白鳥古墳(名古屋市熱田区) | 三日月の館

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場所    名古屋市熱田区白鳥1-2

 

死後、白鳥となった日本武尊が舞い降りたと云う。

 

まずは、源頼朝の生誕地がある熱田神宮境内の西側。

生誕地の南側に愛知共同馬車会社が建てた「白鳥御陵 是より西2丁」の碑が建つ。
付近の町名も「白鳥」。

碑の西側に熱田神宮末社影向間社(ようごのましゃ)があります。
祭神は熱田大神。

西へ2丁行くと法持寺の境内だった宮中学校がある。
学校敷地の東側の交差点辺りにも鳥居が建っていたらしい。
学校の北側に白鳥古墳があります。

説明板。

【白鳥古墳(白鳥御陵)】

この古墳は6世紀初めごろの築造と推定され、全長約74mの前方後円墳であるが、前方部と後円部の東部分が削り取られて原形が損なわれている。
古くからこの古墳は、日本武尊の御陵との説があり、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び来り、降り立った地であるところから白鳥御陵と名付けられたといわれる。

名古屋市教育委員会

 

白鳥古墳入口。

脇に本居宣長の歌碑が建つ。

白鳥古墳。

東側に移転後の法持寺があるが撮り忘れた。
法持寺の山号は白鳥山で元は宝持寺と言い、白鳥陵の宝物を護持する寺である事から命名されたと云う。
白鳥古墳は法持寺が管理していたが、明治9年(1876)に熱田神宮に、戦後は名古屋市へ移管されている。
(『尾張名所図会』名古屋都市センターHPより抜粋 転載不可)

ここから北へ約200mの所にある熱田神宮公園へ。

公園の中に断夫山古墳があります。

面積は白鳥古墳の3倍。

説明板。

【断夫山古墳】

東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、後円部の直径80m、前方部の高さ16.2m、後円部の高さ13mの規模を誇る。
前方部と後円部のくびれ部に「造り出し」と呼ぶ小丘部が西側にある。
後円部は三段築成であったと思われ、一段目に須恵質と土師質の円筒埴輪を巡らしていた。
この古墳は6世紀始め、尾張南部に勢力をもった尾張氏の首長の墓と考えられている。
昭和62年、国の史跡に指定された。

名古屋市教育委員会

 

立派な古墳。

後円部。

周りは堀で囲まれているが、戦後築造されたものらしい。

断夫山古墳は、熱田神宮公園の敷地も含めてかつては熱田神宮の管理下にあったが、戦後は名古屋市へ、昭和55年(1980)に愛知県が所有するところとなっています。
両古墳とも尾張氏や熱田神宮と関わりがあるようです。

 

(おまけ)

 

ここから一気に南下し、熱田神宮境内西側、白鳥小学校の南西へ。
熱田神宮摂社青衾神社があります。

天道日女命を祀る。

再び熱田神宮境内の西側へ戻る。
白鳥小学校の南に笠亭仙果出生地。

その先に、熱田神宮の宮大工だった岡部又右衛門家跡がある。

説明板。
織田信長の安土城、豊臣秀吉の方広寺大仏殿、徳川家康の名古屋城の建築に携わったそうです。

熱田神宮南交差点から南西を見る。

この辺りから名鉄神宮前駅前にある[熱田・宮宿] 散策マップが役に立つ。

南西角には円福寺がある。

室町幕府6代将軍足利義教が富士遊覧へ向かう際立ち寄ったと云う。

今度は熱田神宮南交差点の北東へ。

熱田神宮参道。

蔵福寺境内に説明板。

宮宿の時の鐘があったそうです。

通りを挟んで反対側には林桐葉宅跡。

説明板。

隣はひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒」の支店。

食べたかったが人一杯で断念。
予約しておいた方が良さそう…

国道1号線を少し東へ。

熱田神宮摂社松姤神社。

民家に囲まれた狭い参道。

あつた蓬莱軒の裏辺りに鎮座。

日本武尊の妻、宮簀媛命を祀る。

国道1号線を渡って宮宿へ向かいました。

 

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