登城日 2013年 8月11日(日)晴時々曇
難易度 ☆
場所 北海道函館市弥生町2
函館市の名の由来の居館跡。
函館ハリストス正教会から元町公園へ向かう途中のお土産屋さん。
「ソフトクリームどうですか?」の声に誘われて入ってしまった。
店名を見て吃驚!
この付近にかつて河野政道の宇須岸の館があり、その形が箱のようだったので「箱館」と呼ばれるようになり、明治2年9月30日に函館に改められたという。
この辺りは傾斜地。
こんな所に四角い箱のような居館があったのかな?
元町公園へ。
国の重要文化財である旧函館区公会堂。
説明板。
中の様子。
1階。
2階。
宇須岸河野館跡の元町公園を見下ろす。
居館跡の遺構はありませんでした。
旧函館区公会堂を後にする。
元町公園へ。
函館四天王像。
説明板。
旧北海道庁函館支庁庁舎。
旧開拓使函館支庁書籍庫。
箱館奉行所跡。
この辺りは函館の中心だった。
元町公園を後にする。
基坂を下る。
坂の途中の市立函館病院跡地。
ここに説明板があります。
【宇須岸河野館跡】
享徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約126m)、南北28間(約100m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾濠をめぐらしていたといわれる。
この「河野館」に由来して、「函館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。)
永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。
次いで寛保元年(1741)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。
箱館奉行庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。
函館市
享徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約126m)、南北28間(約100m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾濠をめぐらしていたといわれる。
この「河野館」に由来して、「函館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。)
永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。
次いで寛保元年(1741)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。
箱館奉行庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。
函館市
跡地へ入るとペリー提督来航記念碑。
ペリー提督。
説明板。
ペリー提督来航時の足跡絵図。
黒船つつじ。
基坂を振り返る。
函館山の麓、海を見下ろす高台に位置していた。
JR函館駅。
北海道の玄関口の駅名が城の名前だったとは!
(おまけ)
函館山からの夜景。
行き帰りも撮るのも大変でした。