登城日 2021年11月10日(水)晴
難易度 ☆☆
場所 群馬県甘楽郡甘楽町国峰
村上源氏赤松氏流小幡氏の居城 |
武田騎馬軍団赤備え小幡氏の居城です。
古い航空写真。
小幡陣屋の西に国峰城の外濠があった。
外濠跡へ。
説明板。
外濠の一部がハス池となって残っている。
外濠跡を東から見る。
昭和50年の農業構造改善事業により埋没
ハス池は古代ハスだそうです。
ハス池から国峰城を見る。
ここから城域とは大城郭だなぁ~
国峰城鳥観図を拡大。
外濠跡を西から見る。
正面の山にある紅葉山公園はまだ完全に紅葉していなかった。
西側を見る。
すっかり埋没している。
平城部を見渡す。
大手門はこの辺りにあったのかな?
バイクに乗って一気に登城道入り口へ。
駐車はこの辺り。
この先へ車で進むと轍に嵌って脱出出来なくなったり、路肩へタイヤが脱輪したりするので要注意です。
現在の登城道はここを左折して進むが、直進しました。
城集落。
民家が建っている所も曲輪。
館が建ち並んでいたのだろう。
ここを一旦真っすぐ進むと、
かなり広い曲輪がありました。
戻って左折して登って行く。
小さい曲輪が段々になっていました。
御殿平の北側の藪の中。
何か遠くから不気味な音が聞こえて来ました。
藪を抜けて岩盤に突き当たって左折。
この辺りは水の手。
丘城部の中心、御殿平へ。
国峰小幡氏偲之碑。
小幡氏歴代事績。
赤松氏のことは書かれていませんでしたが、赤松(山田)則景の子氏行が児玉氏の婿養子となり、その子吉行が奥平氏の祖となり、崇行が小幡氏の祖となったと云う。
御殿平の先端から下の曲輪を見る。
草茫々で良く解からないのが残念。
先端から御殿平を見渡す。
御殿平を振り返る。
御殿平の碑。
左は登城道。麓から登ってくる所。
右は本丸への道。
進む。
右手に竪堀。
横堀のような道を進む。
尾根の先端のような所。
この先を進むと南へ進むと、堀切があり、その先に物見台があるらしい。
虎口のような、堀切のような、ただ道を造る為に削ったような…
進むと分岐点。
そのまま進むと搦手経由で浦根集落へ出る。
右の階段を登って行く。
ただ登って行く。
竪堀を見る。
竪堀を真上から見下ろす。
帯郭。
さらに登って行く。
石が剥出になっていたので、一瞬石垣かと思った。
岩でした。
おっ、着いたかな?
まだでした
馬場のような細長い曲輪。
また帯郭。
扁額に「城山大権現玉串」と書かれた赤鳥居。
登って行く。
本丸到着!
城山大権現?
説明板。
縄張図を拡大。
虎口かな?
山城部の本丸は狭かった。
眺望もさっぱり。
水の手で聞こえた不気味な音が聞こえた。
本丸の西へ下りて行く。
バイク用スニーカーで登って来たので、ツルツル滑って危なかった。
堀切。
さらに西へ細長い曲輪が続いていた。
しかし、ここで不気味な音がかなり大きくなったので怖くなって引き返してしまった。
熊のいびきかな?
馬場のような細長い曲輪へ戻って来た。
坂が急なので、登る時より下りる時の方が怖かった。
御殿平へ無事生還!
農作業しているご近所の方から猪かもと教えてもらいました。
突進してくるとケガをするので要注意とのことでした。
南東にある宝積寺へ。
弘安3年(1280)には既に天台宗の寺として栄えていたと云う。
宝徳2年(1450)小幡実高が中興開基となり、茨城県東昌寺の即庵宗覚禅師を請いて曹洞宗として再興された。
小幡氏の菩提寺。
歴代の墓。
添碑。
菊女観音。
ここにも鷺草伝説に似た悲しい伝説が残っています。
番町皿屋敷の源流伝説だそうです。
天狗の腹切り石。
国峰城を見る。
遠くに赤城山が見えました。
甘楽の地名の由来には韓(渡来人)の居住地との説もあるらしい。
隣の吉井町にある上野三碑の一つ多胡碑。
羊太夫伝説が残る。
小幡氏は羊太夫の子孫とも云われている。
家紋は軍配団扇紋で児玉党と同じです。
図書館の本には、下記のようなことが書かれていました。
安芸国の住人赤松則清、則景父子が源頼朝に馳せ参じ、功により甘楽に領地を得たと云う。
赤松則景は北条義時の娘を娶り、その後佐用庄の地頭職を得て、子家範とともに赴任。
一方、甘楽には子の氏行が児玉行頼の娘婿(または赤松則景が行頼の娘を娶り、その子氏行が養子となったとも、その他諸説が多数ありました。)となり奥平氏、小幡氏の祖となった。
しかし、赤松氏が上州や安芸に領地を得たり、北条義時の娘を娶ったりするのは信憑性が無いとも。