本赤松氏のことははっきりと解っていない。
また、たまたま古地図で見つけただけで、他にも屋敷があったか解らなかったです。
(おまけ)
図書館にあった古地図。
<1673年頃>
赤松七条家の石野氏貞は今の兵庫県三木市別所町石野に居館を構え石野氏を称した。
子の氏満は徳川家康に仕え、上総国の下湯江に陣屋を構え、旗本に列した。
石野八兵衛は通称。
この頃は旗本石野赤松家3代石野範恭の頃だろうか。
<1682年>
旗本赤松氏屋敷は駒井小路に北面している。
駒井小路は斜め向かいにある駒井氏の屋敷があったことに由来。
<1691年>
北を見ると、平川天神の北に広い空き地が出来ている。
火事の影響かな?
<1692年>
広い空き地の一部が馬場になっています。
<1697年>
空き地に町屋が出来始めました。
<1704年頃>
空き地はすっかり町屋に変わりました。
<1716年頃>
今度は平川天神の南側に空き地が出来ました。
宝永5年(1708)家号を石野から赤松へ復したので、「石野八兵衛」が「赤松右衛門」に変わっています。
<1736年>
空き地に馬場が出来ました。
この頃は4代赤松範主の頃。
<1827年>
8代赤松範徳の頃。
<1835年頃>
9代赤松範忠の頃。
安政6年(1859)に外国奉行に就任。
慶応4年(1868)隠居。
<1861年>
まだ9代範忠が健在だが、10代範静も活躍。
範静は幕末の慶応3年(1867)に軍艦奉行を務めた。
江戸時代を通じずっと同じ場所に屋敷がありました。
お隣も一緒。