場所 神奈川県鎌倉市小町3丁目10
鎌倉幕府滅亡の地です。
鶴ヶ岡八幡宮の南東、宝戒寺を南下した所。
小町3丁目3を左折。
坂を登って行きます。
【靑砥藤綱舊蹟】
太平記に拠れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕えて 引付衆に列(つらな)りし人なるが、嘗て夜に入り出仕の際、誤って銭十文を滑川に墜し、五十文の続松(松明)を購ひ、水中を照らして銭を捜し、竟(つい)に之を得たり。
時に人々、小利大損哉と之を嘲(あざけ)る。
藤綱は、
「十文は小なりと雖(いえども)之を失へば天下の貨を損ぜん。五十文は我に損なりと雖(いえども)亦(また)人に益す。旨を訓せし」
といふ。
即ち其の物語は、此辺に於て演ぜられしものならんと伝えらる。
昭和13年3月建
鎌倉市青年団
太平記に拠れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕えて 引付衆に列(つらな)りし人なるが、嘗て夜に入り出仕の際、誤って銭十文を滑川に墜し、五十文の続松(松明)を購ひ、水中を照らして銭を捜し、竟(つい)に之を得たり。
時に人々、小利大損哉と之を嘲(あざけ)る。
藤綱は、
「十文は小なりと雖(いえども)之を失へば天下の貨を損ぜん。五十文は我に損なりと雖(いえども)亦(また)人に益す。旨を訓せし」
といふ。
即ち其の物語は、此辺に於て演ぜられしものならんと伝えらる。
昭和13年3月建
鎌倉市青年団
橋は東勝寺橋。
大正13年(1924)に建造されたアーチ橋で「かまくら景観百選」に選定されている。
木が邪魔して良く見えなかった。
さらに登って行きます。
やがて左手に東勝寺跡が見えてきます。
説明坂。
【東勝寺跡】
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により、得宗(北条氏嫡流)家の氏寺として創建されました。
様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに、周辺の地形と一体となった防御のための城郭的な機能も持っていたと考えられています。
元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、幕府の最高権力者であった北条高時は、東勝寺で一族郎党とともに自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
平成8・9年(1996・7)に行われた発掘調査では、幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡と、それを覆う10数cmの炭の層が発見されました。
焼失後まもなく、東勝寺は禅宗寺院として再興され、室町時代には関東十刹に列せられましたが、16世紀後半ごろには途絶えたと考えられています。
平成24年3月
鎌倉市教育委員会
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により、得宗(北条氏嫡流)家の氏寺として創建されました。
様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに、周辺の地形と一体となった防御のための城郭的な機能も持っていたと考えられています。
元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、幕府の最高権力者であった北条高時は、東勝寺で一族郎党とともに自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
平成8・9年(1996・7)に行われた発掘調査では、幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡と、それを覆う10数cmの炭の層が発見されました。
焼失後まもなく、東勝寺は禅宗寺院として再興され、室町時代には関東十刹に列せられましたが、16世紀後半ごろには途絶えたと考えられています。
平成24年3月
鎌倉市教育委員会
東勝寺跡は立入禁止。
さらに奥に進みます。
腹切り郭に建つ石碑。
【東勝寺舊蹟】
元弘3年5月、新田義貞の鎌倉に乱入スするや、高時、小町の邸を後に、父祖累世の墓所東勝寺に籠り、150年来殷賑を極めし府下邸第肆廛の今や一面に焔煙の漲る所となるを望見しつつ、一族門葉870余人と共に自刃す。
其の北條執権史終局の惨憺たる一齣(いっせき)は、実に此の地に於て演ぜられたるなり
大正7年3月建立
鎌倉町青年会
元弘3年5月、新田義貞の鎌倉に乱入スするや、高時、小町の邸を後に、父祖累世の墓所東勝寺に籠り、150年来殷賑を極めし府下邸第肆廛の今や一面に焔煙の漲る所となるを望見しつつ、一族門葉870余人と共に自刃す。
其の北條執権史終局の惨憺たる一齣(いっせき)は、実に此の地に於て演ぜられたるなり
大正7年3月建立
鎌倉町青年会
手前に腹切やぐらの注意書きがあります。
宝戒寺の管理する所なんですね。
東勝寺跡を見下ろす。
腹切やぐら。
早々に退散。
東勝寺は鎌倉北条氏が滅亡した後、藤沢市へ移転したと云う。
一度行ったら十分な東勝寺跡でした。