足利義教の墓 | 三日月の館

三日月の館

yahoo!ブログのアメブロ版です。

赤松満祐邸で殺害された室町幕府6代将軍足利義教の墓は3ヶ所伝わる。

①崇禅寺

場所 大阪市東淀川区東中島5丁目-27-44

 

足利義教の首は、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置されたと云う。

 

最寄駅は阪急京都線崇禅寺駅。
住宅街へ入って行くと崇禅寺がある。
寺伝では天平年間(729~749)に行基が創建したと云う曹洞宗の寺。
しかし、建物は近代的だった。

イメージ 1

本堂裏の墓地へ。
まず、崇禅寺馬場、達城兄弟の墓。
浄瑠璃、映画などの題材となった仇討の話が伝わる。

イメージ 2

その奥に足利義教の首塚がある。

イメージ 3

こちらが足利義教の首塚。
京を退去した赤松満祐父子は、京の管領細川持之に使者を送り「足利義教の首は摂津中島にあり」と注進しようとしたが、使者が切られてしまったので首をこの地に放置したと云う。

イメージ 4

隣には細川ガラシャ(明智光秀の娘玉子)の墓。
足利義教の首塚がある関係から細川家の菩提寺の一つとなっていた崇禅寺。
関ヶ原の戦いの前哨戦で石田三成の人質となることを拒否して死を選んだ細川ガラシャ。
その遺骸の一部を宣教師のオルガンチーノがここに埋葬したと云う。

イメージ 5

このお墓が一番有名かな。

②播磨安国寺

所在地  兵庫県加東市新定851
山号   東渓山
宗派   臨済宗妙心寺派
本尊   十一面観世音菩薩
創建   暦応2年(1339)
開基   固山一鞏

 

足利義教の首は崇禅寺ではなく、赤松満祐が居城書写坂本城へ帰る途中で播磨安国寺に埋葬したと云う。

 

最寄駅は神戸電鉄粟生線小野駅。

イメージ 6

天神行き神姫バスに乗り「新定安国寺口」下車。

イメージ 7

交差点方向へ進む。

イメージ 8

「(足利義教の首塚)→」との表記。
交差点を右折。

イメージ 9

交差点を右折すると、「嘉吉史蹟 東渓山安国寺 是より南500m」の碑が建つ。

イメージ 10

少し行ってまた小さな石碑の建つ所を左へ。

イメージ 11

すぐ「安国寺→」の看板の建つ所を右折し坂を登って行く。

イメージ 12

坂を登った所に山門。

イメージ 13

参道。

イメージ 14

また山門。

イメージ 15

木魚の上でうたた寝するお地蔵さん。
何とまぁ~

イメージ 16

本堂。
この播磨安国寺も、足利尊氏が後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために日本全国68ヶ所に建てた安国寺の一つである。

イメージ 17

本堂前の庭園。

イメージ 18

本堂を囲む堀?の北側に足利義教の墓がある。

イメージ 19

墓所入り口。

イメージ 20

説明板。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_60723176_36?1316565130_

そして、足利義教の首塚。

イメージ 21

赤松満祐は、足利氏ゆかりの播磨安国寺で足利義教の盛大な葬儀を行ない首塚に埋葬したと云う。

③十念寺

場所 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町13

 

足利義教の首は、播磨安国寺を訪れた相国寺長老瑞渓周鳳によって、あるいは7月1日に鹿苑院蔭涼軒主季瓊真蘂が書写坂本城を訪れ京へ持ち帰られたと云う。

 

元は、永享3年(1431)に後亀山天皇の皇子であった真阿のために足利将軍義教が誓願寺(元誓願寺小川)に住房宝樹院を建てたのが始まり。
天正18年(1591)現在地に移転。
今出川通から寺町通を北へ上った所にある。

イメージ 22

説明板。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_60723176_37?1316565130_

山門。

イメージ 23

戦国時代の医師、曲直瀬道三の墓所があるという。

イメージ 24

本堂は、建築家としても知られる大阪・一心寺の高口恭行住職の設計により平成5年に建てられた。

イメージ 25

そして、本堂奥の墓地にある足利義教の墓。

イメージ 26

幕府側の足利義教の葬儀は、7月6日に管領細川持之によって等持院にてひっそりと行なわれたと云うが、墓が何故十念寺にあるのかは解からなかった。
前身の宝樹院が足利義教建立というのが関係しているのでしょう。

 

(おまけ)

 

所変わって静岡県浜松市にある西伝寺。
JR浜松駅から東へ約2km行った所にある。

イメージ 27

境内の西、住宅地の一画に何と足利義教の墓がある。

イメージ 28

残念ながら鍵が掛かっていて墓参出来ない。
説明板によると、義教の乳母西光尼が遺髪を郷里のこの地に持ち帰り弔ったことに由来。

イメージ 29

駅から北へ1km行った所に鎮座する浜松八幡宮。

イメージ 30

境内にある「颯々(ざざんざ)の松」
永享4年(1432)富士山遊覧時にこの地に立ち寄った足利義教が「浜松の音はざざんざ…」と謡ったことに由来。
また、この歌が浜松の地名の由来となったとも。

イメージ 31

浜松の地名は平安時代中期の資料に記載されているようで、この説は眉唾物のようです。